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中込遊里の日記ナントカ番外編「リヤ王稽古場報告(5)」2019/9/17

2020年2月9日・11日上演の「物狂い音楽劇・リヤ王」に向けて、日々感じたことや思ったことを記そうと思い、書き始める。5回目。

ひと月経ったから言葉にする

正式に稽古が始まってひと月経った。今のところ週に一回の稽古だからまだほとんど進んでいない気がするが、確実に4回は重ねた。準備期間も含めると、もう十二分にリヤ王に付き合ったような気持ちもなぜだかしている。

しかし、今日の時点でまだ上演台本は一文字も書いていない。何か別のことを優先させている私がいる。とはいえ、そろそろ焦ってきた。

それはさておき、ひと月経った。

だから、体を動かす前に、出演者たちとお話タイムを設けた。言葉でしっかりとコミュニケーションを取る。わかった気に、伝えた気にならない。というのが初心なのだ。

最近いよいよ看板っぷりが増してきた清水が、「自分が輝くことだけを考えるのではなく、場に対応しながら、相手役をしっかりと輝かせることを目指す」と言った。

「ハムレット(横浜公演)」から2度目の出演の田中くんは、これまでの経験上、日常を引きずって稽古に入ることがあまりよくない気がするので、稽古場に来て掃除をしてから稽古に入るルーティンを実践してみてる、と言った。

他のメンバーからは、「自信をつけたい」「常に探している」「幸せに死ねたらそれでいい」といった内容の言葉が出てきた。他にもたくさん話した。人はいつでも色々な形で悩むよなあ、と思った。

私は、目の前にあることを一番大切にするにはどうしたらいいんだろう、と、ここ最近常に思っている、ということを発言した。

会いたい人ややりたいこと、欲しいものがある。でも、世界はそれだけではない。すべてのものは無駄ではなく、大切なのだろうと思う。今目の前にあるものは、目の前にあるべくしてあるので、気もそぞろに別の欲しいものを考え切なく苦しくなるのは痩せた考え方なんじゃないかな、と思う。

しかし、それとは別に、何かを欲しいと思う気持ち、叶わなくて悲しく悔しい気持ちは、とても大切だとも思う。

執着することの美しさ

上埜が、シンプルに楽に生きたい、というようなことを発言した。

「私は人に期待しちゃいがちだから、会おうって言っていつ会うんだろう、とモヤモヤしたり、これをしたいっていってできなかったりするのが苦しいから、期待しないって思うと楽になるから、なるべく執着しないように」と。

その時は、そうだよな、確かに、人に期待すると苦しいよな、わかる、と思った。

後から、自宅で一人でそのことを思い出して、ああ、でも、執着するのも素敵かもしれないな、と思い直した。少なくとも、作品を創る我々は、人間について、人の住む世界について、深く考えることがその仕事の主たるものなので、多少苦しくなるのは仕方ないな、と省みた。

執着があるということは、何かがいつも足りないということだ。飢えているということだ。シンプルな生活、十分に食べていけるお金があり、住むところがあり、だけでは足りない、と渇望する人は、どうしてだか魅力がある。人間らしいな、と思う。

能楽には執着している人物が多く登場する。たとえば「葵上」とか「杜若」とかは、昔の恋人に執着して死ぬに死にきれず亡霊となってこの世を彷徨う女の演目。

執着し、狂う女性は、本人はとてもとても苦しいのかもしれない。しかし、美しい。芝居になる。色気を感じさせる。

執着して心を壊してしまって稽古場に来られなくなったらそれは困るけど、ちょっぴり、寂しさとか、人恋しさとか、そういうものを抱えながら生活している俳優たちと一緒に創作するのは、愛おしいことだな、と思った。

トップ画像は「弱法師」(三島由紀夫作)の宮川麻理子。2014年利賀演劇人コンクールにて上演。

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