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かりやど外伝〜松の宮 護る刀自〔弐〕

 
 
 
 田宮夫妻の間に産まれた男児は、戸籍上の父となる瑛一郎(えいいちろう)によって、昇蔵(しょうぞう)と名づけられた。
 そして、松宮家の次期当主として、松宮夫妻の手により育てられるのである。
 
 瑛一郎も志乃も、約束通り能う限りの愛情を注ぎ、昇蔵を大切に育てた。
 

 
 歳月は流れ、1938年──。
 
 日中間では、前年より戦争が勃発しており、瑛一郎が予想した通り、暗い時代の足音がヒタヒタと迫っていた。それは、偽りの勝利に湧く者たちには聞こえない、忍び足のようなものでもあった。
 
 その頃、16歳になった昇蔵は高等学生となっていた。
 大学予科への進学も検討したものの、瑛一郎と相談の上での選択である。
 真面目で優しく育った昇蔵は、学力も優れており、またスラリとした凛々しい容姿から、道行けば人目を引く青年でもあった。
 そして、高等学校入学を機に、昇蔵を大人と見做した瑛一郎は、出生の秘密も包み隠さず打ち明けた。
 驚きはしたものの、瑛一郎夫妻の愛情は疑いようもなく、また自分と同じ境遇の冴子の存在もあり、大きな混乱を引き起こす問題とは成り得なかった。何より、女子である冴子に負わせるくらいなら、男である自分が背負うべきである、と考えた所以もあった。
 
 一方、田宮家に入った冴子は、夫妻と夫妻の実の息子である戸籍上の兄に大切にされて育った。
 また、昇蔵の高等学校入学と、時を同じくして高等女学院に通うようになると、学力もさる事ながら、昇蔵以上に人目を引く存在となっていた。
 やや中性的ながら華やかな美しい顔立ち、何よりも人を引きつけずにおかない雰囲気。それは紛れもなく、松宮家直系に色濃く現れる特徴であったが、さすがにそこまで疑いを巡らす者はいなかった。
 少々、奔放なところがあり、そこが田宮夫妻の悩みの種ではあるものの、逆にそれが魅力を倍増させてもいる。冴子自身も己の立場を辨えてはいた。
 
 産まれた時から、婚約者として互いに行き来し合い、また幼なじみでもある事から、二人の関係は周知の事実。憧れて遠巻きに眺める者はいても、直接、声をかけて来る者は周囲にはほとんどいなかった。
 とは言え、女子の場合は易々と声をかけて来る、などと言う事がなくとも、男子は別である。
 近隣以外の者であれば、二人の素性や関係など知る由もない。時には、道行く冴子に声をかける男子学生がいない訳ではなかった。そう言った現場を、昇蔵が目撃する事もあったが、ヤキモキする以前に、冴子の見事なあしらい方に唖然とする事の方が多いくらいである。
 良く言えば利発、悪く言えば鼻持ちならぬ、と言ったところか。
 物怖じしない冴子は、『奥ゆかしい』と言った風情も希薄であったため、しつこく追いかけ回すような男はおらず、安心は出来るが微妙、と言うところでもあった。
 
「こんにちは!昇蔵さんはいらっしゃいますか?」
 休みの日などに、冴子が松宮家を……と言うよりは、昇蔵を訪ねて来る事は珍しくない。
「これは冴子さま。昇蔵さまでしたら、先ほど小用でお出かけになられましたが、すぐお戻りになりますよ。どうぞ、居間でお待ちくださいませ」
 女中頭のキヨが嬉しそうに案内する。
 家宰の深山(みやま)とキヨは、冴子こそが松宮家の実子である、と知っており、それ故にひと方ならぬ思いがあった。
 もちろん、真面目で優しい昇蔵に対して、不満などがあるはずもない。キヨは努めていつも通りにお茶を出した。
「キヨさん。昇蔵さん、最近はお忙しそうかしら?」
 長椅子に腰掛けながら、冴子がキヨに訊ねる。
「高等学校のご講義の準備が、何やら大変そうではございますね……キヨには難しい事はわかりかねますが……とは言え、昇蔵さまは優秀でございますし、それ故に期待も大きゅうて、大変な事もおありやも知れませぬ」
「……そう。なら、いいんだけど…………ん、美味しい!」
 少し首を傾げて言う冴子を、キヨは不思議に思った。
 しかし冴子の方は、すぐに目の前のお茶とお菓子に心を移してしまったようで、舶来の高価な紅茶に口をつけ、嬉しそうな笑顔を浮かべる。それから、既に質問の事などなかったかのように、お菓子にも手を伸ばした。
「小父様と小母様もお元気かしら?最近、お会いしてないけれど……」
「もちろんでございます。先日からお二人ともお出かけでございますが、お元気でいらっしゃいますとも」
 もちろん冴子も、瑛一郎と志乃が実の両親である事は知っている。
 
