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かりやど外伝〜松の宮 護る刀自〔四〕

 
 
 
 後継ぎの問題が解決し、松宮家の時間は穏やかに流れていた──はずであった。
 
 陽一郎(よういちろう)が9歳になる頃、冴子(さえこ)は二人目の子を懐妊した。松宮家にとっては、かなり稀な事である。
 産まれた子は女児で、『曄子(はなこ)』と名付けられた。
 昇蔵(しょうぞう)は大層喜んだ。だが、出産直後に子の顔を見た冴子は、ひどく驚いたような表情を浮かべ、助産師たちが不思議に思う程であった。
 陽一郎も同じような反応で、口では『可愛い』と言いながら、あまり近づこうとはしない。周囲の者は、接し方がわからないのだろうと解釈していたが、近づきがたい理由は、陽一郎本人にもわかってはいなかった。
 
 それでも、特に何かが起きると言う事もなく、四人家族となった松宮家の日常は緩やかであった。
 陽一郎と曄子は十も歳が離れているため、特別に可愛がる事はなくとも、一般的レベルの兄としての振る舞いはある。曄子の方は懐いていると言って良かったが、年齢差のせいで接点自体が少なかった。
 異変は、陽一郎が大学に進学するに当たり、一人暮らしが決まった頃に起きた。兄が家からいなくなる、と言う話を聞き、周囲が唖然とするほどヒステリックに泣き喚いたのである。
 昇蔵の一喝で事は済んだが、これを走りとして冴子と陽一郎の不安は増幅した。寂しさから来る、子どもの一時的な感情の発露、だけとは思えなかったのだ。
 
 とは言え、一人暮らしを始めた陽一郎の学生生活は順調であった。昇蔵が望んだ通り、勉強、学内外の活動、ありとあらゆる経験を吸収し、忙しいながらも充実した毎日。
 
 何よりも、陽一郎にとって運命の出逢いもあった。
 それが大学で知り合った、ひとつ後輩の高村美紗(たかむらみさ)である。
 松宮家の後継者として、陽一郎は生まれつき当主の資質を備えてはいたが、とかく争い事を避ける性格でもあった。そんな中にあって、生まれて初めて本気の論議を強いられ、尚且つ論破された相手──それが美紗だった。
 その時、陽一郎は自分という人間が、本来はそれほどおとなしい性質(たち)ではない、と初めて知った。そして、論破された悔しさよりも先に立ったのは、今まで知らなかった自分を発見した事、本気で話し合える相手を得た事に対する新鮮な気持ち。
 その事を陽一郎が自覚した時には、既に二人は互いに惹かれ始めていた。距離は自然と縮まり、気づいた時には互いに離れがたい存在へと。
 陽一郎の気持ちは、大学を卒業する頃には既に固まっており、即日、両親に報告する決意に至った。
 美紗が卒業したら、すぐにでも結婚したい、と。
 
