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夢待人〔結編〕

 
 
 
 ふたりで買い物をしてしばらく後の朝。

 身支度を整えたイメミが桐吾(とうご)を呼びに行くと、まだベッドに潜り込んだまま丸くなっている。

(あれ? 夕べも良く眠ってらっしゃったよね?)

 以前のことは知らないが、少なくともイメミが菅江家に来てから、この一年ほどはきちんと起きていることが多かったため、珍しい。

「桐吾さま? もう、朝食のお時間ですよ?」

 布団に手をかけ、そっと声をかけるとモゾモゾ動いて目を開けた。

「……ごめん。今日、朝ごはんいらない……」

「え!? 具合がお悪いですか?」

 額に手を当てるが、特に熱がある様子もない。

「大丈夫。ちょっと身体が重いだけ。今日はこのまま休んでるから、イメミちゃん食事して来て」

 イメミの不安そうな表情を読んだのか、桐吾は気怠そうな顔に無理矢理と言った体で笑みを浮かべた。

「……本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫。おとなしく寝てるよ」

「わかりました」

 不安を拭えないまま、後ろ髪を引かれるように食事に向かった。

「あれ? 桐吾は?」

 ひとりで食事に現れたイメミに、健吾(けんご)がすぐに反応した。

「少しお身体が重いと仰って……朝食はいいそうです」

「ずいぶんと久しぶりだな。ここのところ、ずっと調子良さそうだったから……」

 つぶやく健吾の向こうで、菅江(すがえ)が僅かに眉根を寄せる。

「まあ、そんなに心配しなくて大丈夫だよ。きみが来るまでは、ちゃんと起きてる方が珍しいくらいだったんだから」

「はい……」

 慰める健吾の言葉に小さく頷き、イメミはうなだれてテーブルに着いた。何と言えば良いのか、仕事を失敗したような気分になってしまう。きちんと桐吾の体調管理を出来ていない、と。

