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課長・片桐 廉〔9〕~想戀編

 
 
 
 ━金曜日。

 出張中の処理を終わらせるために必死になる。たった4日で何なんだ、と言うくらい、溜まりに溜まった仕事。いや、だがそれでも、根本くんも朽木もよく頑張ってくれていたのは充分にわかった。

 それでも、だ。こう言うときに、万年、人手不足なのを実感する。おれたちが全員、二人ずついれば解決しそうなものなのだが、如何せん、身体はひとつしかない。他の面々もアシスタントも、どんなに頑張ってくれても限界がある。

 それと、昨夜、かなり遅い時間に返事をくれた今井さんのことも何となく心配だったのだが、いつもと変わらずに出社していて一先ず安心した。まあ、社会人としては当たり前なのだが。

 この状況で、大したことじゃない用事で専務から呼び出されたら最悪だ。何とか目処が立つまで放っておいて欲しい。それだけが今の望み。

 別に専務のことが嫌いなワケではないが、正直、苦手なところがあるのは否定出来ない。恐らく、半分以上は作り込んだキャラクターなのだろうけれど。

 駆け込みで昼メシを食いながら、今井さんにメールを入れておく。少し遅くなるかも知れないが、退社できる状況になったら連絡する、と。近くにいるんだから直接言えばいいのだが、今日は何故だか話せるタイミングが合わない。

 すぐに承諾の返事が来たのを確認し、おれは携帯電話をポケットに滑り込ませた。その一連の流れを、メシを食いながらじっと見ていた朽木がボソリと突っ込んで来る。

「……女性ですか?」

「そうだ」

 敢えて否定しないのが得策。全てを明かさずとも、少しだけ本当のことを言えばいいのだ。むしろその方がボロが出にくい……はず。

「……親密な?」

「それはきみには関係ない」

「……なるほど。あの方ですか」

 ポソリと呟くコイツ、小憎らしい!そう言って、おれを乗せようとしているのは明白だ。無言だぞ、おれ。

「先に戻るぞ」

 朽木にそう告げて部屋に戻ったおれは、積んであった業務を馬車馬のように片づけて行った。来週への持ち越しは出来るだけ避けたい。幸い専務からの内線もなく、戻って来た朽木も集中し始めたようで予定以上に捗った。

 ようやく一段落がついた時、時計を見ると予想よりは早い。集中すれば朽木はヘタなベテランより余程使えるのだ。

 一週間フルだった根本くんと朽木を帰し、今井さんに連絡を入れようと自分も社外に向かう。

 ……と、ちょうど休憩室の前を通りかかった時、ふと中を覗くと、今井さんがぼんやりとコーヒーを飲んでいるのが目に入った。

 両手で握ったコーヒーカップをじっと見つめる彼女の目を見た瞬間、何故だか、数日前の東郷の言葉が脳裏を過る。

『里伽子先輩、ずっと気になる人がいるみたいな感じだったんですよね』

 あれは『好きな男』もしくは『忘れられない男がいる』と言う意味だったのだろうか。ニュアンスから言えばそう考えるのが自然だが、普段の今井さんを見ていて、おれにはその様子はわからなかった。もちろん、そんなによく彼女を見ていたワケではないのだが。

 だが、果たして東郷以外に、あのポーカーフェイスの彼女の心情に気づいている人間がいただろうか?

 もし、東郷の見立てが間違っていないとするならば、彼女がずっと気になっている男、と言うのは一体誰なのか。おれが知っている相手なのか、知らない相手なのか。気になり始めるとキリがなかった。

「片桐課長?」

 ふいに呼びかけられ、おれの意識は引き戻された。今井さんが、入り口の傍に立ち尽くしているおれに気づいて声をかけてくれたのだ。

「そんなところに黙って立っていらっしゃるからびっくりしました。お仕事、一段落つかれたんですか?」

 今井さんの問いに、連絡しようと握りしめていた携帯電話が、おれの手の熱で曇りかけていることに気づく。

「……あ、ああ、遅くなってすまない。今、ちょうど連絡しようと思っていたところだ」

 おれの返事にやわらかく微笑み、「ちょっと待ってくださいね」とカップに残っていたらしいコーヒーを流しに空け、ダストボックスにポンと入れた。

 相変わらず流れるように綺麗な身のこなしで、真っ直ぐにおれの方に向かって歩いて来る。その動きだけで、おれはもう彼女から目を離せなくなっていた。

 一緒に出口に向かいながら、もう一度、ちゃんと予定を立てて店を決められなかったことを詫びると、彼女は特に気にしている様子もない。

 男にとってはそれだけのコトなのだが、その辺り、『大事にしてくれてない』などと言い出されて困っている同僚の話を聞かされているだけに、思わず安堵の息が洩れる。

 ……そんなことに安心する時点で、おれは既に負けている。いや、勝ち負けの問題ではないのだろうが。

 結局、少し歩いたところにある、社の近くのイタリアンレストランに入った。最初に連れて行った店に比べると、だいぶカジュアルで砕けた感じの店だが評判は悪くない。

 例によって、今井さんは楽しそうにメニューを眺めてはいたものの、今回はアラカルト料理をパパパパと決めて行った。その様子に、普段の彼女の段取りの良さを垣間見る。やはり最初の時は、彼女なりに迷いやら緊張やらあったのだろう。

