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かりやど外伝〜松の宮 護る刀自〔壱〕

 
 
 
「昇蔵さんは、一体、何をそんなに気にしているの?」
 問われた昇蔵は、答えられずにただ立ち尽くした。
 

 
 1922年──。
 
 松宮家当主の妻が女児を出産したその日。
 それは当主・瑛一郎(えいいちろう)にとって、生涯、唯一の日となった。
 
 妻・志乃(しの)の懐妊がわかってからの数ヶ月、瑛一郎は妻に箸も持たせぬ勢いであったが、それも無理からぬ事である。
 瑛一郎が当主として在る松宮家は、それなりに続く旧家であり、日本を裏から支えて来た家柄でもあった。いや、松宮あってこその、と言っても決して過言ではない。
 だが、長いその血脈は細く、途切れなかったのが不思議なくらい、後継ぎに恵まれにくい家系でもあった。多くて二人、ほとんどが一子。
 
「志乃、ようやった」
「……でも旦那様……女子(おなご)にございます……申し訳ありません……」
 項垂れる妻に、瑛一郎は首を振った。
「女子であろうと、我が血脈の継承者に違いはない」
 赤ん坊の顔を見下ろしながら、瑛一郎は満足気な表情を妻に向ける。
「ご苦労だった」
 短くも、心からの労いの言葉に、ようやく志乃の顔にも安堵の色が浮かんだ。
「この子は“冴子”(さえこ)と名付けよう」
 
 最大の悩みは解消されたとは言え、これで瑛一郎の悩みがなくなった訳ではなかった。
 当時、基本的に女子には財産権や家督権はない。とは言え、その点に関してだけは、松宮家は他家とは違い優遇されてはいた。大切なのは『家』ではなく、その『血筋』だったからである。
 しかし──と椅子に凭れ、瑛一郎は空を見据えた。
(大戦は四年前に終結したものの、昨年は首相が暗殺されている。恐らくこの国は、これからまた血生臭い道を辿って行く事になるだろう……)
 そんな時代の責を、女子である娘に負わせる事は、瑛一郎にとっては些か気の重い話であった。しかも、最悪の状況になれば、政府からの横槍で、どんな男であれ婿に迎えなければならなくなるかも知れない。そんな事態だけは避けたかった。
(……先手を打つか……)
 そのためには急がなければならない。
 ひとつの決断を下し、志乃に話すべく重い腰を上げた。
  
 翌朝、書斎に入った瑛一郎は、家宰である深山(みやま)を硬い表情で呼んだ。
「旦那様、お呼びでございますか」
「……分家筋の……田宮のところにも子が産まれるそうだな」
「はい、お二人目のお子様が。……そろそろ、お産まれになってもおかしくなかったと存じますが……」
 少し間を置き、瑛一郎は己を促すように深山の顔を見た。
「……すまぬが、田宮に会いたいと使いを出してくれ。出来れば奥方も共に……都合の良い時に私の方が出向くと……」
「……畏まりました」
 自分から出向く、の言葉に、ほんの僅かに感情の色を見せた深山は、だが、すぐに主の用事を果たすべく部屋を出た。
 その姿を見届け、瑛一郎は溜め息をひとつ。もっと平凡な人生を保証してやりたかったのに、などと考えながら。
 