「出かける」

 どうにも晴れない気持ちで、食事を無理やり胃に送り込んでいたイメミが菅江の声にハッとする。

「父さん。ぼくは今日は大学に顔を出します」

「そうか」

 健吾の言葉に頷いた菅江がいなくなると、何故かはわからないが、イメミの不安が急に増した。

「…………」

「急にどうしたの?」

 不意に立ち上がったイメミに、健吾が驚きの目を向ける。

「あ、い、いえ、申し訳ありません、食事中に……」

 座り直したイメミは、今度は黙々と食事を口に運び始めた。呆気に取られた健吾だが、すぐに目を逸らすと口元を小さく動かす。

「そんな食べ方じゃ身体に良くないよ」

 誰に言うともない、健吾のつぶやき。手を止めたイメミは、声の主の顔を見た。自分の方を見ている訳ではなかったが、健吾なりに心配してくれていることだけは感じられる。

 その気づかいに応えようと、心を落ち着けて食事を終え、白湯を持って桐吾の様子を見に行った。

「桐吾さま。具合は如何ですか? 少しは良くなられましたか?」

 声をかけるともぞもぞと布団が動き、桐吾が半分ほど顔を覗かせる。

「……ん……大丈夫……」

「白湯をお持ちしました。少し水分を摂らないと……」

「……ありがと……」

 とても大丈夫そうには見えなかったが、自分の不安が桐吾に伝わらないよう、イメミは努めて平静を装った。背中を支え、ゆっくりと飲ませる。

「イメミちゃん、頼みがあるんだけど……」

 白湯を飲み、ホッと息を吐き出した桐吾が言った。

「何でしょうか?」

「書庫から本を取って来て欲しいんだ。机の上にメモ置いてあるから……」

「わかりました。おとなしく寝ててくださいね」

 おとなしく寝ている以上のことを、今の桐吾が出来るとは到底思えなかったが、とりあえずいつも通り口うるさい自分でいようと心に決める。

 笑って頷く桐吾を元のように寝かせ、メモを持って書庫に向かった。

「えーと……?」

 分類別の本を端から見て行く。

「あった! これと……?」

 桐吾に頼まれた本は5冊。2冊は古語に関する蔵書、3冊は音楽に関する教本であった。抱えて桐吾の部屋に戻る。

「桐吾さまー? これ、この本、机の上に置いておけばいいですかー?」

 返事はなかった。

「…………? 桐吾さま? おやすみですか?」

 眠っているのなら起こさないようにと、そっとベッドに近づいて覗き込む。

 瞬間、イメミは自分の意識が真っ白になって飛んだ気がした。

「桐吾さま! 桐吾さま! しっかりなさってください! 桐吾さま! ……誰か……! 誰かお医者さまを! 桐吾さまが……!」

 紙のように真っ白になった桐吾の顔と手。触れると血が通っていないかのように冷たくなっている。

「どうしたんだ!?」

 真っ先に飛び込んで来たのは健吾だった。

「健吾さま……! 桐吾さまの様子が……!」

 泣きそうな顔で訴える。

「……何だって?」

 眉をひそめた健吾が、イメミの背後から桐吾の様子を覗き込んだ。

「桐吾! 桐吾! しっかりしろ!」

 反応はなく、さしもの健吾の顔にも焦りが生じる。

「どうなさったのです!?」

 騒ぎを聞きつけ、今度は室井が駆け付けて来た。

「室井さん、桐吾さまの様子が……!」

「何ですって!?」

 室井も桐吾に駆け寄る。

「若様! 若様!」

「桐吾さま!」

 三人の呼びかけに桐吾の眉がわずかな反応を示すと、気づいた健吾の行動は早かった。

「室井さん、先生を! ぼくは父さんに連絡する! 濱坂さん、桐吾を頼みます!」

 健吾が叫ぶ。

 ふたりが慌ただしく部屋を出て行く音を聞きながら、イメミは枕元で桐吾の手を握った。

「桐吾さま……! しっかりなさってください……!」

 イメミの声が聞こえたのか、薄っすらと目を開けた桐吾の唇が、苦し気な息の元で微かに動いている。

「桐吾さま?」

 イメミは桐吾の口元に耳を寄せた。

「何ですか? 何か欲しいんですか?」

 なかなか声にならない言葉を、必死に聞き取ろうとする。

「……ごめん……」

「なんで謝るんですか!」

 微かに桐吾の口角が上がった。表情だけなら、いつもと変わらぬ笑顔なのに、と胸が締め付けられる。

「……本当は手に入れたりしちゃダメだったのに……」

「はい……?」

 桐吾が何のことを言っているのか、イメミには全く理解出来なかった。

「どうしても、どうしても……例えいっときでもいいから、なんて欲を出しちゃったからなぁ……」

「桐吾さま、一体なにを……」

「身勝手だとわかっていて、それでも後悔してないのに……」

 困惑するイメミから目を逸らすことなく、だが、消え入りそうな声で桐吾は続ける。

「自分のことしか考えてなかった報いを……自分じゃなく、きみに……負わせることもわかっていたのに……」

 苦しげな声が途切れた。だが、まだ何かを言おうとしている気配を感じる。

「桐吾さま! 喋らないでください! すぐにお医者様が見えますから……」

「……それでも夢を見たかった……この手に入れたかった……兄さんより先に……」

 一瞬、イメミの思考が停止した。

「ずっと見られないとわかってても……」

「桐吾さま……」

 不吉な言葉に、過日、健吾が洩らした言葉がイメミの脳裏を過る。

『……心配したって始まらないのに……どうせ……』

 あの時、健吾は『どうせ』──その後、何と言おうとしていたのか──。

(……私が……ずっと桐吾さまの傍にいることは出来ない、って……わかっていて……? 遠からず、私は置いて行かれるんだ、と……?)

