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魔都に烟る外伝/終宴の始まり~part13~

 
 
 
 五百里(いおり)の到着から2日後。

 全ての手筈が整い、いよいよ明日は帰国の途につく、東洋の魔都最後となる夜のことである。

 仄暗い中でデスクに向かっていたクライヴは、何か気配を感じて顔を上げた。気配に感覚を澄ませ、一瞬、瞬きをとめる。

 ややして椅子から立ち上がり、誰もいない部屋の中心辺りを見つめた。クライヴの静かな呼吸以外には音もなく、机上の小さなランプだけが灯る室内。その中で黙って立つ彼の前に、やがてぼんやりとした白いものが現れた。次第にはっきりと、人の姿を形作って往く。

 クライヴと向き合ったそれは、淡く今にも消え入りそうな女の姿であった。じっと見つめるクライヴに、泣きそうな表情で、だが無理やり、微かに口角だけを上げる。

『……カーマイン様……』

 やはり消え入りそうな、控えめな声で呼びかけたのはマーガレットであった。夫に小さく礼を取り、変わらぬ洋紅色の瞳を見つめると、キュッと唇を噛む。

『……わたくしは愚かでございました……』

 開口一番にそう言い、マーガレットは俯いた。必死で堪えていることが、肩の震えから見て取れる。

『……父は……父は……本当の悪魔でした……人の心など持たない、ケダモノ以下の……』

 絞り出すように言うと、堪えた瞳から涙が零れ落ちた。

『……信じたくなかった…………どこかに、人としての……父として、祖父としての心を残してくれていると……信じたかった……』

 とめどなく溢れる涙を拭い、また新たに溢れさせる。

『……けれど、あの人には……わたくしも、孫も、ただの道具でしかなかった……』

 嗚咽を堪らえようと懸命に肩で喘ぎ、涙はそのままに顔を上げた。

『……貴方の仰る通りでした……』

 寂しげな、それでいて決意を秘めた目を向ける。いつものオドオドと自信なさげな様子は見えず、結婚してからの数ヶ月で、クライヴが初めて見る表情であった。風が吹けば折れ、簡単に手折られてしまいそうだった彼女の顔には、今、女として、母としての強い決意のようなものが浮かんでいる。

 クライヴは黙って聞いていた。その傍に、静かに近づいて来る。

『……カーマイン様……』

 クライヴの足元に屈んで手を取ると、その甲にそっと額(ぬか)づいた。

『……わたくしは自業自得でございます……あれほどに貴方様がわたくしを……わたくしたちのことを助けようとしてくださったにも関わらず、それを踏み躙ったわたくしは……』

 クライヴの手を包む両手が震えている。もちろん、実体ではない。それでも、クライヴの感覚は、その仄かな体温とやわらかな感触を認知していた。恐れと、願いを内包した声と共に。

『……お怒りはもっともでございます…………けれど、どうか……どうかお聞き届けください…………お助けくださいませ……あの方を……娘を……そして……あの子の魂を……』

 変わらず黙っているクライヴに、むしろ答える隙を与えぬほど、息もつがずにマーガレットの訴えは続いた。

『……どうか……お救いくださいませ……ガブリエルを……』

 マーガレットの姿と気配が、次第に希薄になって往く。

『……貴方の息子を……!』

 瞬間、クライヴはマーガレットが取っている方の手を強く握りしめた。だが、ほぼ同時にマーガレットの姿も掻き消えた。彼女が、クライヴの返事を受け取ったのかはわからぬままに。

 重く纏わり付く静寂が流れる中、クライヴはただ立ち尽くしていた。確かに妻がつい先程までいた場所を見つめ、妻が取っていた己の拳を握りしめて。

 代わる代わる、脳裏を過って征くものたち。どこかはわからぬ始まりと、見えない、見えていない、存在するのかすらわからぬ終わり。そして、底知れぬ後悔なのか、怒りなのか、それすらもわからぬ虚無感と遣る瀬なさ──。

 どれほどの時が流れたのか、己でもわからぬ程の後、ふと、気配を感じたクライヴが視線を動かした。

 己の意識に気を取られたクライヴが気づかなかっただけなのか、クライヴに気取られぬようにしていたのか──僅かに開いた扉の脇に、静かに立っていたのは倭(やまと)であった。

