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中込遊里の日記ナントカ第99回 「面の数を増やし、大人になる/グレーゾーン」

「うまくやろう」と言われる。「うまくやるしかないね」「うまくやってね」この頃、事あるごとに、色々な人に言われる。誰にどんな時に言われたのだか全部はいちいち覚えてはいない。けれど、言われる時々に「そうだな」と納得して「はい、うまくやります」と答えている。

いったい、うまくやるとはなんなのだろう。上手に立ち振る舞うことで、何が成され、何のリスクを避けられるのだろう。

「うまくやろう」と言われ、「うまくやらねば」と納得する状況は、本当にここ最近のことだ。10代・20代の時はそんな言葉は私の辞書にはなかったような覚えがある。

思春期の頃、学校生活が大変に不得手で、早く大人になりたいと切実に思っていた。大人がどんなものかわからなかったが、今のようには不安な気持ちが続く日々とはおさらばなのだろうと信じていた。

大人は自ら選び、仕事をする。すれば、自分の価値を認められる。押し付けられた学校のルールに従うことなく、自分で自分の人生を選択してそれに責任を持って生きるという自由がある。その選択の自由は自らの充実に繋がるはずだ。

大人になる未来を頼みにしながら、なんとかこの不安定な日々を乗り切ろうとしていた。瑞々しい時期を楽しめばよいだろうに、我ながら、苦労症である。

それにしても、大人になりたいと熱望していた思春期の私を呼び出して聞きたいのだが、「大人である」と宣言できるのはいつからなのか。

成人式とか入社式とかはもちろんあるが、この日から大人であるとは切り替えられないのが自然だろう。けれども社会で揉まれていくうちにいつの間にか大人である。

そのためには当然ながら社会に出なくてはならない。では、社会に出て、そしてそこで揉まれるとはなんなのか。苦労症の思春期の私よ、ともに考えようではないか。

社会は、幅広い。様々な要素でからみあってできているのが社会。家族。仕事・同僚・上司・部下。先生・生徒。仲間。友だち。恋人。近所の人。SNSでしか会えない人。

そして、一人の人間が、これらの要素を兼ねる。私の例を挙げても、母・妻・娘・義理の娘の4つの立場があり、仕事でも、とある音楽ホールの事務管理担当(現状、演劇だけでは食べていけない…)・演劇の先生・演出家・劇団の代表である。能楽やジャズダンスの稽古場では生徒であり、また、ある人にとっては近所の謎の女である…、と、キリがない。

一人の人間がこれほどの顔を持ち、その顔を細かく使い分けながら日々を刻む。それが成功すれば、対人関係が晴れやかに作られる。それが、「うまくやれる大人である」ということなのだろう。

そして、一人の人間が兼ねる面の数が少ないのが思春期なのだろう。。私が17歳の高校生だった頃、家族の中では娘。兄弟はいない。そして塾でも学校でも生徒。あとは、友だちや恋人。

だから、うまくやる必要も大してなかった。せいぜい、遊びと勉強の顔を使い分ければよいくらい。

今、顔がたくさんある大人である私が、「うまくやります」と答えるたびに、納得はすれども、若干の寂しさを覚えるのは、きっと、私という人間の表面だけが上滑りしていく苦しさもあるからなのだろう。

顔を使い分けることなど、完全にはできないではないか。だって、一人の人間なのだから。母親でも恋はするし、劇団員の前で学生時代の顔付きに戻ることだってある。

だから、うまくやれない時もあるのだ。それを、幼い、大人ではない、と言われるのは寂しい。

面の少ない思春期は、「私はどういう人間なのだろう」と考える時期である。大人を観察し、文化芸術やメディアから色々な生き方の例を採取し、心の中の「面」を増やしていく。

その最中に、あらゆる面と面がぶつかっては消えていく、モヤモヤしたグレーゾーンが、体と脳を作り上げていたはずなのだ。その何にも所属しない曖昧さこそが、人間の本質なのではないだろうか。

うまくやろうとするたびに、そのグレーゾーンを忘れようと、パッキリと面を使い分けようとするのが大人なのだとしたら、それほど息の詰まることはなく、貧しい、と思う。

グレーゾーンの中でふらふらと、うまくやれないこともただ受け入れて、そうして、出会う人たちのそれぞれのグレーゾーンを見つけて、愛しいな、とか、可笑しいな、とか思える、そういう大人であることを、許されたい、と思うのは、あまりにも贅沢な望みだろうか。

※写真は、中込遊里総合演出の「中高生のためのたちかわシェイクスピアプロジェクト」2018年中間成果発表会のもの(撮影:木村護)

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