 心臓の音が波打つのを感じる。まるで太鼓の撥で激しく叩かれているように。

「……はじめから……?」

 イメミの問いに、桐吾は申し訳なさそうな、だが、どこか悪戯がバレた子どものような表情を浮かべた。

「……ずるい……!」

 思わず、口を衝いて出る。

「桐吾さまは、ずるいです……!」

 涙目のイメミを、桐吾は切なげに見つめた。

「知ってたでしょ? 最初に言ったよ? ぼくは狡い男だって……」

「……そんなこと……!」

 桐吾が自分で言い続けて来た言葉、幾度となくイメミも聞かされた言葉、そして、桐吾にぶつけたこともある言葉。

「……こんなことだなんて思ってなかったです……」

「……ごめん……」

 とうとうこぼれたイメミの涙に、桐吾は本当にすまなそうに言い、苦しそうに喘いだ。

「……きみが来てくれてから、毎日が楽しくて仕方なかった。……ありがとう……」

 それでも、まだ、伝えようとする。

「桐吾さま……! もう……もう本当に喋らないで……今、お医者様が……」

 顔を近づけると、桐吾の唇が未だ動いていることに気づいた。

「桐吾さま? 桐吾さま?」

 必死で呼びかけ、切れ切れの声を何とか聞き取ろうと、再び、耳を寄せる。

「…………!」

 驚きに、イメミは目を見開いてまばたきを止めた。

『きみの中で、初めて夢らしい夢を見た。きみと共に生きてゆく夢を』

 こみ上げるものを堪え、イメミは叫んだ。

「……何故、『夢』なんです! 何故、『目標』にしてくれないんです! 今からでも『目標』にしてください! 一緒に叶えて……!」

 喉の奥が引き攣る。

「……私も見ました……同じ夢を……桐吾さまの……あなたの腕の中で一緒に……このままずっと、あなたの腕の中に一生いられる夢を……」

 最後は言葉にならなかった。喘ぐように声を出すと、力を振り絞った桐吾の手が羽のように頬に触れた。

「……夢なんかで……終わらせたくない……終わらせないで……」

 嗚咽しながら顔を伏せると、その髪を大きな手がなでる気配。

「……ごめん……」

 囁くような声でもう一度。

 同時に、握っていた方の手に、一瞬、力がこもった。だが、次第に抜けて行くのを感じ、イメミは声にならない叫びを上げた。

「……桐吾さま……!」

 ぬくもりの残る手と身体が完全にゆるむ。

「……桐吾さま……」

 駆けつけて来た気配を背後に感じながらも、イメミは握った手に額を添えたまま身動きひとつ出来なかった。嗚咽を堪えて震えるイメミを、誰も桐吾から引き剥がしたりはせず、ただ俯いて見つめる。

 そっと肩に置かれた健吾の手だけが、生きている者のあたたかさを伝えてくれていた。

 それでも。

 幾夜を越え、同じ時にふたりが共に見た夢は、春の空に淡く溶けて行った。

「お世話になりました」

 イメミは菅江に頭を下げ、最後の挨拶をした。

「濱坂さん、本当に世話をかけました。桐吾を看取ってくれたのが貴女で良かったと……感謝しています。本当にありがとう」

 菅江の労いに感謝し、イメミは万感の想いをこめて再び頭を下げる。

「ところで……桐吾のことは別として、このまま当家に留まって復学して戴いても良いのですよ? いえ、むしろ、桐吾はそれを望んでいたと……」

 だが、その申し出には首を振った。

「旦那様のお心遣いは、とてもありがたく思っています。でも、私にはもったいなさ過ぎて……そこまで甘える訳には行きません。お気持ちだけ頂戴致します」

 残念そうに溜め息をつき、菅江が躊躇いがちに何かを言おうとする。

「……私はずっと、健吾に対しても、桐吾に対しても、私自身の負い目を感じさせることで、逆にふたりにも背負わせて来てしまいました」

 イメミは黙って聞いていた。

「濱坂さんは、健吾と桐吾からお聞きでしょう……その……私とふたりの母親との経緯を」

「……少しだけ……」

 その返事に、菅江がきまずそうな、それでいて少し安堵したような様子を見せる。

「桐吾の母親との結婚の話が出た時、もちろん私は健吾の母親と別れるつもりなどなかった。けれど、そのつもりで臨んだ顔合わせの時、一瞬とは言え、桐吾の母親に目を奪われたことは否定しません。少しも心が揺らぐことがなかったかと問われれば……」