 瑛一郎は、ふたりが16歳になった時に、田宮家の実子・信太郎(しんたろう)を除く両家を集め、その話を公表した。その折に、幼少時より『気づいていた』と、冴子は言ったのである。
 そのためなのか、実にあっさりしたものであり、昇蔵を拍子抜けさせた。と同時に、口には出せないものの、複雑な気持ちをも抱いた。
(……本来なら、自分が松宮家を継ぐはずだったのに、とは思わないのだろうか?そればかりか、そのためにぼくの許嫁である事を産まれた時から決められていて……それで構わないのだろうか?)
『では自分は?』
 ──と考えてみる。松宮家を継ぐ事、そしていずれは冴子と結婚する事を、本当に納得しているのか。良しと考えているのか。
 もちろん、良しと考えていないからと言って、どうこう出来る、と考えている訳ではない。昇蔵とて、充分に己の立場は理解しており、自分では変えられないことくらい。
 ただ、知りたかった。
 冴子が、自分との結婚を、自分の事をどう思っているのか、を。
 心から望むとまでは言わずとも、好意あるものとして見ているのか、心底嫌だと思いながら、意向に逆らう事が出来ずに従うのか──そこには大きな隔たりがある。
 そもそも、昇蔵がこんな事を考えるようになったのは、何も自分が松宮家の実子ではない、と知ったからではない。いつの頃からか、既にその重石は昇蔵の中にあって、時折、心を疼かせていた。
 
 そんな昇蔵の胸の内など知らぬ冴子は、気分次第で松宮邸を訪ね、そして今は美味しいお茶とお菓子に相好を崩している。
 帰宅した昇蔵は、冴子のその姿を見て安堵と拍子抜けがないまぜの複雑な気分に陥った。
「昇蔵さん、おかえりなさい!お邪魔してます」
「……ああ、いらっしゃい……」
「先にお茶を戴いてしまったわ。ごめんなさい」
「いや……ぼくは着替えて来ます」
 素っ気なく出て行く昇蔵に、キヨは双方の顔を見ながらオロオロしている。冴子の方は変わらず、我関せずであったが。
 一方、部屋に戻った昇蔵は、思わず溜め息をついた。だが溜め息など、今、ある現実に掻き消される。
「……考えても仕方ないか……」
 諦めて着替えを終え、冴子の待つ居間へ戻った。冴子がいつも、特に用もなくやって来る事は知っている。
「……その後、大丈夫ですか?」
 昇蔵からの突然の問いに、冴子はカップから顔を上げた。その目が「何のこと?」と言っている。
「……先日の男です……」
「……ああ!」
 納得したように笑った冴子が、昇蔵に向かって頷いた。
「昇蔵さんのお陰で、その後は何もないです」
 つい数日前、学校からの帰宅途中、昇蔵は若い男に言い寄られている冴子と遭遇していた。もちろん助けに入り、金輪際近づかないよう言い含めたが、しつこい輩がいないとも限らない。
「どちらにしても、わたくしは可愛げがない女のようですし、しつこくして来る方などいませんけれど」
 特に自虐的でもなく、まるで『このお菓子、美味しい』とでも言うような、同じ調子で付け加えた。が、昇蔵はその言葉に反応してしまう。
「……それは違いますよ」
 お菓子を口に入れようとしていた冴子の手が止まる。そのままの状態で、目だけが昇蔵を見上げた。
「……畏れ多くて……自分では手が届かない存在だと……気づいてしまうからです。……遠巻きに見ているのも同じ理由ですよ」
 人差し指でお菓子を口に押し込んだ冴子は、モグモグと食べながら上目遣いで昇蔵を窺っている。
「……昇蔵さんは……?」
 お茶に口を付けた昇蔵に、唐突にお菓子を飲み込んだ冴子の方が訊ねた。
「……え……?」
 今度は昇蔵が、カップから顔を上げて冴子を凝視する。その目を見つめ返し、冴子は続けた。
「……昇蔵さんもそうなの……?」
 カップを持ったまま答えに窮する。
「……ぼくは……」
「もし昇蔵さんの言う通りだとしても、昇蔵さんはそんな風に思う理由はないでしょう?だって……」
『松宮家の次期当主で、親が決めたことであっても、私は許嫁なのだから』
 その言葉を冴子は飲み込んだ。それは昇蔵に対しては、反効果的だと冴子にもわかっていたからだ。
「……最近、お会いするといつも暗い顔をしているんだもの。わたくしが来るのは迷惑ですか?……それとも、わたくしの事がお気に召さないから?」
 その間も、冴子は一度も目を逸らさなかった。囚われたように止まっていた昇蔵は、カップを下ろす手に合わせ、ゆっくりと目線を下げる。
「……迷惑だなどと思っていません。ただ、最近は学校の事で忙しいのも事実です」
 昇蔵の答えに、冴子は僅かに眉根を寄せた。それは望んだ答えを、全て含んでいる訳ではなかったから。だが、冴子の心情を読んだのか、それとも知らずになのか、昇蔵は小さく口を動かした。
「……あなたを気に入らない男などいません」
 自分を見つめる冴子の視線を感じながらも、ボソリと呟いたきり昇蔵は口を閉した。冴子の方も諦めたのか、お茶を飲み干して立ち上がると、
「……お邪魔しました。……帰ります」
 ポツリと呟いた。昇蔵が冴子の顔を見上げる。
「……送ります」
 
