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夢待人〔起編〕

※注)四話完結ですが、一話が長いです。(予告注意w)

 
 
 
「夢を見ることが夢なんだ」
 
その人は、笑ってそう言った。
 

 石造りの大きな門構え。細工が施された扉の向こう側には、屋敷が見えないほどの前庭が待ち構えている。

「……え……ここ……?」

 住所が記された紙切れを確認し、門の前で濱坂(はまさか)イメミは目を白黒させた。

(こんなお屋敷だなんて聞いてないよ……!)

 驚きと不安の板挟みで口が開きっぱなしになり、ただただ門を見上げたまま立ちすくむ。もう、ここで引き返そうか、とさえ思う。

(いやいや……!)

 己を鼓舞すべく、イメミは頭をぶるんぶるんと振りかぶった。メモを握った拳に力がこもる。

(今さら、後退の余地なし!)

 求人広告を見つけた時のことをまざまざと思い返し、さらに気合いを入れた。

『息子ノ世話係求ム』

 日常生活の補助はもちろんであるが、一番重要な、そして最低限の役割が『眠りにつくまで歌を歌う』こと。たったそれだけで、他では望めないほど破格の待遇。それに釣られて来た身としては、今さら引き下がれるはずもない。

 深呼吸をし、イメミは門に備え付けてある鐘を鳴らした。だが、果たして広大な屋敷の玄関先まで音が届くのか、不安は拭い切れない。

「こんな鐘を鳴らしたくらいで、お屋敷の人に気づいてもらえるんだろうか……」

「ちゃんと聞こえておりますよ」

「ひっ!」

 ぼそりとつぶやいた途端、どこからか声が聞こえ、イメミは飛び上がった。

「これは、これは……驚かせてしまったようですな」

 ひと目で庭師とわかる老人が、門の陰から姿を現して笑う。

「鐘の音は、屋敷の玄関まで聞こえるようになっておりますよ……ほら」

 屋敷の方を振り返る彼の視線の先に目をやると、スーツ姿の男が女中らしき女を伴って歩いて来る。

「濱坂イメミさん?」

 こちらは見るからに『執事』と言った風情の男。

「は、はい……!」

 緊張しながらも返事をすると、男は少し後ろにいる女と頷き合った。すぐに通用口の小さな扉を開け、イメミを招き入れる。

「私は当家の内情一切を任されております、室井(むろい)です。こちらは女中頭の中西(なかにし)」

「は、濱坂イメミです。よろしくお願い致します」

 イメミの挨拶に軽く会釈を返した二人は、屋敷玄関へと誘(いざな)うように歩き出した。

「今から旦那様と若様にご紹介致します。濱坂さんは、一応、客分扱いとなりますが、仕事の内容、待遇については取り決めの通りでよろしいですか? 他に何か条件があれば、今のうちに仰ってください」

「い、いえ、あの、私の方こそ……ホントにこんな高待遇で雇って戴いてよろしいんでしょうか……」

 声が尻すぼみになる。

「一通りの家事全般、そして歌が歌えること……始めにお聞きした通り、この条件は満たしていらっしゃいますよね?」

 その『多少の』が問題なのだ、とイメミは心の中で両手を合わせて拝んだ。

「……あの……一応……教職資格を取るつもりで……取れそうな段階……でした……けど……」

 それは本当のことだった。しかし、先方の考えるところの『多少』と一致するとは限らない。何より、確実に資格を取得出来ている訳ではないため、返事もしどろもどろになる。

「であれば、問題ありません」

 あっさりと言われ、イメミの胸にはむしろ不安が増幅した。そう言われた後で、「この程度では困る」と思われる方がつらい。

「旦那様。濱坂イメミさんがお見えになりました」

 そんな心配を余所に、室井が重厚な扉をノックした。イメミには聞き取れなかったが、中から何か言われたらしく、そのまま応接室へと案内される。

「すぐに参りますので」

 それだけ言うと、室井は部屋から出て行ってしまった。

 ぽつんとひとり取り残され、途方に暮れる。どうしたものかと固まっていると、直にノックの音が響き、心の準備をする間もなく扉が開いた。

(ひえー!)