 それが、在らぬ方向に向かう始まりだなどと、この時は誰も想像していなかった。
 

 
 卒業と共に実家に戻った陽一郎は、次期当主として昇蔵の傍に付くようになった。

 見合いの話など出る前にと、それとなく在学中に美紗との交際は報告している。それに付随し、近い内に紹介したい事、彼女の卒業を待って結婚したい事なども伝えていた。
 両親の、特に冴子の反応は好意的なものであった。だが、昇蔵から出された条件は、陽一郎にとって衝撃以外の何物でもなかった。
「……お父さん……今、何て……」
 並んで座る昇蔵と冴子の向かい側で、陽一郎は呆然とする。
「だから、この間言っただろう。松宮の研究所で、今までとは違う画期的な技術が……」
「それはわかっています!ぼくが言いたいのは……!」
「お前のために開発を急いだのだ」
「………………!」
 陽一郎は言葉に詰まった。
「松宮の特性は、お前も十分にわかっているはずだ。せっかくの技術を使わぬ手はない。お前と、お前の結婚相手の遺伝子は、万が一に備えて保存しておく事。……これが私からの条件だ」
「待ってください!ぼくだけならともかく、彼女にもそれを受けろと言うんですか!」
「……嫌ならば、お前だけでも構わん。ただし、万が一の時には、他の女との子どもが松宮の後継者になると言う事だ。それでも構わんのだな?」
「そんな事は出来ません!彼女以外の人が産んだ子どもなんて考えられない……!ぼくには彼女しかいません!」
「ならば!」
 昇蔵の声色が変わった。
「彼女を説得する事だ。私の方の条件はこれだけなのだ。最大限の譲歩と思え!」
「出来ません!」
「では、この話は終わりだ。諦めるのだな」
 双方とも一歩も引かずに睨み合う。だが、陽一郎は父親の目の中に、今まで見た事のない色を認めた。自分では、父を引かせる事は出来ない、と言う漠然とした確信と共に。
「……それは出来ません。……どうしても認めてもらえないなら……ぼくはこの家を出ます」
 昇蔵の動きがとまる。
「……何だと?」
 陽一郎もまた、昇蔵が見た事のない目を真っ直ぐに向けた。
「……彼女との事を認めてもらえないなら、ぼくはこの家を出て行きます……!」
 昇蔵の拳がテーブルを叩き、飛び上がったカップが音を立てる。
「馬鹿な事を!松宮家をどうする気だ!」
「ぼくにとっては、彼女の方が大事です!」
「勝手な事は許さん!」
「何と言われようと、ぼくには彼女しかいません!」
 そう言い放ち、陽一郎は部屋を飛び出して行った。
「待て、陽一郎!」
 昇蔵の声が背中を追いかけて来る。しかし陽一郎は、立ち止まる事も、振り返る事もなかった。
「……何と言う事だ……!」
 椅子に座り込み、手で額を覆った昇蔵が呻いた。一切、口を出さずに聞いていた冴子が、初めて唇を動かす。
「……あなた……」
 冴子を振り返った昇蔵の顔は、ほんの数分の間に憔悴していた。
「……わたくしに……陽一郎と少し話をさせてください」
 ゆっくりと身体を冴子に向ける。
「……陽一郎を説得出来ると言うのか?」
 昇蔵の質問に、冴子は考えるように少し俯いた。
「……わかりません。……わかりませんが、一方的ではあの子も却って意固地になるでしょう。少し落ち着いてから……話してみたいと思います……」
 冷静な調子の冴子の言葉に、昇蔵自身も少し頭が冷えて来たのを感じる。
「……わかった。任せる」
「ありがとうございます」
 冴子は自分の手を昇蔵の手に重ねた。
 
 その夜、冴子は閉じこもっている陽一郎の部屋の扉を叩いた。
「陽一郎。わたくしです」
 少しの間の後、静かに扉が開き、暗い目をした陽一郎が姿を見せた。
「……少し話したい事があります」
 静かな冴子の声に、無言で身体を傾ける。空けられた隙間から、冴子は中へと足を踏み入れた。
「……陽一郎、ごめんなさいね」
 背を向け、窓の外を見つめる息子。その頑なな背が驚いて振り返る。
「……何故、お母さんが謝るんです」
「……お父様をあんな風にしてしまったのは……わたくしと松宮の家だから……」
「……どう言う事です?」
「……本当は……わたくしがこの家に産まれたのです」
 言葉としての反応はなかった。だが、驚いている事は、表情が全て物語っている。
「……責めないで差し上げて欲しいのです。お父様には、本来、松宮に関する責任は一切ないのですから。当主とされた事で無理やりに、必要以上の重荷を背負わされたようなものなのです……」
 冴子は、瞬きも滞った息子の顔を見上げた。
「……だからと言って、あなたにもこの家に産まれた責任はない……」
 陽一郎が呼吸を飲み込む音だけが響く。
「……来週にでも、美紗さんを連れていらっしゃい」
「……お母さん……!」
 思わず大きくなる声。だが、冴子は動じなかった。
「……お父様がそこで何を仰ろうとも……」
「……待ってください。ぼくはお父さんの条件を飲む事は……」
 冴子が陽一郎の言葉を手で遮る。
「……あとは、わたくしが何とかします」
 言い切る母に、陽一郎はそれ以上の反論は出来なかった。
「……わかりました」
 用件を伝え、歩いて行く母の後ろ姿は真っ直ぐだった。
 
 見送りながら、初めて知った両親の秘密に、陽一郎の心はざわついていた。
 

 
 冴子が高村美紗を訪ねたのは、その翌日の事である。
 
 玄関の扉から姿を見せた美紗に、冴子はひと目で好感を抱いた。
「……高村美紗さん……?」
「……はい……高村美紗ですが……あの……」
「突然、ごめんなさいね。わたくしは松宮陽一郎の母です。息子がいつもお世話になっております」
 美紗が息を飲んだ。
「……陽一郎さんの……お母様……」
 呆然とした体から我に返ったのか、慌てて頭を下げる。
「……はじめまして……高村美紗です」
「そんなに畏まらないでくださいな。突然、お邪魔したのはわたくしの方なんですから」
「……はい……あの……」
「本当にごめんなさいね。実は、お話しておきたい事があって……今、少しよろしいかしら?」
「……はい……あの……狭いところですが、どうぞ……」
 冴子は軽い会釈で礼と返事をし、美紗について玄関の扉を通った。
  
