ユウリハムレット東京

中込遊里の日記ナントカ第93回「ハムレット東京公演・演出挨拶」

予告通り、母になった。産まれて数カ月経って、初めてふにゃふにゃした赤子と公共の場に出かけた時、緊張もしたけれど、一人だった時よりも安心していられるのは発見だった。その安心の種類は、母性とは程遠い。私がどんな人間なのか、すれ違う人々に否応なしに伝わるという安心である。つまり、赤ちゃんの付きっきりによって、お母さんという甘やかな響きのある社会的立場を手に入れたのである。

一般的に、スーツ、ビジネスバッグ、早朝に足早に歩く人を見れば、誰が目にも会社員で、白衣に聴診器では内科医なのである。職業のみならず、流行の服装を選ぶのも同じだろう。身につけるもので人はタグ付けされ、居場所を得られる。私たちは何かでいなければ安心して生きられない。

さて、ハムレットが身につけるのは黒い喪服である。歌舞伎の“黒子”同様、黒は「そこにない」ことを表す。ハムレットにとって絶対だった父・ハムレット王を亡くし、さらにはこの世で一人の母を、よりによって父を殺した男に寝取られ、彼には何もなくなってしまった。

宙ぶらりんのハムレットは、生きることも死ぬこともできず、潔く復讐を遂げることも、王位に立ち国を洗い直すこともできず、ただ宙ぶらりんのままさ迷い続ける。何にもなれない。だから、狂人の振る舞いをする。

役を借りて、舞台上でのみ何者かになる俳優という生き物も同じである。誤解を恐れずに言えば、何にもなれないという不満の塊が俳優なのである。だからハムレットは芝居心がある人物として描かれているのだし、王様殺しの真実は演劇によって暴かれるのだ。

ところで、心臓が動き血の流れる生命活動を確認しているのにも関わらず、何者かでいなければ生きられないなどと七面倒臭いことを抜かすのは、人間だけである。ただ命があればという切実さを持った獣は愚鈍で強い。

その愚鈍な強さを物ともしないほど、ハムレットは孤独なのである。宙ぶらりんに強いも弱いもない。呆れるほど“そこにない”。それがハムレットという人物の不可思議な魅力なのだと思う。

母になって約2年経つが、未だに私はどうもむず痒くて、“お母さん”というタグ付けに安住できないでいる。だから、青年ハムレットに惹かれたのかもしれない。

(鮭スペアレ本公演「ハムレット」2017.10.31-11.5 ザムザ阿佐谷 当日パンフレットに掲載)


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