 慌てて立ち上がる。

「はじめまして。私は当家の主、菅江重吾(すがえじゅうご)です」

 ハッキリした男らしい顔立ち。それでも、想像していたよりは柔らかい物腰の雇い主に、イメミは少し緊張を緩ませた。

「はじめまして。濱坂イメミと申します」

 深々とお辞儀をするイメミに頷き、菅江が座るように促す。

「珍しいお名前ですね」

 特に驚いた様子も、嫌味を含んでいる様子もなく、菅江の言い方は坦々としていた。だからと言う訳ではないが、イメミも坦々と答える。

「……父が個人的に思い入れがあったようで……」

 名前について訊かれることは、イメミにとっては珍しいことではない。菅江にしても特に意味のある質問ではなかったらしく、頷くと事務的に話を進めた。

「濱坂さんは有名な星和女学校を中退されたとか……成績も申し分なかった、との評ですが、そのまま卒業されれば、失礼ながらご不自由なかったのでは?」

 これも、当然訊かれると予想していた質問である。

「お恥ずかしい話ですが、卒業するまで通えなくなったんです。何とか卒業だけでもと思っていましたが、少し前に父が亡くなりまして……私の下には弟妹が5人いるものですから……」

「なるほど、そう言うことでしたか。では、空いてる時間に学校に通われますか?」

 菅江は、まるで当たり前のことを訊くように付け加えた。

「え……」

 思いがけない言葉に顔を上げる。

 確かに、菅江から提示された賃金なら、家族に仕送りして何とか学費まで出せないことはない。何しろ、住み込みで食事付きの上、全てが破格の待遇なのだ。だからこそ、どんなレベルでの仕事を求められているのかが怖いとも言える。

「お心遣い、ありがとうございます。その件については、仕事をこなせるようになったら考えたいと思います」

 やはりと言おうか、菅江は事務的に頷いた。

「何かご質問は?」

 そう言われれば、むしろ訊ねたいことしかない。そもそも、こんな募集ありえないだろう、と。だが、訊き始めたら際限がなくなりそうな気もする。

「いいえ……」

 イメミは首を横に振った。

「では、わからないことは室井か中西にお訊きください。細かい説明も彼らから……」

 言いながら菅江が振り返った方を見ると、いつの間にか室井がひっそりと佇んでいる。

「後は頼む」

「かしこまりました」

 室井は静かな笑みをイメミに向けた。

「では、濱坂さん……こちらへ」

「あ……は、はい……!」

 慌てて室井に続くと、彼は邸内の案内をしながらゆっくり廊下を進んだ。所々でイメミを振り返り、対話することも忘れない。

「濱坂さんはご弟妹が多いのですか?」

「はい! 6人姉弟の一番上ですから、お子さんのお相手なら大丈夫です!」

 自信満々で答えると、室井は何か言いたげに眉を寄せ、すぐに前方に視線を戻した。その様子に不安を煽られたイメミは、室井の背中を上目遣いで見つめる。

(……私、何かまずいこと言った……?)

 握る手の中には嫌な汗。とは言え、今さら何を付け足すことも、取り下げることも出来ない、などとイメミが考えていたその時、突然、室井が立ち止まった。

「ここが若……桐吾(とうご)さまのお部屋です。何かあれば、すぐに様子を見に来て戴かねばなりませんので、貴女の部屋は並びになっています」

(何か、って……何があるんだろう……)

 ますます不安が過る。

「……ありがとうございます……」

 返事も消え入りそうになるが、室井は構わず部屋の扉をノックした。

「若。5にん……新しい人が到着しました」

(ご、5人!? 私、5人目ってこと!?)

 室井が言いかけて撤回した言葉に驚愕し、つまりは採用募集の破格な待遇にも納得せざるを得ない。

(……一体、どれだけワガママな坊ちゃんなのよ……)

 気に入られる自信などある訳がなかった。『子どもの相手なら大丈夫』などと豪語してしまったことを心底後悔し、いっそ後ろに倒れてしまいたくなる。

『どうぞ……』

 だが、その時、室内から聞こえた声に、イメミの意識は一気に引き戻された。自分の耳がおかしくなったのか、とさえ思う。

(え……いいいい今の声って……)

 扉を開けて一礼した室井が、イメミに中へ入るよう促した。固まったまま前に引き出される。

「桐吾さま。新しい世話係の濱坂イメミさんです」

「……ハマサカイメミ……?」

 広く明るい洋風の部屋の中で、モッソリと何かが動いた。気だるげに身を起こした『桐吾さま』が、眠そうな目をイメミに向ける。

(うそっ……!)

