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〘異聞・阿修羅王31〙乾闥婆王と阿修羅王

 
 
 
 躊躇うように、乾闥婆(けんだっぱ)が視線を落とした。

「……お主、申していたな。自分では雅楽(がら)に平穏な幸せをやれぬ、と……。私はあの時、それは謙遜か、もしくは、雅楽との婚儀を断る口実と思うておった。だが、今、この時に臨んで思うは……お主、あの時、既にこうなることを識っておったのだな……?」

 阿修羅は答えなかった。

「……お主は、一体、何を負うている……?」

 再び視線を上げた乾闥婆が問う。

「……それを知ってどうする?」

 得た返答は、ある意味では予想通りだったが、だからと言って納得出来るものでもなかった。

「どうもしない。だが、知っておきたい。ただ、それだけだ」

「……それが例え……」

「記憶として留まることがなくとも、だ」

 乾闥婆は、阿修羅が確認する前に答えた。

 一分(いちぶ)のズレもなく、二人は互いの眼(まなこ)を凝視した。ほんの僅かなことすら見逃すまいと。

「……そうか。では、答えよう。知っていた。私は、こうとなるよう、導かねばならなかった」

 微かに眉をしかめた乾闥婆の表情には、憤りではない別の感情が見え隠れしている。

「……全てを、お主一人に負わせてすまぬとは思う。だが、それとこれとは別だ。黙ってインドラ様や舎脂(しゃし)様の元にゆかせはせぬぞ」

 乾闥婆は前方に腕を突き出した。手には法輪が握られている。

「……申し訳なく思う必要などない。私の役目だ。だが、お主と闘うつもりはない」

 やや睫毛を翳らせ、阿修羅が答えた。

「そのようなことが、罷り通ると思うな……!」

 手にある法輪が光を帯び、やがて剣へと変化(へんげ)する。

「…………」

 だが、阿修羅が口の中で何かを唱えた瞬間、乾闥婆はその剣を取り落とし、膝から崩れた。唱えられた言葉が波紋となり、乾闥婆の動きを抑え込んでいる。

「……楽師であるお主の法輪に、無意味な闘いの記憶など刻むに及ばぬ」

 身動ぎひとつ出来ぬまま、乾闥婆は阿修羅を見上げた。

「……無意味だと……! 相手にならぬ者との闘いなど無意味と申すか……!」

 阿修羅は、静かに乾闥婆の前に跪いた。

「そうではない。相手になる、ならないなどと……勝敗など問題ではない。我らが闘うこと、それ自体が無意味なのだ……乾闥婆王」

 乾闥婆が動こうともがく。

「あまり動くな。無理して動かば、波紋がお主の力を抑えようとする。じっとしておれば、それ以上の害はない」

 そう告げると、阿修羅はゆっくりと立ち上がった。

「待て……! なれば、インドラ様とお主が闘うことには意味があると申すか……! このように天を二分してまで闘うことに……!」

 奥へ向かおうとする阿修羅の背に、必死で問いかける。

「……ある。あやつには、本気を出してもらわねばならぬ。必要なのだ……あやつの真の力が……」

 その返答に驚いた隙に、阿修羅は一気に奥へと進んだ。

「ま、待て……まだ話は終わっておらぬ……!」

 壁を支えにして何とか進むも、阿修羅の言った通り、徐々に身体の動きが取れなくなって行くことに気づく。

(まだだ……まだ、訊かねばならぬことが……!)

 ついには壁を伝うことも叶わなくなると、乾闥婆は転がったまま立ち上がれなくなった。必死に這って何とか進むと、遠くの室から灯りが洩れている。

(あそこは……確か、舎脂様の私室……何故、今時分に灯りが……)

 そこに阿修羅が入るのが見え、這うどころか、次第に意識を保つことすら困難になって来るも、乾闥婆は必死に近づこうとした。

 だが、視界も意識も朦朧とし、ついに動くことが叶わなくなった時。

 微かではあるが、確かに誰かの声が聞こえた。

 『今まで、ご苦労だった』と──。

 その頃、四天王は毘沙門天(びしゃもんてん)に招集されていた。

「一体、今時分に何事か」

 訊ねる三人に、毘沙門天は何とも不安気な表情を向けた。

「……わからぬ。わからぬのだが、ひどく胸騒ぎを覚えたのだ。そなたらは感じぬか……この不思議な音(ね)……いや、波動のようなものを……」

 その言葉に、同じく呼び出されていた八部衆の一人、緊那羅(きんなら)が応じた。

「毘沙門天様もお感じになられましたか……実は私も、先刻より不思議な音を感じ、一体、何事かと……」

 毘沙門天と緊那羅以外の者たちは、こぞって顔を見合わせる。

「不思議な音……?」

「私にはわからぬが……」

 それぞれが困惑する中、ふと迦楼羅が皆の顔を見回す。

「む……そう言えば、乾闥婆王は如何した?」

「そう言えば、緊急招集にも関わらず見ておらぬな。あやつが遅れるなど、何ぞあったのか……」

 その時であった。

「毘沙門天様! ただいま、須彌山の上方にて、阿修羅族の者を目撃したとの報告が……!」

「何と!?」

 その場の全員が驚愕するも、毘沙門天のそれは群を抜いていた。声もなく、目を見開いて硬直する。

「……まさか……」

 言うが早いか、毘沙門天は善見城に飛んだ。訳がわからぬまま、他の者たちも後に続く。

(緊那羅が気づいたのだ……乾闥婆が気付かぬはずがない……! 間に合え……間に合ってくれ……!)

 だが、善見城が間近に見えた時、まるで近づくものを拒むように、城の周囲を取り囲んだ阿修羅の焔が遮った。
 
 
 
 

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