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中込遊里の日記ナントカ番外編「リヤ王稽古場報告(3)」2019/9/3



2020年2月9日・11日上演の「物狂い音楽劇・リヤ王」に向けて、日々感じたことや思ったことを記そうと思い、書き始める。3回目。

「手放す」というキーワード

いわゆる「名言カレンダー」というのだろうか、なんらかのありがたい言葉が書いてある日めくりカレンダーに、「天候や人の気持ちなど、自分では変えられないもので悩まないようにしよう。ただ手放す。」というようなことが書いてあるのをある日職場で見て、納得し、感銘を受け、その時たまたまモヤモヤしていた私はさっそく実践してみた。

(誰も見てなさそうな場所で)“手放すポーズ”をしてみた。ハーッ!と声を上げながら、両手をパーにして前に突き出す、というもの。そうしたら予想以上にスッキリした気がした。

何しろ、声が出やすい。そもそも、やってみたらわかるが、大きな声でハーッ!と言うのは気持ちがいい。さらにそれに手をつけると声がよりいっそう出やすい。解放感がある。運動後の爽快感に近い。

ということを、俳優たちに伝えてみて試しに一緒にやってみたところ、ちょっと気持ちいいね、ということになった。

稽古開始前に必ず10回ほど「ハーッ!!!」と何事かを手放してから稽古に入れば、いい稽古になるんじゃないかなと思った。はたからみれば怖い。

能楽堂に立つには、きっと日常の何事かをいったん手放さないといけないのだろうと思う。

シテ(能楽の主役のこと)には、舞台に出るまでに精神統一する時間とそれ専用の場所がある。「鏡の間」と言って、楽屋のようなものだが、控室というよりも、橋掛かりに出る直前に面をかけるための小部屋のようなもの。

シテはそこで面をかけ、普段の自分から少し離れ、ゆっくりと役になっていく。

それは、「自分を忘れる」とか「役が乗り移る」という言葉ではなく、生きているといろいろ出てくる心配とか悩み事とかお腹の中のモヤモヤといった日常を、「いったん手放す」という方が近い、と私は思う。

こうして、能役者は観客と宇宙とを出会わせる媒体となるのだ。

「ニュートラルであること」を説明しない

能楽堂で上演するので、衣装は白足袋が必須である。だから衣装プランをとっとと考えようということになり、試しに何かを着てみようということになった。

「コンテンポラリー能」という言葉を使いながら私は演出しているのだが、私が能楽の何が必要で愛しいと思っているかというと、その“ニュートラルさ”である。

所作や道具などすべてを簡素化し、想像力にゆだねる。声と和楽器のポリフォニーともいえる、なんともいえないうっとりした耳障り。能に立ち会う時、劇場というよりマイペースで見て回れる美術館にいるような気持ちに私はなる。

何かを強制されるわけでもなく、何かをプレッシャーに感じる必要もなく、たとえ心地よくて眠ってしまっても、なんとなくすべてを赦され、帰宅する時には実に贅沢な気分になる。

それは、能が持つ、すべてが計算つくされたニュートラルさにあるのではないか、と思っている。

その根幹の部分だけを移植して、現代劇にできないものだろうか。

さて、我々の「リヤ王」の衣装である。衣装を仕切っている劇団員の清水が、色々な案を考えてくれて見せてくれた中に、ちょっと巫女然としている、白やクリーム色のシンプルなパターンで組み合わせるプランがあった。

私は直感的にそれに拒否感を覚えたのだが、自分に意外だった。それはこれまでの鮭スペアレでかなりの回数採用してきた衣装案に近いものだったからだ。それが、今の私の目には、「ニュートラルさ(演出意図)を説明しすぎてるかも」と映ったのだった。

鮭スペアレは10年以上、廃墟みたいな場所やアトリエなど個性的な場所で公演を行ってきたのだが、今回初めて能楽堂という様々な制限がかかる場所を選んだことで、きっと、私の中の何かが押し上げられているな、と感じた。

(写真は2015年「ロミオとヂュリエット」小菅村公演のもの)

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