 震え上がったイメミは、今度こそ本当に卒倒しそうになった。

「お~。今度はかわい子ちゃんだ」

 寝起きとしか見えない、同じ歳ほどの若い男が笑っている。髪も肌も色が薄く、全体的に線は細いが、声を聞けば明らかに『男』であった。

 如何にも男っぽい顔立ちの菅江とは全く結びつかない容姿なのだが、当然、イメミにはそんなことを考える余裕はない。

(大人の男の人だなんて聞いてないっ!)

 それもそのはずである。

 募集には『息子の世話係』以外は何ひとつ記されておらず、『世話係』と言うからには子どもであろう、とイメミが勝手に思い込んでいたのだ。

 とは言え、状況的には勘違いしても不思議ではなかった。何しろ、一番、重要な事項が『眠るまで歌を歌う』なのだから。

(……大人の男の人に何の子守唄を歌えって言うの……!?)

 しかも契約上、彼が眠るまで二人きりでいなければならない事実に、胸の前で組んだ手が脚と共にカタカタと震える。

 そんなことは気にも留めず、ヘラッと笑いながら近づいて来た『桐吾さま』は、茫然自失同然のイメミの手を躊躇うことなく握った。

(ひっ!)

「ぼくは菅江桐吾。よろしくね」

 悪びれることのない自己紹介。

「……はははははま濱坂いいいいイメミです……」

 完全に腰が引けているイメミの様子に、桐吾はクスッと笑って顔を近づけた。後ずさろうとするも、手を握られているので離れることが出来ず、脚だけが後ろに行こうとしている。

(いやぁぁぁぁぁぁ! ムリ! やめる! こんな話、聞いてない!)

 傍から見たら茫然自失、心の中は涙目で叫んだ時──。

「濱坂イメミ……いい名前だね」

 そのひと言で、グルグルしているイメミの脳内は一瞬で冷静さを取り戻した。

「……ありがとうございます……」

 先程までの狼狽が嘘のように、無表情・無感動な声音。だが、桐吾はそれすらも気にした様子はなく、相変わらずニコニコと笑っている。

「では、濱坂さん。貴女のお部屋と、邸内の他の場所も案内致します。若、その他の話は後ほどになさってください」

 事務的な室井の言葉に、桐吾はつまらなそうに口を尖らせた。不満げではあるが、「はいはい」とつぶやきながら素直に手を離す。

「また、あとでね。イメミちゃん」

 柔和な笑みを浮かべ、ひらひらと手を振る桐吾に一礼し、イメミはそそくさと部屋を出た。

「少々、変わった方で申し訳ない。しかし、一定の節度は持ち合わせておられるので、過度に心配なさることはありませんよ。そして、ここが貴方の部屋。荷物は入れてありますので、最後に戻って来ましょう」

「はい。ありがとうございます」

 答えながらも、イメミは心の中では不安半分、憤り半分。

(何が『少々』よ! いい歳してヘラヘラして! 学生なのか知らないけど、この時間に部屋でゴロゴロしてるなんて、いいご身分だわ!)

 イライラするのはそれだけが理由ではない。

 子どもの頃から散々言われ続けていても、名前のことを面白おかしく言われるのはガマン出来なかった。変わった名前であれ、イメミにとっては父が付けてくれた大切な名前である。

 すると、その時、

「室井さん? そちらの方は?」

 唐突に聞こえた若い男の声が、憤りに沈みそうなイメミの意識をも呼び止めた。

「お帰りなさいませ、健吾(けんご)さま。こちらは、今日から桐吾さま付きになった濱坂イメミさんです」

 またも、室井が事務的に紹介する。

「ああ、桐吾の……」

 健吾と呼ばれた若者は曖昧な笑みを浮かべ、納得したように頷いた。

「濱坂さん。こちらは……」

「はじめまして。ぼくは菅江健吾……桐吾の……兄、です」

 紹介しようとする室井を遮るように自ら名乗る。

「あ……は、はじめまして、濱坂イメミです。よろしくお願い致します」

 慌てて頭を下げながら、イメミはおかしなことに気づいた。だが、それはここで口にして良い類の話なのか判断がつかない。

「がんばってね」

 顔を上げると、健吾はその言葉を残して立ち去った。

「あの……と、桐吾さまと健吾さまは双子でいらっしゃるのですか? お歳がお近いようにお見受けしましたが……」

 案内をしてくれている室井に恐る恐る訊ねる。

 気になったのは、桐吾のことを『若』と呼んでいたのに、桐吾の兄だと言う健吾を『健吾さま』と呼んでいたことであった。この質問では、疑問の解決になる回答を得られるとは思えなかったが、とにかく話題に持ち込むための取っ掛りは欲しい。