 倭ほどの能力者であれば、クライヴの部屋に何らかの気配を感じ、様子を見に来たのであろうことは想像に難くない。

「……倭……」

 視線が合うと、倭は静かに足を踏み入れて来た。

「……申し訳ありませぬ。……何やら、不思議な気配を感じました故……」

 小さく頭(かぶり)を振るクライヴと向かい合う。

「……先ほどの方が……ご内儀でいらっしゃいますか……」

 躊躇いがちな倭の問いに、クライヴはマーガレットが額づいていた方の手を見つめ、頷く。

「……そうだ……」

 互いに、何も語らずともわかっていた。既に今、この時の状況がどうであるのか、を。マーガレットが何故、ここにまで現れたのか、を。

「ーーーーー!」

 握りしめ、震わせた拳。クライヴは机にそれを叩きつけた。転がっていたペンやインク壺が跳び上がる程の音が響く。

「……望みは断たれた……」

 抑えに抑えた低い声が、断末魔の叫びのような言葉を絞り出した。これほどの怒りの感情を他人に見せたのは、いや、そもそも抱いたことすら初めてであった。

「……母体から切り離された以上……そして、マーガレットの存在までもがなくなってしまった今、子を救う手立てはない……! ……魂すらも、恐らくもう取り戻せぬだろう……!」

 食い縛った歯の間から、苦しげな声と共に絶望の溜め息が洩れる。

「……一切を消滅させるより他にない……それ以外に救う手立てが……」

 懸命に己を抑えるクライヴの横顔を見つめ、倭は考えを巡らすように視線を下げた。その表情は、どこか迷いを内包している。

「……ひとつだけ……ひとつだけ、可能性が残っています……」

 ひたすらに考えあぐね、やがて、迷いを捨て切れてはいない、と言う声音を発した。クライヴの瞬きと怒りを内包した震えがピタリと止まる。

「……何……?」

 まさしく、信じられぬ言葉を聞き、クライヴの視線はゆっくりと倭を向いた。

「……ただし、恐ろしく……気が遠くなる程に時が必要やも知れませぬ……」

 まるで、ひとり言のような言葉。その意味を掴みあぐね、珍しくクライヴは困惑していた。だが、倭の『可能性』と言う言葉の持つ意味、そして威力は想像以上に大きく響いた。

「……どう言うことだ?」

「……10年……いえ、20年がかりの計画になるやも知れませぬが……」

「……倭……どう言うことなのだ? ……この状況に於いて尚、何か手立てがあると言うのか……?」

 しびれを切らし、倭の目の前に立ったクライヴを、漆黒の黒曜石が見上げた。

「……御子が母体から離れているのであれば、もはや肉体ごと救うことは不可能であると存じます。……けれど、魂だけなら、あるいは……」

「救えると申すか……?」

「可能性はあります」

 クライヴが目を見開く。例え、どれほどの時がかかろうと、その方法が、可能性があるのなら、何としてもやり遂げるのが、今の己に残された事なのではないのか、と。

「……母体から離れた御子の肉体は、恐らく完全にオーソンの思念に乗っ取られ、同化してしまうでしょう。その前に引き離していれば、肉体ごと救えたやも知れませぬが……」

 下を向き、倭が残念そうに言う。当初は、そのつもりで計画を立てていたのだから。介入しているオーソンの思念を、倭が掴まえて二人を引き離し、その後にクライヴがオーソンを消し去る、と。

「オーソンと御子の力の強さによりますが、予想通りとするなら、同化したオーソンの思念を無理やり引き剥がせば、御子の肉体は傷つき、ほぼ崩壊してしまうでしょう。……であれば、本人を本人の肉体に宿る魂として浄化し、昇華させるのが精一杯かと存じますが、それでも良いのであれば……」

「……完全に同化したものを分離させる……そなたには、そこまで出来るのか……!?」

 一度、クライヴの顔を見上げ、再び視線を落とした倭が答えた。

「……出来ます」

 クライヴが息を飲んだ瞬間。

「……ただし……」

 倭の牽制の言葉が、クライヴの高まる気持ちを遮る。

「……二人を分離させて引き離したのと同じ瞬間に……いえ、引き離しながら、双方が戻らないようにしなければなりません。ひとつだったものは、分離させても元に戻ろうと引き合う力が強いからです……引き合う片方をなくさねば。しかしながら、逆に私には消し去る力がありませぬ。……皆無ではありませんが、強くはない故、オーソンを消し去れる保証は持てませぬ……」

「……それは……」

 言われた意味が理解出来たクライヴは、同時に絶望的な気持ちにも陥った。いくらクライヴと倭の力が強く、どれほどに息が合ったとしても、0コンマのズレも許さずに、同じタイミングで力を放つなど不可能である。