 菅江が、自身も今までの全てを精算し、健吾と向き合いたいのだと気づき、イメミはそのまま口を閉じて聞いていた。

「顔合わせに出向いたからなのか、私の優柔不断に気づいたからなのかは定かでありませんが……いや、全てに対して嫌気が差したのかも知れません。直後に健吾の母親は、自ら私の前から姿を消してしまいました」

「え……」

 視線を下方に向ける菅江を見つめる。

「どんなに探しても見つけることが出来ず、私は諦めてしまったのです。……それから数年経って、彼女が亡くなった、と聞いた時、初めて健吾の存在を知りました。何とか償いをしなければ、と思いながらも、私にはどうして良いのかわからなかったのです」

「そうだったんですか……」

「健吾が……いや、ふたりが私に望んでいたのは、そんなことではなかったのに、もう、今さらどうにも変えられなくなっていた……」

 それで菅江は健吾の母親を捨てた、と言う汚名を自ら着たのだ、とイメミは気づいた。自分が悪者であり続けること──それが、菅江なりの健吾に対する贖罪の気持ちだったのだ、と。

「旦那様のお気持ちはわかります。けれど、例え、はじめは信じてもらえなくても、健吾さまに事実をお伝えした方がいいと思います」

 菅江の表情は消極的だった。

「……今さら……」

 言い訳などしてどうなると言うのか──菅江がそう思っていることは、イメミにもよくわかった。

 だが、それでは、どこまで行っても平行線のままなのだと、イメミにはわかっている。変わるのはこれからで、変わるべきなのは今からだ、と言うことも。

「そうすれば、健吾さまは欲しくて堪らなかったものを、きっと手に入れられると思います。……いいえ。初めからご自分の手の中にあったのだと、気づかれると思います」

 確信を持ったイメミの言葉に、菅江は一瞬とは驚き、少し考える様子を見せて小さく頷いた。

「私まで救われた気分です」

 初めて見る、淡いながらもやわらかい笑顔。それは、イメミにとって最高の餞となった。

「健吾さま、お世話になりました」

 菅江への挨拶が済んだイメミは、今度は健吾と向き合っていた。

「本当に行ってしまうのかい? きみさえ良ければ、このまま家(うち)で……父もぼくと同じことを言ったはずだ……」

 その申し出に、やはり静かに首を振る。

 睫毛を微かに翳らせたイメミは、目の前の健吾に見つめられているのを感じた。今、自分は、菅江家に来てから初めて、最も素の表情の健吾に遭遇しているのだ、と思う。

「……桐吾に……」

 言いかけて、健吾は取り下げた。少し睫毛を伏せながら小さく首を振る。

 想いを巡らせるような間の後、少し切なげな表情をイメミに向け、心を決めたように目を瞑った。

「……ずっと、桐吾が妬ましかった」

 そのたったひと言を口にするために、その事実を認めるために、どれほどの葛藤があったのかと慮る。口にしてしまえば簡単なのに、認めてしまえば楽になれるのに、どうしても表せなかった気持ちを。

「……それと同じくらい、桐吾が可愛かった」

 言って、健吾は慌てて顔を上げた。

「勘違いしないでくれ。今じゃない。初めて会った頃の桐吾のことだ」

 取り繕うように言い訳する様子に、イメミは笑いを堪える。

「たったひとりの母がいなくなり、父だけじゃなくて弟まで出来たんだって思いながら、反面、今まで自分が得られなかったものが、桐吾には与えられて来たんだって考えると苦しかった」

