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かりやど〔壱〕

 
 
 
※連載にする予定ではなかったので、この前に『 』があります。

 
 
 
『 も う も ど れ な い 』
 
 

 
 
最初で最後だったはずの、
初まりで終わりのあの夜━。
 
あの一夜さえなかったならば、
運命は違うものになっていただろうか。
 
 

「……私が彼を呼んでいたから……何だと?……憶えてもいないこと……言われても……」
 吐息混じりに言い放つ。
「……何が……言いたいの……朗(ろう)……」
 切れ切れの、それでも挑戦的な言葉尻。
「……何かの時に、彼の名前が飛び出してはまずいでしょう?そのことを言っているんですよ」
 朗と呼ばれた男は、翠(すい)の鎖骨の辺りに唇を這わせながら淡々と答えた。
「……余計な……心配しなくていい……普段なんか……思い出しも……」
 翠がそこまで言ったところで、朗は一気に翠を押し上げる。小さく呻き、翠の言葉は途切れた。
 
 互いの滲む汗が混じり合う。翠はくたりとした様子で、身体を沈み込ませるように朗に凭れた。ぴったりと重なる身体。しなやかな翠の身体を支えながら、朗が再び口を開く。
「……翠。いい加減、タイムリミットです。準備をしなければ。今日の相手は……」
「……わかってる……!」
 苛立ちを隠そうともせず、翠は朗から身を離すと無造作に薄いシャツを纏った。そのままバスルームへ歩いて行く後ろ姿を見送りながら、朗はまた溜め息をひとつ。
 

 
 都内、某・高級ホテルのロビーに、髪の毛を結い上げ、スーツを着た女が姿を現したのは、ディナータイムにはまだ早過ぎる、と言う時間。
 よく見れば、その女は翠であった。アップされたように見える髪はつけ毛で、変装でもしているかのようだ。
「……夏川美薗(なつかわみその)と申しますが……」
 フロントでそう名のると、確認と言うほどのことをするまでもなく、
「……夏川様。お待ち申し上げておりました。すぐにご案内致します。……きみ……」
 近くにいた、別の若い男性スタッフに案内するよう促す。
 
 案内されながら、翠は男性スタッフから時たま向けられる視線に気づいていたが、素知らぬフリをしていた。翠にとっては、別段、珍しいことでもないからであるが。
 最上階にある高級レストランの、個室ではないが奥まった席に通され、スタッフに礼を言って腰かける。待ち人はまだのようだ。
 窓の外に目を遣る。夏川美薗と名乗った翠の瞳は、眼下を眺めているようでありながら、何も映していないようでもあった。物憂げでいて、感情の機微が読み取れない表情。──と。
 
「夏川様。坂口様がお見えでございます」
 不意にレストランの責任者に声をかけられ、翠は視線をそちらに戻した。
 案内されて来たのは、40代半ばから後半であろうか。身形は良いスーツ姿の男である。立ち上がった翠は、見事な営業スマイルを浮かべながら会釈した。
「……あなたが夏川さん……でいらっしゃいますか」
 男が少し驚いた様子で問う。
「……北信ガスの……坂口専務……でいらっしゃいますね?お初にお目にかかります。夏川美薗、と申します」
 坂口と呼ばれた男の目が、翠を上から下まで舐めるように見通した。
「本日はお忙しいところ、お時間を頂戴致しまして」
 翠の言葉にハッと我に返り、
「……これは失礼。こんなにお若い女性とは思ってもみなかったので……ま、お座りください」
 しどろもどろで答え、だが、優雅に腰かける翠にじっと視線を絡ませる。
「……いや、それにしてもお美しい……」
 含みを感じる物言い。気づいているのかいないのか、翠は上目遣いで坂口の目を見遣ると、妖しく口角を持ち上げた。見惚れているのか、呆けた表情を浮かべた坂口の喉がゴクリと音を立てる。
「それではご注文の方、宜しいでしょうか?」
 坂口を案内して来た責任者はいつの間にか姿を消しており、別のスタッフがオーダーを取りに来た。
「……本日のお奨めで宜しいですか?」
 大してメニューも見ず、坂口は翠に訊ねた。目は翠に釘付けになったまま。
「……おまかせ致します」
 頷いた坂口が目配せをすると、スタッフは会釈をして去って行った。端から打ち合わせていたらしい。
 