「確かに同じお歳です。僅かに健吾さまの方が早くお生まれですが、双生児ではなく、ほんの数ヶ月違いのご兄弟です」

「はい?」

 イメミの脳内が緊急停止する。

(双子じゃない? けど同じ歳? ……って、え? え? それって?)

 混乱するイメミを振り返り、室井は少し眉をひそめた。

「いずれわかってしまうことですからお話しますが、この件については、今後、一切、話題に出さないでください」

 訊かない方が良かったか、何を聞かされるのか、と慄き、返事すら出来ずに室井を見上げる。

「桐吾さまと健吾さまは母君が違うのです」

 室井は坦々と口にした。イメミの瞬きが自然に止まる。

「あの……でも……」

 訊きたいことはそこではなかった。自分が『他人の事情』に立ち入り過ぎていることはわかっていても、何故か知っておかなければならない気持ちに駆られてしまう。

「他にも何か?」

「あの……弟の桐吾さまを『若様』と呼んでいらっしゃるのに、何故、兄である健吾さまのことは『健吾さま』なんですか?」

 室井は眉をひそめる、と言うよりは明らかにしかめた。それを目の当たりにして後悔するも、知っておきたい気持ちの方が勝る。

「健吾さまの母君は、旦那様が奥様……桐吾さまの母君とご結婚される前にご関係があった女性だからです」

 室井はひとり言のように小声になった。イメミは息と一緒に言葉を飲み込む。

「絶対に他言無用ですよ」

 静かな強制力に、イメミはただ頷いた。彼女が好奇心から他で話題に出すことがないよう、室井が敢えて答えたことは明らかである。確かに口の端に上らせることではない。

 イメミは好奇心丸出しで訊いてしまった己を恥じた。

 そして、その話を聞いたからではないが、もうひとつ、イメミは不思議なほどに思い出していた。

 桐吾に手を握られた時のことである。

 彼の手はひどくひんやりしていた、と。

 その夜、イメミは初仕事の時を迎え、三度(みたび)逃げ出したくなっていた。

(……うう……いやだなぁ……)

 ノックする形で固まったまま数分。その間にも時間はどんどん押して来、ついに意を決して扉を叩いた。

「どぉーぞー」

 何とも気の抜ける、正直に言えば腹立たしいほどに脳天気な声。

「……っしつれいしますっ!」

 イメミは半ばヤケになって部屋に入った。

「…………!」

 明るい部屋の中、桐吾は既に夜着で布団にくるまっており、思わず目を見張る。

(別に歌なんかいらなくない!? そのままさっさと寝れば良くない!?)

 モヤモヤしながら扉の前で突っ立っていると、わずかに手を出した桐吾がヒラヒラと手招きした。嫌々近づき、ベッドの横に立つ。

「……夢導きし……歌える?」

 埋もれた布団の中から気怠そうな声。

「……歌えます」

「じゃあ、最初と最後にそれ歌って。あとはお任せ」

 子守唄などなくとも、すぐにでも眠りに落ちそうな。

「その前に、理由を教えてください」

 当然、訊かずにいられるはずがなかった。

「……理由?」

 ほんの少し布団が下がり、桐吾が目だけを覗かせる。

「何の理由?」

「こんなことをしてまで、子守唄が必要な理由です」

「……理由……ねぇ……」

 少し考え込んだ桐吾が、再び布団から腕を出して枕元の椅子に座るよう合図した。言われるままに腰かける。

「イメミちゃんは夢ってある? 見る?」

「は?」

「夢だよ」

 質問しているのはこちらなのに、答えもせずに質問返しとは何なんだ、と腹立たしいこと、この上ない。

「叶えたい夢なら、小さいですけど、一応、あります。寝てる時の夢なら、ほとんど見ません」

 故に、ついつい苛立ちを隠せない答え方になってしまう。

「……そっかぁ……羨ましいなぁ……」

「あの。それが何か?」

 この場の雰囲気をまるで感じていない桐吾に、とうとうイメミの声が鋭利な刃物のように尖った。さすがにトゲを感じたのか、桐吾が肩をすくめ、だが、またすぐにフニャリとした表情に戻る。

