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天涯の果てまで〔前編〕〜かりやど番外編〜

 
 
 

 二十歳の時、この世で考え得る最高に美しい女性(ひと)と出逢った。
 とても手が届くような人ではなく、触れようなど、まして手に入れようなどと恐れ多い。ただ、遠くから眺めていられさえすればそれでいい。
 
 ──それほど美しいあの人に。

 その日、大物代議士と呼ばれている副島大造(そえじまだいぞう)の第一秘書である小半優一(おながらゆういち)は、その副島から呼び出しを受け、指定の場所へと向かっていた。副島の自宅に着く直前、突然、連絡が入ったのである。
(……何故、わざわざ離れた店に呼び出されたんだろう?事務所では出来ないような話……?いや、そんな話の方が心当たりないな……)
 ここ最近の大きな問題としては、副島よりも大物と言われていた黒沼代議士──あくまで表立っての評判ではあるが──が引退したことくらいであった。
 もちろん大問題には違いなく、周囲はその後の後始末に追われてもいた。だが、副島サイドは沈黙を守り、自身の事だけを水面下で行ない、後始末は既に沈静化目前でもあった。
 それなのに──と不思議に思いながらも、指示されれば「否」はない身の上であり、優一はとにかく指定の店へと急いだ。そこは、秘書を務めて既に十年近い小半も、まだ一度も共をした事がない店であった。
 
 店で名を告げると、すぐに離れの部屋へと通された。本当に隠れ屋のような佇まいである。
「お待たせしました、先生。小半です」
 やや間を置き、
「……入りなさい」
 静かな声。その声につられた訳ではなかったが、静かに襖を滑らせる。頭を上げながら入った優一は、室内にいた人物──副島ではない──に驚愕した。
「……母さん!」
 副島の傍に座していたのは、優一の母・小半百合子(ゆりこ)であった。
 微かに物憂げな表情を浮かべている母の姿、そして傍に座る副島の様子。それを見た瞬間、優一は幼い頃から常に己の中にあった漠然とした予感が、現実の色を帯びて姿を現わしたのを感じた。だが、懸命に口から発する事は堪える。
「……先生……」
 それでも、何か言いたげな様子を隠せる訳もない。副島には、優一が考えている事が全てわかっていた。
「……小半……お前に話しておきたい事がある……いや、話さねばならない時が来てしまったようだ……」
 副島の言葉に母が下を向いた。それが尚更、予感に現実味を帯びさせる。
「……はい……しかし、先生……何故、母まで……」
「……母上にも関係のある事だからだ。この席を設けたのは、母上と相談の上で、の事なのだ」
「……母が……」
 やはり──と言う確信が核に行き着いた時、だが、当の母を見つめた副島の口からは意外な言葉が発せられた。
「……沙代(さよ)さん。先日、お話ししたように、彼に全てを……真実を話して宜しいですね?」
「……はい……」
 頷いた母の姿や言葉より、優一の胸に湧き上がった疑問は別の事であった。
(……沙代さん……?)
 母の名は『百合子』である。訳がわからない、と言う顔の優一に副島が向き直った。
「……始めから……全てを話す。少し長くなるが……」
 聞かねばならない事であるなら、中途半端に聞きたくはない──それが優一の正直な気持ちである。そして、知りたい──もちろん、それもあった。
「……お願いします」
 