「健吾さま。健吾さまが桐吾さまを羨んでおられたように、桐吾さまも健吾さまを羨んでいらっしゃいました。貴方の健康なお身体を……」

 健吾が息を飲んだ。

「何より、未来を夢見れることを。……比べられるものではありません。自分が持っていないからこそ憧れるものなのですから。……でも……」

「でも……?」

「貴方は本当は持っていらっしゃる……桐吾さまと同じものを、はじめから」

「…………!」

 健吾が睫毛を翳らせる。

「見え方が違うだけです」

 目を閉じ、健吾は小さく頷いた。

「そうかも知れない。見ようとしていなかっただけ……かもな……」

 健吾のその言葉にイメミは微笑んだ。

 桐吾は健康な身体を手に入れることは出来なかったが、健吾は望むものを手に入れられる。いや、元からその手の中にあったのだ、と言っていい。その呪縛から健吾が解き放たれるのだと思うと、イメミも嬉しかった。

 そんな雰囲気が伝わったのか、健吾が懐かしむように、どこか切なげな表情を浮かべ、持て余した指を動かす。

「桐吾は幼い時から、恐らく大人にはなれないだろうと言われていた」

 桐吾の話であるなら、イメミはどんなことでも知っておきたいと思った。どこがどんな風に『ずるい』のか、全てを。

「父は……桐吾の命を少しでも長らえさせようと、あらゆる手段を惜しまなかった。そのためなら、どんなことでも講じた。その甲斐あって、桐吾は何とかこの歳まで生きて来れたんだろう」

 菅江なら、桐吾や健吾のためならどんなことでもするだろう、とイメミは思った。それは贖罪などではなく、ふたりに対する、父親としての純粋な愛情だと言うこともわかる。

「でも、一度だけ、本当にもうダメだと思ったことがあるんだ。きみがこの家に来る前だから、2~3年経つだろうか……あの時は、正直、ぼくも諦めたよ。だけど、不思議な……今となっては奇跡としか言いようのないことが起きたんだ」

「……奇跡……」

「それでも、恐らくあの時、桐吾は半分覚悟を決めたんだと思う。残された時間を……」

 そうとは思えないほどに、飄々としていた桐吾を思い出す。あのゆるい口調を、やわらかい笑顔を。

「桐吾の意識がなくなって……屋敷中が慌ただしくなってる時だった。医者が必死に桐吾の心臓を動かそうとしていた時、突然、割れたんだ……桐吾が寝る時にいつも聴いていたレコードが、綺麗に真っ二つに……」

「レコード……?」

 イメミの胸に、何か疑問がひとつ解けたような不思議な感覚が湧き起こる。

「桐吾の母親の形見だとかで……『夢導きし』って歌だったかな……それが割れた直後に、桐吾の心臓は動き出したんだ」

「…………!」

 やはり、と思いながら、謎が解けた、とイメミは思った。母親が良く聴いていたと言うレコードを、桐吾が持っている様子がないことを不思議に思いながらも、訊けずに素通りしてしまっていたから。

「桐吾は一命を取り留めた。けど、レコードが割れてしまったことで眠れなくなってしまい、体調は下降する一方だった。それを見かねた父が、必死でレコードを探したけど……元々の数が少ない上に既に廃盤になっていて、中古すらも手に入れられなかったんだ」

「まさか……」

「そう。ならば、生の歌ならどうか、と……父は考えたらしい。きみがお眼鏡にかなうまでに1年以上、4人もの女性が入れ代わり立ち代わりやって来た」

 こんなことがあるのか、とイメミは震えた。こんな巡り合わせがあるのか、と。

「今にして思えば、桐吾の母親が導いたんだと思う。桐吾の命を助けたい想いと、願いを叶えたい想いが、あのレコードに宿っていたのかも知れない。ぼくの母が、自分がいなくなった後、ここに辿り着けるよう導いてくれたみたいに……」