「ぼくね……夢がないんだ。見れないの」

「はい?」

 それが自分に何の関係があるんだ、と口から出そうになるのを何とか堪え、呼吸と共に飲み込んだ。

「なのに、寝てる時は悪い夢しか見ない。だから眠るのが怖いんだ。お陰で、一日中、眠くて堪らない」

「な……!」

 いい若い男が、真っ昼間からゴロゴロ寝ている理由がそれなのかと、さらなる腹立たしさがこみ上げて来る。

「あ、怒ってる」

 桐吾が無造作にイメミを指差した。ただでさえ腹立たしいところに持って来て、指で顔を差された挙句の場違いな言葉である。

 カッとなったイメミは、桐吾の手を払い除けた。

「人のことを指で差さないでください!」

 桐吾が目を見開き、驚いた表情を浮かべる。

(あ……っ)

 ハッと我に返り、イメミは狼狽えた。弟や妹を叱る時と同じ感覚でついやってしまった、と。

「あ、あの……」

 桐吾は不思議なものを見るように、オロオロするイメミの顔と払い除けられた自分の手を交互に見ていた。ややして、プラプラさせながら手を引っ込める。

「……そっか…………ごめん……」

 素直に謝られ、イメミの胸に今度は妙な罪悪感が湧き上がった。

 いくら礼を欠いたのは桐吾の方とは言え、仮にも彼は雇い主──正確には雇い主の息子である。窘める程度ならともかく、手を上げるなど明らかにやり過ぎだと自分でもわかる。

(ーーーいやいや! 雇い主であろうと、どれだけ偉い人であろうと、人のことを指で差したりするものじゃないわ!)

 必死で自分に言い聞かせて赤くなったり青くなったりしているイメミに、桐吾が微かに口角をゆるめた。

「明日の目標決めた。朝ちゃんと起きる」

「は?」

 不興を買った訳でもないことに安堵するよりも、相変わらずの場違いな言動に、葛藤していたこと全てが吹っ飛んでぽかんとする。

「それで、昼間も一日中起きててイメミちゃんを観察する、うん」

「………………」

 もはや反論する気力も湧かないほど、心がぐったりしてしまう。

「夜のほんの一時、少し怖い夢を見るくらいならいいじゃないですか。目が覚めない訳じゃなし……」

 ため息と共に諦め、イメミは何の気なしにつぶやいた。再び布団に潜り込もうとしていた桐吾の動きが止まる。

「……そのまま目が覚めないなら、いっそのこと、その方がいいよ。……悪夢を見続けることに、目が覚めるたびに怯えるくらいならね」

 声の調子は変わらぬ軽さであったが、発された言葉にイメミは凍りついた。一体、どう言う意味であるのか──? どう聞いても、死んだ方がマシ、と聞こえる。

「んじゃあ、よろしくー」

 だが、その言葉の意味するところを訊けないまま、桐吾はヒラヒラと手を振って布団に潜り込んでしまった。仕方なく歌に専念するべく、呼吸を整え、背筋を伸ばす。

 そして、桐吾のリクエストの通り『夢導きし』を歌った。続けて、知り得る限り穏やかな夢を見れそうな歌を。

 これでいいのか悪いのか、好みの歌い方や声の大きさもわからぬままイメミは歌った。寝息らしい呼吸音が聞こえるまで。

 最後にもう一度『夢導きし』を歌い、そっと桐吾の部屋を後にした。

 時計を見ると日付を超える直前。

 自分にあてがわれた部屋の扉に背を預け、イメミはふと思い返していた。

 さっき払い除けた桐吾の手は、やはり冷たかった、と。

 翌朝、桐吾が食卓に着いていることを、菅江や健吾だけでなく、室井や中西までもが驚きを以て迎えた。

「珍しいな、桐吾。この時間に食卓に着いてるなんて……」

「ええ、まあ」

 菅江の言葉にヘラッと笑い、そのままイメミの方にチラッと視線を走らせる。

「効き目抜群です。いつもより眠れました」

「そうか」

 言葉少なではあるが、菅江の表情はどことなく緩んでおり、喜んでいることは窺えた。だが、全く無関心な様子で食事している健吾の表情に浮かぶ色は、喜びとも不快とも判断がつかない。

