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薔薇の下で ~ Under the Rose 奇譚 ⑨ ~

 
 
 
【~Under the Rose~】 秘密で・内緒で・こっそり

 

***
 
 

薄ぼんやりした意識。ずっと夢を見ていた気がする。

昔の夢。まだ、私がこんなことに関わる前、彼女が傍にいた頃の。

何もない田舎町だったけど、静かで平和で、何より美しいところだった。

彼女と私、彼女と私の大切な人。

それだけで世界は輝いていて、それだけで私は幸せだった。

あの日が来るまでは。

重いまぶたをゆっくり持ち上げると、まだ室内は暗かった。

感覚的な判断であるけれど、大して時間は経っていないはず。なのに、隣に京介(きょうすけ)の姿はなく、つまり、いつもなら私を抱えているはずの腕もなかった。京介に攻め抜かれた私は、いつの間にか意識を手離していたらしい。

一瞬、夢だったのかと、ハッキリしない意識の中で思ったけど、違う……そうじゃない。

この感じ。

(……本気だった……)

それはつまり、本当の本当に、もう、どうなっても構わないと、腹をくくったと言うことなのだ。彼女のために、全てを道連れにして破滅しても構わない、と思っていたあの頃の彼のように。

事後の気だるい身体を起こす。床に無造作に打ち捨てられたシャツを羽織って立ち上がろうとし、脚に力が入らずベッド脇にへたり込んだ。身体中から力が抜けて行く感覚。その脱力感が物理的な問題だけでないことはわかっていた。

京介が何かに気づき、全てを知ろうとしているのを感じた時から、覚悟しておかなければならないことだったのに。

「……美雪(みゆき)……」

無意識に助けを求める。こうなることを予期しなかった訳じゃないのに、目を逸らして彼を巻き込んだことを心底後悔していた。

(……どうしたらいい……?)

どうしたって、もう京介は止まらないだろう。ならば──。

しばらくぼんやりした後、私は『 Under the Rose 』で初めて彼を見かけた時のことを思い出していた。迷いに迷った挙句、結局、彼を引き入れたあの時を。

どちらにせよ、決断しなければならない。

やっとのことで立ち上がり、ほんの少し開いていた扉の隙間から覗くと、リビングに灯りが点っていた。そして、ソファには見慣れたはずの後ろ姿が。

「………………!」

彼が座るソファの前には、私が目を通していた資料を入れたケースが置かれていた。彼が来た時に私がしまって置いた状態そのままに。けれど、その後ろ姿を見ただけでわかってしまった。

京介が、『彼女』の名前を見つけてしまったのだ、と言うことに。

私の脳裏を、さっきまで見ていた夢の残像が堰を切った激流のように流れて行く。いや、私自身も流されて行きそうだった。

……迷っていた。その奔流の中でどうして良いのかわからずに。

扉にもたれ、立ち尽くしていた私は、不意に振り返った京介の視線に文字通り射貫かれた。

「薔子(そうこ)」

いつもと変わらぬ色を纏った声。優しげなその声で呼ばれ、私は瞬きを忘れたまま硬直した。

「……京介……」

やっとのことで絞り出した声が、僅かに震えたのが自分でもわかってしまう。動揺を気づかせてはいけない、と頭ではわかってはいても、どうしようもなく震えてしまう。

私の様子など気にも止めず、京介がグラスを置いて立ち上がった。一挙手一投足にいちいち反応してしまう私に、彼は毒を含んだ美酒のような微笑を向け、ゆっくりと近づいて来る。

(……逃げなければ……!)

思わず後ずさろうとし、けれど私の脚は石になったように動かなかった。心だけが遠くに逃げようとして足掻いている。

「……どうした……?」

私の行く手を阻むように目の前に立ち、見下ろす毒と蜜を含んだ目。それは、狙いをつけた獲物を見るそれと同じ。彼が見ているのが、私に刻みつけた無数の痕跡だと気づいただけで、肌と身体の奥が火照り始める。

スローモーションのように近づいて来た彼の指が、羽で撫でるように頬に触れた。

逸らせない……心も視線も。猛毒とも媚薬ともつかない、麻薬のようなこの男から。

「……何が? ……あなたの方こそ、どうかしたの……?」

考えるより先に口をついて出た。

一見、優しそうに微笑みながら、その実、笑っているのは口元だけ。冷たい光を帯びた目が、容赦なく私を見据えている。

「……彼女のことだったんだな」

唐突に京介が口を開いた。

「…………?」

言われた意味がわからず、眉をしかめることでしか意思表示が出来ない。ほんの僅か、私の目を見つめ、彼はやがて口元から笑みを消した。

「初めて会った時にきみが言った『彼女』というのは、美雪のことだったんだな」

吸い込んだまま息が止まる。

「……渡辺美穂か宝田史恵のことだとばかり思い込んでいた」

二人の女の名で、京介が何を言いたいのかは理解出来た。その二人の名も経緯(いきさつ)も、もちろん私は知っていたから。でも確かに、初めて会った時に私が口にした『彼女』は美雪のことを指していた。

「全て知っている、と言ったのは……本当だったんだな」

何も答えない私に、京介は自分の方から結論を口にした。

「……ぼくに何をさせたい?」

頬に触れる指が、髪の毛の間をすべって行く。

「女を誘い込ませるため、だけじゃないんだろう?」

「違うわ……!」

否定の言葉など信じていない冷たい目。けれど、これは本当のことだ。私は元々、彼を引き入れる気などなかったのだから。たまたま、あの時、『 Under the Rose 』で出会ったりしなければ、他の男を使っていたはずなのだから。

「……本当の目的は何だ?」

「……それは……」

言い淀んだ瞬間、髪に通していた彼の手が私の頭を引き寄せ、触れそうなほど間近に彼の顔があった。

「……きみが言わないのなら、自分で調べるまでだ。それとも……」

全身が総毛立ち、背筋を冷たいものが通り抜ける。

「……言いたくなるようにしようか……?」

とっさに手を振り払おうとしたけれど、もう遅かった。壁際で拘束され、覆い被さるように口づけを受けると、既に身動きひとつ取れなくなっていた。

酸素を求めて必死で顔を逸らそうとするも、すぐにまたふさがれる。僅かな合間に喘ぐと、それすらも飲み込むように。

「……ふ……っ……きょ……きょう……」

声を出そうとしても容赦なかった。意識が朦朧として来た時、私の脳裏に浮かんだ名。

「……か……かず……き……」

掠れてほとんど声になっていない音を、無意識のうちに喘ぎと共に口に出していた。瞬間、京介の動きが止まり、唇の拘束が解かれた。

腕の力は緩めないまま、必死で呼吸する私を凝視する気配。

「……今、何て……」

驚きを秘めた低い声が私に問いかける。

「……薔子……!」

有無を言わさぬ声音に、上がった息を整えた私は京介を見上げた。

「……知ってるわ……」

彼は黙って続きを待っているようだった。

「渡辺美穂のことも、宝田史恵のことも、経緯も全部……」

間をおき、息を飲むと、喉の奥で引き攣るような音が内耳に響く。

「……そして、鏑木美雪と立野壱貴(たてのかずき)のことも……」

今度は京介が息を飲む番だった。見開かれた目が、瞬きを忘れて私を見つめている。

「ふたりのことも知ってる。古い……知り合いよ……」

京介の手が微かに震えた。真意を確かめるように、互いに互いの目を見つめて探り合う。

薔薇の花が見守る下(もと)で。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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