 副島は静かに頷いた。

 この人のためなら、自分はどんな事でもするだろう。
 例え、身の破滅が待っていたとしても。

 固唾を飲んで向き合う優一に、副島は微かに笑いかけた。
「まず、小半……小半、と言うのは、お前の……いや、きみの本当の名前ではないのだ」
「……え……?」
 優一の身体が、表情と共に固まる。
「……きみの戸籍上の名は倉田……倉田優一、と言うのだ」
「……倉田……優一……」
 小さく頷いた副島は、百合子の方を見た。俯いたままの百合子を。
「そして、母上の本当の名は沙代……倉田沙代さんと言う」
 驚きながらも、優一は何故か納得している自分に気づいていた。同時に感じたのは、副島の『戸籍上の』という言い回し。当然、優一がそこに考えを及ばせている事も、副島は見通していた。
「きみの事だから、何となく感じるものがあると思う。言葉の通り、今本来の戸籍上、きみは『倉田優一』だ。だが、本当の……産まれからのきみの名前は、『松宮優一』であったはずなのだ」
「………………!」
 さすがの優一も、驚きのあまり声が出なかった。
「……松宮……」
「そうだ」
 副島の目を凝視する優一を、母・百合子──沙代が見つめている。
(……先生がおれの父親と言う訳ではなかったのか……)
 優一の脳裏では、副島が自分の父親ではなかったと言う事実に対する安堵と、そしてどこか残念な気持ちが渦巻いていた。
 一方、副島は静かな目で優一を見返し、やや目線を下げた。
「……本当なら、きみは松宮財閥ご当主の直系の血筋なのだ」
 さらなる決定的なひと言を放つ。だが、それに対する言葉を優一は見つけられなかった。普段は冷静な優一とは言え、あまりに突然過ぎる話。さすがに困惑を隠せないのも無理はない。
 そんな優一の心情を慮った副島は、ゆっくりと説明を続けた。
「……初めにひとつだけ言っておきたいのは、きみを手放す事を……決して望んでいた訳ではない、と言う事だ。それだけはわかって欲しい」
『では、どんな理由があったと言うのだ!』
 そう思う心が、優一の中に湧き上がらなかった訳ではない。けれど、口に出せる雰囲気でもない。
「……はい……」
 ただ返事をするしかなく、副島の話の続きを待つしかなかった。だが、ひとつだけ訊かずにはいられない事もあった。
「……あの……と言う事は、母とも……血の繋がりはないと……そう言う事ですか?」
 『手放す』と言う表現。それは、母が自分を連れて松宮の家を出た、と言うようには優一には聞こえなかった。
「……そうだ」
 副島の返事に、沙代が申し訳なさそうに俯く。母の愛情を疑った事などなかったが、幼い頃から時折感じていた漠然とした思い──自分は母の本当の子どもなんだろうか、と言う──それが現実となった瞬間であった。
「……そうですか……」
 それ以上、言葉が出て来ない。沙代が何か言おうとする気配を見せた時、
「……これを……」
 徐に副島が封筒を取り出し、テーブルに置いた。目を落とせば、そこには手書きの美しい文字で『優一様』とある。
「……これは?」
「……きみにとっては祖母にあたる……大奥様が書かれたものだ。きみの『優一』と言う名は大奥様がつけられた。そして、いつか……この日が来てしまった時のために、この手紙を沙代さんに託されていたのだ……」
「……祖母……」
 実感はなかった。顔も声も、その存在すら知らなかったのだから当然とも言える。だが、人柄を映したような美しいその文字に、何故か優一は心惹かれた。
 恐れを含んだ期待感──それは、今、母との血の繋がりを断ち切られた身にとって、別の場所に降って湧いたものには違いない。
 漠然と感じていたとは言え、そして思春期の子どもでもあるまいに、やはり母と自分は関係ない赤の他人なのだ、と言う事実は、少なからず優一に衝撃を与えていた。それも、本人にも大して自覚のないままに。
 そっと、手紙を手に取った。封筒を返すと、やはり美しい文字で『松宮冴子(まつみやさえこ)』と記されている。
「……松宮……冴子……」
「それが、きみのお祖母様のお名前だ……」
 
 副島の言葉に意を決した優一は、封筒から手紙を出し、大切に開いた。

 優一様。
 わたくしは今、貴方様が読む必要が生じない事を願いながら、この手紙を認めて(したためて)おります。きっと不可能であることはわかっていながら。
 そして、必要となった日には──その時には、恐らくわたくしはこの世にいないでしょう。