「……そして、そのまま御子の魂を導いてくれる者に託せば……」

 それこそ無理難題であった。仮にも父である己にはその力はない。オーソンの血を引く母・マーガレットであれば、少なからず可能性はあったかもしれないが、既に彼女の魂は消えてしまった。つい、先ほどクライヴの目の前で。

「……先ほど、マーガレットの魂を救済出来てさえいれば……」

 少なくとも、マーガレットの魂だけは救えたかも知れぬのに──そのひと言を飲み込む。

「ご内儀の魂は、私が保有しております」

 無念を隠し切れないクライヴに、倭は意外なひと言を放った。一瞬、クライヴの方が何を言われたのか理解出来ずに固まる。

「……今、何と……?」

 倭は自分の胸元を見つめた。

「……先ほど、ご内儀の気配が消え去る直前に……」

「……まことか……!?」

 思わず倭の肩を掴む。遥か遠くに在る夫の元に辿り着いた彼女の魂は、力尽きて消滅してしまったと思っていたクライヴにとって、思いもかけない言葉であった。

「……はい。……危うく間に合わぬところであったのですが……不思議なことに、どなたかが助けてくださいました。ほんの刹那……私も間に合わぬと思うた時、僅かに間を保(も)たせてくださった方がいらしたのです……“いけない”と言うお声と共に……そのお陰で何とか間に合うたのです」

「……一体、誰が……」

 クライヴにも倭にも心当たりがなく、どこかに在る力を持った誰かが何かを感じ、手を貸してくれた、と思うより他にない。

「……では、少なくとも妻の魂は……昇らせてやれるのだな……」

 倭は小さく頷き、やや下を向いたまま言った。

「……分離と保護、そして、還元と消滅、浄化……その力を全て持ち合わせる者さえいれば、御子の魂をも救い、ご内儀の魂に導いてもらうことが可能です……」

 クライヴの脳内で倭の言葉が交錯する。

(……分離と保護……還元と消滅、浄化……それら全てを一人で同時に使える者……)

 その意味を頭の中で考え、そして理解した時、クライヴの瞬きは止まり、瞳が拡大した。倭の言わんとする意味を、言わんとしていることに対する信憑性を、思考と理性とが鬩ぎ合いながら確証を得ようとする。

 まさか、と言う思いと、それしかない、と言う思い──。

(……まさか、そのような……いくら何でも、提案する訳がない……)

 だが、それ以外の意味を成している、とも到底考えられなかった。

(……一体、どのようなつもりで申しておるのだ……!?)

 考えても答えは出ない。いや、むしろ、既に出ているとも言えた。それを、目の前の少女に確認すれば良いだけなのだ、と。

 だが、さすがにクライヴとて躊躇われるものであった。伝説として伝え聞き、知らぬ間に神聖視していた存在に対して、許されぬものであると無意識に制御が働いていたからこそ、思いつきもしない、正確には考えることすらならぬものだ、と。

 それは即ち、クライヴと倭、双方の力を、二人の血を持つ者がいれば、と言うことであった。

 時間の経過がわからぬ程の空気の中、クライヴはただ、目の前の倭を見下ろしていた。何かを言わねばならない、と。

「……そなた……自分が何を申しているか、わかっておるのか……?」

 ようやく問うたクライヴの、驚きを隠し切れない目を見つめると、倭はまるで頷くように下を向いた。

「……わかっております……」

 その答えに、呼吸どころか、鼓動も血流も、瞬きの音さえ聞こえてしまいそうな静寂の中に連れて行かれる。この時、二人は互いの過去と環境、そして同じような運命(さだめ)を背負う境遇であると言うことを、改めて共有していた。

「……本気で申しておるのか……?」

 声が震えそうになる己に戸惑う。

「はい」

 静かながら、その返事に躊躇いは感じられなかった。

「……一体、何故、そこまで……」

 困惑から抜け出せないのはクライヴの方であり、むしろ手放しに喜べる話でもない。

「……先ほどのご内儀の、あの心からの叫びを聞いてしまっては……可能性を持つ身として見ぬふりは……素通りは出来ませぬ……」

「…………!」

「……何よりオーソンとやら……その男、お聞きしていた以上に危険な思考を持っている様子……そのような者を放置しておいては、貴方のお国だけではなく、ひいては世のためにならざる、と……」