 雑談がてら食事を摂っている間も、ひっきりなしと言う表現そのままに、坂口は翠に視線を走らせていた。これだけ見られ続けていたら、正直、鬱陶しいと言うくらいに。翠は気にも留めていなかったが。
「……ご依頼を戴いていた件ですが……」
 デザートとコーヒーが運ばれて来ると、坂口は躊躇いがちに切り出した。翠がコーヒーから視線を上げる。
「……あなたのお望みとあらば、お引き受けしても構いません。それから、ご提示戴いた報酬についても半額で結構です。ただし、他にもうひとつ条件があります」
「……条件?……何でしょう?」
 翠の問いかけに、坂口は意味ありげな視線を送った。そのまま質問には答えず片手を持ち上げ、掌を下にしてテーブルの上に置くと、指の隙間から手に持っていた何かを見せる。
 翠は目だけで『それ』を確認した。
「………………」
 やや下方を向いている翠の目が、何かを企むように伏せ目がちになり、再び口元が妖しく微笑んだ。
「……前払いは致しかねます」
 翠の言葉に、坂口は一瞬だけ眉をひそめたものの、すぐに気を取り直したようで、
「……出来高払いで構いませんよ。しかし、そのご返答、と言うことは、ご承諾戴いたと……契約成立と受け取って良い、と言うことですか……?」
 探るように訊ねる坂口に真っ直ぐ顔を向け、翠は鮮やかな花が開くように笑みを浮かべた。
「……そう取って戴いて結構ですわ」
 坂口の喉が、再び大きく波打つ。
「……で、では、場が整い次第、改めてご連絡致します」
 明らかに震えている坂口の言葉に頷くと、翠は流れるような動きで立ちあがり、
「……ありがとうございます。それではご連絡、お待ちしておりますわ」
 そう言い残し、レストランを後にした。
 
 ホテルから出るのかと思いきや、翠はそのまま階下の一室の前で立ち止まった。
 ノックをした途端に扉が開く。左右に視線を走らせ、誰にも見られていないことを確認して足を踏み入れると、中で待機していたのは朗であった。
「……守備はどうでした?」
「乗って来た」
 出窓の薄いカーテンの隙間から、夕陽になりかけた光が差し込む。そこに腰かけ、眼下を眺めながら訊ねる朗に、翠はつけ毛を毟るように取り、服を脱ぎ捨てながら短く答えた。
「……報酬の上乗せは?」
 さらなる朗の問いに、翠は薄っすらと笑みを浮かべる。
「値下げしても構わないみたい。半分でいいって。……と言うかお金にはそれほど意味はないみたい。その証拠に、ひとつ条件を出して来た」
 まるで関心がないかのような調子。
「……条件?」
 視線を翠に移した朗が不思議そうに、だが警戒したように訊ねた。翠はおかしそうに笑みを浮かべている。
 翠は下着だけになると朗に近づき、その胸に身体をしな垂れさせた。猫のように朗の膝の上に座り、身体中の力を抜いたかのように顔を寄せる。
「……翠……坂口はどんな条件を提示して来たんです?」
 朗の言葉尻が少し強くなった。不安を隠し切れないかのように。
 朗を見上げた翠は、浮遊感を漂わせて笑う。何も見ていないかのような瞳で。
「……私の身体をご所望みたい。判りやす過ぎて笑いを堪えるのが大変だったぁ」
 まるで、少女が欲しいものを買ってもらったかのように言う。
 朗が身体の筋肉を少し強張らせたことに気づいた翠は、もう一度、彼の顔を見上げながら、その首にするりと両腕を巻き付けた。
「……妬いてるの?心配しなくても、あんな男と寝るわけないじゃない」
 残酷過ぎるほど無邪気な目。
 口づけて来た翠を受け入れながら、朗の指が背中から腰をなぞり、やがて下着へと忍び込む。
 
 ふたりの影がひとつになって溶け合う様を、直に沈む夕陽だけが眺め、落とす影に隠して行った。
 
 
 
 
 

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