 三人の関係性を読み、イメミの胸にはどこか不安な気持ちが湧いた。室井から聞いた桐吾と健吾──ふたりの境遇が相俟った、血を分けた兄弟故の複雑な関係に。

(室井さん……弟である桐吾さまの方がこのお家の跡取り、みたいな話しぶりだった……)

 他家の内情など関係ないことで口出し無用──わかってはいる。

 とは言え、6人姉弟の長女として、弟妹の世話を焼きながらも家族仲良く暮らして来たイメミにとって、ぎこちない家族を見るのは切なくもあった。

「今日は遅くなる」

 室井に告げた菅江に追随し、健吾もナプキンで口元を拭って立ち上がった。聞いたところによれば、健吾は未だ学生の身ながら時間の許す限り菅江に同行し、仕事を学んでいるのだと言う。

「いってらっしゃいませ」

 二人が出かけてしまうと何となく気まずい。桐吾と二人きりになってしまうからだ。

 世話係として雇われたとは言え、客分扱いのイメミは共に食卓に着くよう言われており、それは彼女にとっては気詰まりなことでもあった。何しろ、室井や中西は同席していないのだ。

「イメミちゃんも学校行けば?」

「え?」

 フォークを動かしながら黙り込んでいたイメミに、桐吾はパンを口に放り込みながら言った。

「昼間は別に好きにしてていい契約なんでしょ? 学校、行きたいんじゃないの?」

 言葉に詰まる。心の中を読まれた気さえする。

「……若様の生活習慣を直すことが出来たら、その時、考えます」

 そうだ、そもそも、自分の方からイメミのことを一日中観察するのだ、と言っていたではないか、と思い起こす。

「イメミちゃんは真面目だねぇ」

 可笑しそうに言う桐吾を上目で見ながら、イメミは黙って食事を口に運んだ。

(自分は学校にも仕事にも行かないんじゃない……)

 どうにもモヤモヤするが、父親である菅江が何も言わない以上、それは口出し出来るところではない。イメミは契約通りに、自分の職務を遂行する以外になかった。

 *

 食事を終え、桐吾の部屋に行くと姿が見えない。ならば今のうちにと、桐吾の部屋を掃除し、ついでに自分の部屋も荷物を整理して片付けることにする。

 その頃になれば戻るだろう、などと考えていたイメミだったが、掃除を終えても、まだ桐吾の姿はなかった。

「あの、室井さん。桐吾さまがどちらにいらっしゃるかご存知ですか?」

「ああ、お部屋でなければ、書庫にいらっしゃるでしょう」

 指示を出しながらテキパキと立ち働く室井に訊ねると、特に驚いた様子もない。だが、イメミの心を捉えたのはそこではなかった。

「書庫……?」

 昨日、邸内の案内を受けた時、全てを回り切れてはいなかったことを思い出す。

「西側の奥にありますよ」

 広大な敷地に屋敷、加えて書庫まであると言われ、イメミはつくづく境遇の差を感じた。考えても仕方ないとわかってはいても、何がそこまでの差になるのか想像すらつかない。

「ありがとうございます。行ってみます」

 想像すらつかないことは考えないに限る、菅江家はそう言う家なのだ──そう切り替え、教わった通りに廊下を行くと、室井の説明通り、西側の奥まった一角に重厚な扉が姿を現した。

「ここ?」

 扉と壁の繋がりを見ても、かなりの広さであることはわかる。何より、その佇まいにどこか聖域のような雰囲気を感じ、イメミは息を止めて静かに扉を開けた。

「……わあ……」

 ほんの一瞬で、本の匂いと不思議なほどの安心感に包まれ、鼻腔の奥まで満たされる。

「すごい……」

 整然と置かれた本棚には、ギッシリと本が並んでおり、眺めてしばし、イメミは夢のような光景に胸を踊らせた。

 と、突如、自分の目的と職務を思い出す。

(そうだ。桐吾さまはどこにいるんだろう……?)

 棚の間の通路を一つ一つ覗きながら奥へ進んで行くと、光が差し込む窓辺から長い影が伸びていることに気づいた。静かに近づく。

「………………!」

 初めて受ける衝撃。瞬きすらも忘れるほどの。

 イメミは思わず息を飲んで立ち尽くした。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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