「健吾さま……」

「桐吾ときみは出逢う運命だった」

 こみ上げるものを堪え、喉と共に拳も締める。

「……それでも、ここに留まってはくれない?」

 健吾の言葉に、イメミはやはり首を縦に振ることは出来なかった。 

 健吾が求めているのは、『自分だけを特別に思ってくれる存在』──それ故に桐吾に対して兄弟としての情愛より、嫉妬にも似た感情を強く抱いてしまっていたことを、イメミは健吾の自分を見る目の変化から察していた。

 何より、健吾が求めていたのは『イメミの存在そのもの』と言う訳ではなく、実際には父親である菅江の気持ちの独占。それが、時が経つにつれ、表面化する形が変わって来ただけなのだ。

 健吾が見ていたイメミは、『桐吾』と言うフィルターを通しての存在から始まった。

 桐吾あってのイメミ、なのだが、その境界は曖昧過ぎて、まだ健吾はわかっていない。イメミが気づけたのは、桐吾と健吾──二人が同時にいたからであった。それでも、どんな形であれ、健吾が少なからず好意を寄せてくれていると気づいてしまった以上、ここに留まることは出来ない。

 イメミの心中を察したのか、健吾は話の流れを変えた。静かに封筒をテーブルに置く。

「桐吾から、きみが困った時には必ず手を貸して欲しい、と言われている。何かあった時は、いつでも言って欲しい。これは、桐吾の意思だ」

 意外な言葉と共に差し出された5冊の本、そして封筒の中身に、驚きと共に目頭が熱くなった。こぼれそうになる涙を必死で堪える。

「……ありがとうございます」

 それは、小原学園への推薦書と学費免除の書類。さらに、最後に桐吾に頼まれ、書庫から取って来た5冊の本も、以前に譲られていた父の著書と同様に渡された。

 イメミは、桐吾だけでなく、彼の希望を受け入れた菅江や、意思を伝えてくれた健吾の気持ち、その全てを受け取り、菅江家を後にした。

 桐吾がくれたネックレスは、あの日、偶然に見つけてプレゼントしてくれたものではなかった。

 偶然を装ってはいたが、元々用意してくれていたものなのだと、イメミが気づいたのは桐吾を見送った日。掌に乗せたそれをぼんやり眺めている時、ヘッドのリングの裏に、何か文字が刻まれていることに気づいたからであった。

『 T to Y 』

 はじめは何のことかわからなかった。

「……Tは桐吾さま……? Yは……? ……! ……まさか、違う人に渡すはずの……!?」

 驚いて立ち上がろうとした時、膝に乗せていた父の著書が滑り落ちた。隙間から、イメミに宛てた封筒がこぼれる。

 譲り受けた父の著書には、あの日、桐吾が選んだカバーがいつの間にか付けられていた。挟まれていた便箋も、あの日、桐吾が購入したものだった。

 中にはたったひと言──『きみが夢 ぼくの夢』──と書かれていた。

「……あ……」

 その一文を見た瞬間、Yの文字の謎も解けた。

『夢』

 イメミのことを、すなわち『夢』に準えてのメッセージなのだ、と。

 同時に、もうひとつの謎も解けた。

『言うべきことを、言うべき時には決して言わない』

 まさに、その通りであった、と。

「……本当にずるいなぁ……」

 笑おうとして、唇が震える。

 イメミは、そのたったひと言に対する返事を書き、桐吾からの手紙と重ねて本に挟み込んだ。

 肉体ごと解き放たれたあなた

 今では、見ること自体が夢であったはずの夢を見ているのだろうか

 自らの夢そのものと出逢い、見ることが出来ているのだろうか

 そうであって欲しいと願う

 私のことを、夢を導くものと、夢に導くものと言ってくれたあなただから──

 あなたと一緒に……あなたの胸で見た夢は、今、私の希望となってここに在る

 あなたが見た夢を抱いて

 私は今も、あなたの夢を見る


 
 
 
 
 
~おわり~
 
 
 
 
 
 
 
 

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