 肝心な話をどのタイミングで出すべきか計っていると、どこか、今井さんの様子がいつもと違う。何となく元気がないような……この間のことが尾を引いているのかとも考えたが、どうも違う気がする。

「今井さん。もしかして具合悪い?」

 おれが訊くとキョトンとした顔。演技ではないように思えるのだが、やはりいつもと違う気がしてならない。

 ……だからと言って、食欲がないワケではないようだ。

 いつも通りなかなかの食べっぷりなのだが、それとなく様子を窺っていると、やはり気のせいではない。時おり、睫毛を伏せがちに下を見ていたり、目立たないように、ではあるが、ため息のように深呼吸をしている。……どんだけ見てるんだ、おれ。

(話は次回に持ち越すか)

 おれとしては早めに片づけたい問題ナンバー1だったが、今夜は早く送って行った方がいい気がする。そのまま理由を言うと、恐らく否定されるだろうから……さて、どうするか。

 いつもより早い時間、おれは彼女に切り出した。

「今井さん。今日はもう帰ろう」

「あ、はい」

「……すまない。酒が入ったら直に眠くなって来そうだ」

 おれの取って付けたような理由を疑った様子もなく、穏やかに微笑みながら頷く。

「今週は出張でお休みなしでしたもんね。少しゆっくり休んでください」

「うん、ありがとう」

 店を出て、いつも通りタクシーを捉まえようとすると、おれの袖口を掴み、

「課長。今日はまだ早いですし電車で大丈夫です。課長も早くご自宅に戻られて休まれた方が……」

 彼女がそう言ったが、おれは知らん顔をしてタクシーをとめた。彼女に乗るように促しながらひと言。

「……いや、送って行く。おれは心臓があまり強くないからな」

 おれの言葉に、一瞬、表情を固めた彼女が、次いでプクッとむくれた。上目遣いで暗に抗議してくるが、いつものハッキリとキレのいい反論はできない様子が窺え、それが可愛くて吹き出しそうになるのを堪える。

 おとなしくタクシーに乗り込んだ彼女は、だが、まだ少し頬を膨らませていた。何のコトはない、おれが少しでも一緒にいたかっただけなんだが。

 笑いを堪えつつ、ご機嫌を取るように、

「……家に着くまで、もう少し、つき合ってくれ」

 そう言うと、少し瞳を大きくしながらこちらを振り返った彼女が、じっとおれの横顔を見つめてから視線を前方に戻し、

「……はい」

 呟くように小さい声で答えた。

 その様子が視界の片隅に映るだけで心が和む。抑えても抑えても、どんなに堪えても顔が緩む。

 もう、いい。おれの全てを持って行ってくれ。きみになら、全て持って行かれてかまわない。

 こんな気持ちは生まれて初めてだ。……と思う。

 彼女の家に着くまでの、ほんの短い時間でもいいから傍にいて欲しい。少しでも長くその気配を感じていたい。それを許してくれ、と。

 僅かに顔を捻り、そっと彼女の横顔を眺める。時おり、車のライトに照らされて浮かび上がる長い睫毛。今、おれが誰よりも何よりも見つめていたいもの。

 あまりに見つめ過ぎていたせいだろうか。彼女がふいにこちらを向き、油断していたおれは、逸らす間もなく彼女の視線をまともに受けてしまった。

 逸らすことも、笑って誤魔化すことも出来ず、おれは彼女の眼差しをモロに浴びて固まる。どうした。どうする。どうしよう。変な三段活用が頭の中を廻る。

 心ごと、根こそぎ持って行かれる。

 お互いに身動きひとつせず、おれの指先が微かに彼女の指先に触れた瞬間。

「そろそろですよ。どの辺りでとめますか?」

 救いとも邪魔ともとれる運転手の声。今のおれには救いと言えるだろうか。

「その横断歩道を越えたところで……少し待っててください」

 おれが答えると、今井さんも視線を前方に戻した。

 タクシーを降り、マンションの入り口前で向かい合う。

 触れたい。ダメだ。何か言ったら、少しでも触れてしまったら、とまれなくなるほどに膨れ上がった気持ち。

 おれは視線を合わせたまま、そっと彼女の指先を握った。指先だけを。彼女の瞳が僅かに見開かれる。だが、これ以上、触れてしまったら、もうおれはとまれない。

「……今日は中途半端ですまなかった。来週末、埋め合わせをしたい」

 彼女はおれの目を見つめながら、

「……はい」

 そう言って少し睫毛を伏せ、おれの指先を握り返した。

「おやすみ」

 自分自身に言い聞かせるように告げる。

「おやすみなさい。ゆっくり休んでくださいね」

「うん、ありがとう」

 おれは心の中で「きみこそ」と呟く。

 そうして━。

 心と指を、まるで無理やり引き剥がすように離す。

 彼女の部屋の灯りが点り、窓が開くのを確認してタクシーに戻った。

 やわらかい想いと、勢いに押し流されそうな気持ちと……相反する感情の鬩ぎ合い。その狭間に身を置き、目を瞑る。

 ━翌日。

 あらぬ勘違いをしたおれは、ひとり、大騒ぎすることになる。
 
 
 
 
 
~課長・片桐 廉〔10〕へ続く~
 
 
 
 
 
 
 

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