 流れるような文字で綴られたそれは、まさに祖母──松宮冴子の心の叫びそのものであった。
 祖父・昇蔵(しょうぞう)の事、自分が産まれた理由、出生の秘密、遺伝子上の本当の両親の事……包み隠さず書かれた手紙の文字を、優一はひとつひとつ目で追った。副島と沙代は、その間、ひと言も洩らさずに見守っていた。
 考えてみれば、どう好意的に見積もっても身勝手な話である。自分たちの都合で誕生させ、挙句にどうする事も出来ずに手放す、だなどと──。
(……けれど……)
 その文字を追えば追うほど、祖母・冴子の心情が胸に迫って来るのを感じた。しかも説明によれば、事の発端は祖父であるようにも思えるのに、祖母は仕切りに自分のせいである、と繰り返している。
『謝っても謝っても足りません。贖う事も、償う事も、到底出来るものではありません。それでも、ひとつだけ。これだけは、お聞き入れくださいませ。全ての責はわたくしのもの。どうか、恨むのなら、わたくしひとりをお恨みくださいませ。どのように責められたとしても、わたくしは貴方様の幸せを、真実願うております』
 最後もそう締められていた。上辺だけではない何か、が流れ込んで来るのを感じ、言葉にならない。
 読み終え、優一は副島と母の顔を交互に見た。
「……大奥様の事だから、恐らく全ての責任はご自分にある、と仰っていると思う。だからこそ先に伝えておきたい。この件を大奥様に提案したのは、私の方からだ、と言う事を……」
「……先生が……!?」
「そうだ。きみに安全に、尚且つ確実に成長して欲しいと願われた大奥様から相談されたのだ」
 副島の顔を凝視したまま、優一は言葉を失っていた。
「あの時、不思議な程にすり替えの状況が揃ってしまっていた。采配だと……これしか方法はないと……躊躇う大奥様を、私が強引に押し切ったのだ。身元がバレないように、きみたちを入れ替えようと……」
 告白した副島の遠い目。そこには何か、他の感情も含まれているように見えた。少なくとも優一には。だが、踏み込んではいけないような気配に、話題を切り替える。
「……あの……本当の小半さん親子は……」
 優一のもっともな質問に、副島はやや目を伏せた。却って何か訊いてはならない事を訊いてしまったのかと、一瞬、優一は喉の奥が締まるのを感じる。
「……母親の方は……もう何年も前に亡くなったが、子どもの方は元気でいる。当然、きみと同じ歳な訳だが……」
「そうなのですか……」
 入れ替わった男の運命を慮る優一に、副島は躊躇う気配を打ち消した。
「本当は私の息子なのだ……もちろん、戸籍上は違う」
「……えっ……!?」
 優一は副島の顔を凝視した。当然、副島ほどの人物に、過去に何もない、などと考えていた訳ではなかった。むしろ、自分の本当の父親が副島なのではないか、と考えるほどであったのだから。それでも驚きは隠せなかった。
「……では……」
「……そうだ。それもあって、きみとのすり替えを思いついたのだ」
 副島の目には、後悔とも贖罪とも、かと言って開き直りともつかない、何とも不思議な色が浮かんでいた。敢えて優一が思い当たる言葉にすれば、それは『無』に近い。だが、『無』と同一でもない。
(何故、リスクを冒してまでそんな事を──)
 それを優一は知りたいと思った。何のためにそこまでしたのか、を。だが、訊いて良いのかは判断がつかなかった。
 黙って自分を凝視する優一の目。副島はその中にある疑問を読み取り、己を促すように頷いた。
「……松宮昇蔵氏は……私にとって特別な存在であり、返し切れないほどの恩もあった。だが、こんな事を考えたのは、それを返すため、だけではない」
 そう言い、副島は初めて眉根の辺りに感情を表した。
「……昇蔵氏に対する敬愛とは別に、私は大奥様に……冴子さまに憧れていたのだ。あの方のお役に立つためなら、恐らく私はどんな事でもしただろう」
 沙代が僅かに反応した事に優一は気づいた。副島の気持ちに、沙代は気づいていたのであろう、と。
