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中込遊里の日記ナントカ第73回「エライのはいつでも」

(2014年4月4日執筆)

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「雪」三好達治
太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。

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小学校の教科書にも載っているこの詩を評して、「民の目線を忘れてはならない」とかいう意味合いのことを言った人がいる。その評をどこで読んだか、誰だったか、覚えていなくて調べようもなくて本当に失礼極まりないのだが、とにかく、私は、「ああ、本当にそうだなあ」と全面的に同意したのだけど、その評は、おおよそこういう内容だった。

三好達治は、庶民の目線で物事を見ている。雪がただ降り積もっているということを書いたこの2行の詩が、こんなにも温かく私たちに感じられるのは、高みの見物で偉そうに詩を書かずに、どこにでもいる人間である「太郎」「二郎」の住む家の窓の目線で物事を捉えているからである。

(もう一度、出典先に当たることができればもっと詳しくまとめられるのだが・・・私の印象でまとめてしまい、口惜しい。)

三好達治の「測量船」に収められた「雪」という詩は、短いからこそ、多くの解釈や批評があり、これ以外の批評も「雪」の本質を捉えたものがいくつもあるのだろう、と思うのだが、私は、この「庶民の目線を忘れてはならない」という言葉にグサリとやられて、「ああ、本当にそうだなあ」と一目惚れして胸に収めたのである。

ところで、私の育った「夜の樹」という劇団は、10代から70代までの個性的な俳優集団なのだが、幅広い年齢層の先輩方に教わったことのひとつは、「エライのはいつもサラリーマンや主婦たちだ」「演劇は偉ぶっている学者には作れない」ということだった。「演劇が世界を啓蒙する」「演劇で正しい思想を観客に広める」という時代の流れのあった60年代に、自身の演劇観を培ったであろう世代が立ち上げた劇団なので、その時代に生きた人ならではの観念なのだと思う。だけど、当時20歳の私にも、おおいに納得できるところがあったし、そして、それは、否応なく、演劇人としての私の血肉となっている。

もひとつ、ところで、先日、ドイツ文化センターで、舞踊家ピナ・バウシュのドキュメンタリーを見た。演劇とダンスの堺を越えた前衛的な舞台作品を作り、世界中で愛されているダンサーであるピナ・バウシュが言っていた言葉に、またしても、「ああ、本当にそうだなあ」と、やられた。

「私たちはいつでも、休日ではなく、平日の町を大切にしています」という意味合いの言葉だ。平日の町では、疲れた顔をした労働者がバス停に並ぶ。人生は華々しい舞台だけではない。むしろ、休日より平日の方が一週間には多い。舞台の仕事に日々まみれていると、そのことを忘れがちになってしまう。だけど、本質は、そこに、平日の町にこそあるのだ。ピナ・バウシュのような、前衛的なアーティストから、その言葉が出るのは、重い。ズシンと来る。

一方、「なんだか、おかしいぞ、違うよなあ」と思ったことも、最近、ある。テレビ番組を通じての、ある芸人の話である。数年前から、若手芸人の登竜門と言われる、「○○グランプリ」がいくつか種類を並べて賑やかに放送されているが、それに出演した芸人、それも、賞を取れなかった芸人の文句がスゴイ。「審査員見る目ないやん、死ねや!」というような内容である。(ちなみに、関西弁なのはその方が雰囲気が出るからです)

その芸人が言う文句には、「スタジオでお客さんにめっちゃ受けてたやん!客に受けることがすべてやないんか!偉ぶりやがって、クソ審査員!」・・・つまり、お客さんの前ではとても受けていたのに、なぜ自分が賞を取れないのだ、という、至極真っ当な文句なのである。

至極真っ当だから、マスコミもこの芸人を擁護して、「審査員は適当な奴らが多い云々」などと遺憾の意を示していたわけだけど、私は、「なんだか不毛だなあ、虚しいなあ」と思った。

そもそも、コンクールというのは、一般の観客のためにあるものではない。専門家が集まり、芸の問題点を探り、芸の過去と今と未来について考え、芸人が将来育っていくための場であるべきだ。そこへ、素人である観客の評価を加えすぎると、困ったことになる。

やはりそこは素人、その場の笑いは面白がって受け入れても、明日には飽きてしまう。何時の世も、民衆は本当に飽きやすい。それでいいのだ。それが世間なのだから。世間はそうでも、玄人の芸人がそうでは困る。一般観客に目線をすっかり合わせていたら、あっという間にお遊戯会、素人の趣味になってしまうだろう。そうなればそうなったでも別にいいのだけど、文化は廃れてしまうことは間違いない。

だから、こういうことを、三好達治への評や、ピナ・バウシュの言葉と、一緒くたにしてはならない。

お笑いの例を出したけれど、演劇でもダンスでも、何一つ変わりはない。「批評家には受けなかったけど観客は笑ってくれたし、満足」などと言う演劇人がいるが、それだけで終わってしまってよいのか。本当に演劇の力はそこ止まりなのか。

真に優れた作品は、批評家や一般観客の堺をなくし、その与えられた役割を捨てさせて、一人の人間として立ち返らせ、人間の心に否応無く届くものなのだと信じる。そのためには、人間を見つめることに他ならぬ。その「人間を見つめること」が、三好の「民の目線」だし、ピナの「平日の町」なのだ。

ことに、私の世代は、若いから、早く有名になりたいと焦ってしまうし、生きていけないからお金も稼ぎたい。そうすると、観客に受けることや、自分の手法を自慢することが、第一の目的となりがちになってしまう。だけど、芸術の本質はそこにはない。それを忘れてしまうと、道半ばで息切れしてしまう。焦るからこそ、本質を忘れずに、丁寧に芸を磨いていかなければならない。肩書ではなく、人間なら誰もが持つ、その感性や生きる営みが何よりも「エライ」のだ。

※トップ写真:演劇組織夜の樹「やぶにらみのアリス」(2004年)より。右が中込遊里

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