 
 田宮夫妻が松宮邸を訪れたのは、翌日の事であった。
「本家の宗主様にお出で戴くなど、とんでもない事でございます!」
 夫婦揃って叫ぶように言うと、即日、日程を決めたと言う。
 緊張した面持ちの田宮と、畏まった妻の里津(りつ)は、大きくなったお腹に手を添えながら、瑛一郎の顔を窺うように腰を下ろした。
「突然、申し訳ない事をした。……里津殿も身体が大変な時にすまない」
 頭を下げる瑛一郎に、ふたりは恐縮のあまり、ただオロオロしている。
「え、瑛一郎さま……!そのような……お手を……お手をお上げくださいませ!」
 顔を上げた瑛一郎は、言葉を探しているのか、視線を空に彷徨わせた。やがて、その唇がゆっくりと動く。
「……実は、つい一昨日、志乃が無事に子を産んでくれたのだ」
 思いもかけない言葉に、動きを止めた田宮と里津の目が丸くなった。何を言われたのか理解出来ていないようで、目を見開いたまま反応はない。
「……そ、それはおめでとうございます!」
 ようやく脳に伝達されたらしく、田宮がやっと言葉を発した。里津も追随して頷く。しかし、田宮の表情は疑問を湛えている。
「……あの……一昨日と仰いましたが……」
 田宮が知る限りでは、未だ『松宮家の跡取りが産まれた』と言う噂は出ていなかった。本来なら、即日ニュースになってもおかしくない出来事である。
「まだ公表してはおらんのだ」
 田宮の疑問を読んだのか、瑛一郎は坦々と答えた。自分たちが真っ先に聞かされたと言う事実に、田宮は驚愕を隠せず、妻と顔を見合わせる。
「……そなたたちに来てもらったのは、実はその事と関係があるのだ……」
 その口ぶりに、田宮は何か重苦しいものを感じた。思わず居住まいを正す。
「……仮に……だ……」
 言いかけた言葉を一度切り、瑛一郎の視線は下方の一点を見据えた。その様子に、田宮は普段の瑛一郎には見た事がない迷い、を感じる。──が、
「もしも、そなたたちの子が男児であったなら……」
「……は……?」
 固唾を飲んで待つふたりに、思いもかけない言葉が投げかけられた。そして、一瞬の間を置き、
「その子を私にくれぬか?」
「……えっ……!?」
 田宮の目を捉え、瑛一郎は決定的なひと言を放った。
「……それは……」
 どう言う意味で言われているのか、田宮には判断がつかなかった。里津も同じらしく、互いに顔を見合わせる。自分の方からは考える事すら恐れ多く、だが、口には出せないまでも、脳裏を駆け抜けて行く数々の可能性に困惑していた。
「……松宮の次期当主として育てたい」
 やはり、と田宮は思った。しかし、まだ彼は瑛一郎の真意を理解している訳ではなかった。
「……それは……あの……恐れながら、お嬢様のお相手としてお引き立てくださる、と言う事でしょうか……?」
 恐る恐る訊ねる田宮に、瑛一郎は首を左右に振る。そして、すぐにそれすらも否定するように、もう一度首を振った。
「……いや、結果的にはそういう事になるかな。だが、もっと根本的な話なのだ」
「……根本的……」
 田宮がうわ言のように呟く。
「そうだ。私はそなたらの子が男児であったなら、その子を実子として育てたいのだ」
「……えっ……!?」
 再び、二人は驚愕した。瑛一郎の顔を凝視する。
「……代わりに、娘をそなたらの子として育てて欲しい……そなたらの息子の許嫁、として……」
 田宮と里津は、あまりの事に声も出せぬほどであった。ただただ、信じられぬ物でも見るように当主の顔を見つめる。
「無理は承知の事だ。だが、何とか頼めぬか?」
 言葉を失ったまま微動だにしない二人に、瑛一郎は背筋を伸ばして付け加えた。
「……あの……お訊きしても宜しいでしょうか……?」
 恐る恐る、田宮が切り出す。
「……うん?」
「……手前どもから、このような事を申し上げるのは畏れ多い事なのですが……今の瑛一郎さまのお言葉を戴いて、非常に不思議でなりません」
 瑛一郎は黙って先を促した。
「もし仰る通り、この子が男児であったとして、お嬢様との御縁を賜わる事が出来るのであれば、それはこの上ない栄誉です。……しかしながら……」
 言い淀みながらも、田宮は真っ直ぐに瑛一郎の目を見つめる。
「わざわざ入れ替える理由がわかりません。……大切なお世継ぎのお嬢様を、手前どものような他人に預けようとなさる理由が……」
 瑛一郎は黙って腕を組んだ。考え込むように。それを受け、田宮は続ける。
「……普通に……お嬢様のお相手として、と言う形ではならない……何か訳が……問題がおありなのですか?」
 もっともな疑問に、一度瞑目して考えた瑛一郎が再び瞼を上げた。それは決意を秘めた目である、と田宮は理解した。
 田宮と言う男は、ずば抜けて切れ者ではないが、かと言って愚鈍でもなく、実直で穏やかな性格の男であった。それが故に、我が子を預けるに値する、と瑛一郎は考えていた。田宮夫妻に育てられれば、幸せに成長出来るであろう、と。娘と同時期に子が産まれる、と言う事実のみで選ばれた訳では決してなかった。
「……これは、私の予測でしかないが……」
「……はい……」
「これからこの国は、恐らく血生臭い道を辿る事になるだろう」
「……えっ!?……いえ、しかし、戦争は四年前に……」