「もちろん、これは私だけの気持ちだ。年齢も親子ほど違ったし、私がひとりで勝手に想っていただけの……私にとって冴子さまは、あまりに遠い存在で、もはや現実の女性(にょしょう)とは思えぬほど高みにおわす方だった。傍近くお会い出来るだけで、この上ない幸せを感じていたのだ」
「……先生がそれほどに……?」
 いくら副島の言う事とは言え、自分の『祖母』がそれほどの女性(じょせい)であったとは俄には信じられなかった。すると、副島は脇に置いていた冊子を黙って差し出した。
「これは……?」
「きみのお祖父様とお祖母様、そして父上が子どもの頃と、母上との結婚の時の写真だ。色が褪せてしまっているが……」
 息を飲み、古びた冊子をじっと見つめた。伸ばす手が、微かに震えているのが自分でもわかる。
『本当の家族』
 そんな言葉が脳裏を過った。だが、それは、今まで愛を注いでくれた母に対して、申し訳ない気持ちを湧き上がらせるものでもあった。
「優一……見せて戴きなさい」
 息子の躊躇う気持ちを感じ取ったのか、母・沙代が優しく促した。母の顔を見つめると、微かな笑みを湛えて静かに頷く。
「……拝見します……」
 恐る恐る表紙を捲ると、最初のページには色褪せた大判の写真が一枚。中年と思われる男と女が笑って立つ間に、若い男が少し畏まって写っている。それが若き日の副島であることは、その目と面差しで優一にもすぐにわかった。
「……先生……」
「……私が学生の頃だ……」
 副島が遠い目をする。
「私の両隣に立っていらっしゃるのが先代の松宮夫妻……つまり、きみのお祖父様とお祖母様だ」
 四十代前半くらいであろうか。自分の祖父だと言う男は、その年代の男にしてはすらりと背が高く、優しげでいて静かな知性を放つ目と、ひと目を引いたであろう顔立ちをしていた。目の辺りに自分との共通点を見出す。
 そしてその妻──副島が憧れ抜いたと言う祖母の姿に息を飲んだ。やや中性的ながら華やかな顔立ち。それ以上に発せられる不思議な雰囲気。とは言え、年齢的なものか、写真であるためか、副島が心の奥底まで囚われた、と言うほどの実感はわからなかった。
 それよりも強烈に感じたのは既視感。自分の祖母だから、と言う以上の何か。
 疑問に思いながら、優一はページを捲った。
「……この男の子は……」
「それがきみの父上だ。私が出会った頃は、確か十歳にはなっていなかったと思う。頭の良い子だった」
 利発そうな目をした少年。祖父母の容姿を半分ずつ受け継いた、と言う顔立ち。
(……父……これが、おれの……)
 さらに、もう一枚。
「…………!」
 先程の少年が成長したのだと、すぐにわかる正装した凜々しい姿。その隣には、すらりとした女性がドレス姿で寄り添っている。ひと目でわかる、自分の鼻筋から口にかけては、この人に似ているのだ、と。
「ご両親の結婚式の写真だ。きみは昇蔵氏と、母親である美紗(みさ)さんに似ているな」
「……美紗……」
「お母さんの名前だ。聡明な女性だった」
 副島の言葉に、沙代が同意するように目を伏せた。
「……先生は……どういった経緯(ききさつ)で松宮家と……?」
 優一の質問に、副島は目を閉じた。何かを思い出しているかのように。
(何人の女性と出逢おうとも、どれほど素晴らしい女性と出逢おうとも、そちらに向こうとしないこの気持ちは、ある意味に於いて既に石になったも同然だった……)
 心の中で回想しながら、副島はひとつひとつ思い起こしていた。言葉を、表情を、記憶に残る思い出の全てを。
(おふたりの忘れ形見をお預かりするなどと、今思えば身の程知らずな事を思いついたものだ……)
 思わず心中が苦笑いで満ちる。
「……私が松宮昇蔵氏に……冴子さまにお会いしたのは大学生の時だった。……あのおふたりには、私は天の果ての……その果てまでもご一緒したいと思っていた……」
 
 静かに語り出した副島に、優一は居住まいを正して向き直った。
 
 
 
 
 
〜つづく〜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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