「……どうぞ……」
 美紗が淹れたお茶を前に、二人はテーブルを挟んで向き合った。
「……それで、お話と言うのは……」
 美紗の目が、警戒心で微かに揺れている。交際を反対されるのでは、と恐れている事が、冴子には良くわかった。
「……美紗さん、あなたはこれから、例え何があっても、陽一郎を想い続けてくれますか?」
 戸惑いで、返事は一瞬遅れた。
「……もちろんです」
 嬉しそうに頷く冴子の様子は、美紗に『予想していた話の内容』とは違うものを感じさせる。
「……では、これからわたくしが言う事を、心して聞いて欲しいのです。あなたを相当困惑させると思うから……」
 不安を煽る言葉、ではある。だが何故か、美紗は冴子に対して、一種の信頼感のようなものを抱いた。その直感故に、躊躇いもなく「はい」と答えて居住まいを正す。
「……ありがとう」
 やわらかい表情を浮かべた冴子を、美紗は今まで会った誰よりも美しい人だ、と思った。それは単に見かけだけの問題ではなく、である。
 
「陽一郎から、松宮家がどんな家であるか、少しは聞いていらっしゃいますか?」
 少し困惑した表情に、ある程度の事は知っている、と冴子は判断した。
「……あの……古くから続いている由緒あるお家と……」
 遠慮がちな言い回しに、冴子が小さく笑う。
「そんなに大層な家ではありませんよ。確かに古さだけは筋金入りですけどね。元々、貴族でもなければ武家でもない……畏まるような家ではないのです」
 美紗が首を傾げた。
「……そう言う事ではなくて……例えば、松宮の家は跡継ぎに恵まれにくい、とか……」
 はっとした表情に、知っていた事が覗える。
「……これは本当の事なのです。ですから、普通より格段に子どもを授かる可能性は低い……それでも?」
 問いかける冴子に、美紗は意思を込めた目で頷いた。
「……では、遠回しな言い方はしません。それに、これはむしろお願い、と言った方が正確かも知れないから……」
「お願い……?」
「そうです。恐らく、近いうちに陽一郎から言われるはずです……わたくしたちに会って欲しい、と。……陽一郎の事だから、まだあなたに伝えていないでしょう?」
「……はい……そう言ったお話は……」
 話の内容に驚く間もない。
「その折に、松宮から……主人から信じられないような条件を出されるはずです」
「……条件……」
「主人は、新しい技術で陽一郎とあなたの遺伝子を保存する事が、二人の結婚を認める条件だと言うでしょう」
「……遺伝子を保存……?……そんな事が出来るんですか?」
「……ええ。主人は、あなたの卵子と陽一郎の精子を、万が一に備えて保存しておくつもりです」
 初めて聞く未知の話は、美紗にとって現実離れしていた。だが、冴子が嘘を言っているとは到底思えない。
「陽一郎は大反対して……あなたにそんな真似はさせられない、と。もし、そんな事をするなら、自分は松宮の家を出る、と……」
「……えっ……!?」
 自分のためにそこまで言ってくれたのか、と言う思いと、そこまでしなければならないのか、と言う思いが、美紗の心の中を交互に巡って行く。
「……それが、どんなに理不尽な事を言っているのかわかっていても……わたくしには……主人の松宮存続への異常な執念を止める事も責める事も出来ない……わたくしにはその資格がないのです……」
 哀しげに睫毛を翳らせる様子に、美紗は何かを感じた。
「……お話は大体わかりました。お母様は……お母様が仰る『お願い』と言うのは、私にその話を受けてくれ、と言う事なんですね?」
 真っ直ぐに見つめ合う二人。
 冴子は、自分の勘は間違っていなかった、と確信した。そして、美紗もまた。
「……陽一郎さんとの事を、きちんと認めて戴けるなら、私に出来る限りのどんな条件でも、私はお受けします」
 はっきりと言い切る。一瞬、冴子ですら息を飲むほどに、それは惑いのない返答であった。
 冴子が美紗の手を取る。
「……ありがとう、美紗さん……」
 
 冴子はこの後、もうひとつの憂い、娘の曄子に関しても打ち明けた。自分が生きている間はともかく、いなくなってからの。
 恐らく、美紗にとって仇となるであろう事、上手く付き合おうなどと考えず、とにかく関わりを少なくする事──などを。
「……もちろん、何とかしておくつもりではあるけれど……」
 あまりに不安気な冴子の表情。さすがに美紗の胸にも一抹の不安を過ったが、陽一郎への想いが変わるはずもなく。
 
 数日後、美紗は陽一郎の父・昇蔵とも向き合う事になる。
 
 
 
 
 
〜つづく〜
 
 
 
 
 

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