「必ず、また起こる。更に大きな戦争が……遠からず、起こるだろう」
 二人は言葉を失った。
「……問題などある訳ではないのだ。……単に、女子である娘に、その時代を背負わせるのを躊躇う気持ちのみで、そなたらの子に肩代わりさせようと言う身勝手な親心よ……」
 よどみなく言い切る瑛一郎に、何か不自然さを感じたのか、田宮が首を傾げる。
「……本当にそれだけ……でございますか……?」
 窺うような田宮に、瑛一郎は表情を硬くした。
「……何が言いたい?」
「それだけの理由で、瑛一郎さまがこのような事をお考えになるとは、私には到底思えません。それだけ、と申し上げれば失礼ではありますが……松宮の当主には、本来なら男子も女子もございません。他にも何か訳がおありなのでは……」
 瑛一郎の口元が、自嘲するかのように小さく微笑んだ。
「……やはり、そなたを誤魔化す事は出来なんだか……」
「……瑛一郎さま、やはり何かお考えが……」
 腕を組んだ瑛一郎が溜め息をつく。
「……もし、何事もなければ、そなたたちの息子を我が娘の許嫁として問題ない。だが、先ほど申したように、この国は必ず修羅の道へと進む。その折に、もし許嫁の子が男子であったなら、無理やり破談にされ、軍部の得体の知れぬ男を迎えねばならなくなるやも知れん。……男子であれば、破談になったとて傷はつかぬからな。しかし、女子であれば、まして“松見家次期当主の許嫁”とあれば、無下に破談にする訳にも行くまい。誰もその後の責任を負えぬ……もちろん、確実ではない。だが、確率が高い方を取りたい」
「……そのような……」
「それに、万が一破談とされ、誰か他の女子を迎えねばならぬようなら、この松宮の家など存続させるに及ばぬ。もしも繋がる命であるなら、人知れず他のところで繋がれば良い。……何より……」
 驚きで声も出ない田宮に、瑛一郎は決定的なひと言を放った。
「私は松宮の家に、軍部の輩を入れたくはないのだ」
「……瑛一郎さま……」
 眉根を寄せ、厳しい顔になった瑛一郎を、田宮夫妻は息を詰めて見つめる。
「……瑛一郎さまがそこまで懸念されるのであれば、恐らくそれは現実となるのでございましょう。お話は良くわかりましたが……しかし……」
「……恐れながら、瑛一郎さま!」
 田宮の言葉を遮り、里津が身を乗り出した。
「……ん?」
「……里津!やめぬか!」
 慌てた田宮が叱責する。
「構わん、田宮。……里津殿。何か言いたい事があるのなら申されよ」
 当の瑛一郎の許可が下りた手前、田宮も引かざるを得なかった。
「……わたくしには難しい話ゆえ……ただ、瑛一郎さまがそこまで仰るからには、主人同様、真実となるお話と思うております!……しかしながら……!」
「……うん?」
 里津は泣きそうな顔で瑛一郎を見つめた。まるで懇願するかのように。
「……奥方様は……志乃さまは……このお話、ご承知なのでございますか……!?」
 思わず田宮も瑛一郎の顔を窺う。
「……いくら先のためとは言え……ようやく授かったお嬢様を……実のお子を……わたくし共のような他人の手に委ねるなど……恐れながら同じ女子(おなご)として……あんまりでございます……!」
 己の気持ちをさて置いて、志乃を慮って迸った言葉に、さすがに田宮も口を挟める雰囲気ではなかった。
「……志乃は委細承知しておる」
 数秒の沈黙の後、瑛一郎が重い口を開いた。田宮夫婦の動きが止まる。
「……既に話し……了承しての、この話なのだ……」
 その時、三人の耳を扉の音が掠めた。
「……旦那様の頼み、聞いてはくれませぬか、田宮殿……里津殿……」
「志乃さま!」
 近づいて来る志乃に、里津もお腹が大きい事も忘れて駆け寄る。瑛一郎も田宮も思わず腰を上げ、二人を凝視した。
「志乃さま……!まだ無理をなさっては……」
 膝に縋りついた志乃を支える。──と、志乃は里津に手を合わせ、顔を見上げた。
「……無理は承知の上です。わたくしにも難しい話ゆえ、わからぬ事ばかり……なれど、旦那様がこれほどに危惧していると言う事は、きっと何か恐ろしい事が起こるのでしょう……どうか聞き入れてくれませぬか……」
「……志乃さま……」
「……子は実の子として……いえ必ず、実の子以上に大切に育てますゆえ……」
「……志乃……」
 涙ながらに訴える志乃の姿に、瑛一郎もただ立ち尽くす。田宮夫妻は互いの顔を見、頷き合った。
「……瑛一郎さま……」
 田宮の声に、ゆっくりと顔を向ける。
「お申し出の件、お受け致します」
「……田宮……」
 志乃を支えながら、里津も夫の顔と瑛一郎の顔を交互に見遣った。
「……お嬢様は、必ずや大切にお育て申し上げます」
 言い切る田宮の目を見つめていた瑛一郎は、静かに最敬礼をした。
「……恩に着る……」
「え、瑛一郎さま!お手を……お手をお上げください!」
 慌てる田宮夫妻に対し、瑛一郎はしばらくの間、顔を上げる事なく謝意を表し続けた。
 
 十日の後、里津は無事に出産した。
 松宮家の次期当主となる男児を──。
 
 
 
 
 
〜つづく〜
 
 
 
 
 

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