 並んで歩きながら、二人は下を向いたままひと言も言葉を交わそうとしなかった。近隣の者たちは、並んで歩く二人に気を止める事もない。
「……冴子さんは……」
 田宮家が近づいた頃、ようやく昇蔵が口を開いた。冴子が昇蔵の横顔を見上げる。
「……いや、何でもありません」
 はっきりしない昇蔵に、冴子が口を開きかけた時──。
「冴子!」
 玄関のところで若い男が手を振っている。
「お兄様!」
 田宮家の長男で、冴子にとっては戸籍上の兄である信太郎であった。
「……これは、昇蔵さま……」
 冴子と共にいる昇蔵に気づき、嬉しそうに挨拶をする。
「お兄様、ただいま戻りました。昇蔵さんに送って戴いたの」
「それは……妹がご足労をおかけしました」
「……いえ……」
 本来なら、信太郎は昇蔵にとって実の兄である。だが、信太郎はその事を知らされていない。冴子を実の妹と信じ、昇蔵は本家の跡取りであり、妹の婚約者である、と言う認識なのだ。昇蔵にとっては、心中複雑でないはずがない。
「……では、ぼくはこれで失礼します」
「玄関先で失礼致しました、昇蔵さま。ありがとうございました」
 信太郎の丁寧な挨拶を受け、昇蔵は複雑な気持ちを抱いたまま帰宅した。
 
 肝心な事は何ひとつ、互いに確認出来ないまま。
 

 
 その後、一見して何事もない日常の内に年を越えた。
 しかし、松宮瑛一郎の顔は日に日に浮かないものへと変化し、大きな心配がある事が見て取れた。
 
「……お父さん……何かあったのですか?」
 昇蔵はある日、書斎にこもっていた父・瑛一郎に訊ねた。
「……うん……?」
 目を上げた瑛一郎は、昇蔵の表情の中に、今までとは違う色を見、思わずその目を細めた。強いて言うなら、それは『大人になった色』とでも言うのか、瑛一郎の中に仄かな誇らしさが灯る。
「……何故、そう思う?」
「……このところ、ずっと浮かぬご様子です」
 少し下方に目を向け、ふっと息を吐き出した瑛一郎は、何かを探しているようであった。
「……昇蔵……近いうちに日中以外での戦争が始まるやも知れん……いや、間違いなく始まる……」
「……えっ……!?」
 思い定めたように切り出した父の、苦し気な顔を凝視する。
「……それは……」
 さすがに昇蔵も驚きを隠せなかった。
「……差し当たって、日本が欧米に宣戦布告するような事はないだろう。……が、遠からず足を踏み入れる……必ず、だ……」
「……お父さん……」
 瑛一郎は驚く昇蔵の目を見つめる。
「……もしかしたら、だが……お前たちの婚儀、早めねばならぬように……なるやも知れん……」
 昇蔵が息を飲んだ。
「……心積もりをしておけ……」
 そう言って昇蔵の肩を叩き、瑛一郎は書斎から出て行った。
 
 後に、立ち尽くす昇蔵を残したまま。
 

 
 瑛一郎が言った通り、その年のうちに欧州で第二次世界大戦が勃発。
 二年後には日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争(大東亜戦争)に発展する事態となった。
 
 状況を重く見た瑛一郎は、未だ学生の身であった昇蔵と冴子の婚儀を早める事を決断する。
 開戦からひと月余り、年を越えた正月明けには執り行われる事となった。
 
 昇蔵と冴子は、共に数えで20歳の初春の事である。
 
 
 
 
 
〜つづく〜
 
 
 
 
 

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