 ふっと自然に視線を上げ、クライヴを真っ直ぐに見つめた。その瞳が、全てを絡め取って逃さないかのように迫って来る。

「……私は、そのためにこそ、この世に生を受けた身でございます故……」

 やはり静かな声音に、だが、確信に満ちた意志を以ての答えであることはクライヴにもわかった。そして、己の中にあるものこそ、拭い切れない迷いであることも。

 クライヴは窓際に立ち、外を見つめた。

 高い位置に、見事な月が姿を見せている。まるで、こちらのことなど、全て見透かすような佇まいに、己の存在の小ささを認識せざるを得なかった。運命自ら目の前にやって来、抗うなど詮なきこと、と。

 と同時に、背中に倭の視線と気配を感じながら、ここに至るまでの全てを反芻していた。幼い頃から父に聞かされ続けたこと、マーガレットとの結婚の話を持ち掛けられた時のこと、その後の己の言動──それらが、走馬灯のように脳裏を駆け巡って征く。

 クライヴはゆっくりと振り返った。その目からは、先ほどまでの色は消えている。

「……巫女殿……」

 倭の目の前に跪くと、胸に手をあてがい頭を垂れた。

「……どうか、その御身と至高の力をお貸しください…………いえ……わたくしに賜わりとう存じます」

 その言葉を受け、倭は己の手を差し出し、答えた。やはり、淀みなく。

「差し上げましょう。この身も力も、私の持ち得る限りの全てを……」

 その覚悟に感じ入り、その決断に無限の感謝を捧げながら、クライヴは白くしなやかな手を両の手に受けた。そっと甲に口づける。

「……ならば、お約束致します。私は今後、どのようなことがあろうと、貴女以外の女性(にょしょう)と交わることはありませぬ」

 己の立場の全てを脱ぎ捨て、唯一無二の誓いを立てた。

「……その誓い、確かに受け取り申した」

 そう答え、自分の手を捧げ持つ男の手を握り返す。

 厳密に言えば、倭はこのような誓いを必要とはしていなかった。そもそも、クライヴに対して、特に見返りなど求めてはいない。この世の憂いを一つでも減らすことは、己の役目であり、責務だと考えているのだから。

 だが、受け入れた方がいい、と判断した。その方が、むしろ彼自身の気持ちが少しは軽くなるのだ、と。

「……ただし、先ほど申し上げたように、長い時を必要とします」

 わかっている、と言うようにクライヴは頷いた。

「……何年かかろうとも……どれほどの時をかけようとも……」

 脳裏をライナスとルキア・ローズの顔が過って征く。必ず救う、と言う誓いを守れなかった以上、何としても二人の身と、マーガレットの魂だけは守らねばならない、と言う決意と共に。

 返事のように睫毛を翳らせた倭も、強さのこもる目で再びクライヴを見上げた。唇にも、やはり強い決意の色が見える。

「……なれば、その魂、必ずや救ってみせましょうぞ」

 新たな誓いを立てたクライヴに、その心の内を全て見通したかのような倭の言葉。互いに誓いを立て、互いに受け取る。

 確認し合うように視線を交えれば、月灯りの中で浮かび上がる白い肌。

 そっと倭の頬に触れた。かつて触れたことがないほどに美しく、まるで肌理(きめ)など存在しないかのように滑らかな肌は、手が吸い付くかのようにしっとりとしている。

 その手触りは、これまで心動かされるものなどなかったはずのクライヴを、静かに慄かせていた。女を前に、初めて心臓が早まり、身体中の血が駆け出すのを感じる。

『これ程までに美しい生き物を見たことがない』

 初めて逢った時のその認識が、改めてふつふつと湧き上がった。

「…………」

 そっと顎を掬い上げる。

 吸い込まれそうな黒い瞳がクライヴだけを映していた。映り込む己の姿を良く見ようとするかのように、静かに顔を近づける。

「……倭……」

 月灯りで壁に映る影が重なる直前、クライヴは己の姿を見失った。映した黒曜石の翳りによって。そのまま倭の帯を解くと、夜着が肩から滑る衣擦れの音が響き、襟ぐりから現れた白い首筋と肩が目を射る。

「…………!」

 吐息を洩らす倭の白い肌に唇を滑らせながら、クライヴは再び慄いていた。

 己の心を全て奪われそうな恐れと。

 己の心を全て捧げてしまいそうな恐れに。

 縺れ合うようにベッドに倒れ込み、二人のその後を知るは浮かぶ月のみ。

 長い長い、終わりのための宴──その始まりの夜であった。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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