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かりやど外伝〜松の宮 護る刀自〔七〕

 
 
 
 働き始めて幾日も経たぬ内に、春(はる)はすっかり松宮家に馴染んでいた。
 明るい笑顔で、クルクルと動き回る働き者の春は、周囲からの評判も良い。料理も上手く、下手をすると専任の料理人よりも味が良いため、冴子(さえこ)だけでなく昇蔵(しょうぞう)も感心する程であった。
 

 
 冴子の予想通り、一年ほど経った頃、曄子(はなこ)に結婚の話が舞い込んだ。
 巨大企業・緒方(おがた)グループ社長からの申し入れで、息子の信吾(しんご)が曄子との結婚を望んでいる、と言うのである。
 
 当の曄子は、と言えば、子どもの頃、兄の一人暮らしの件で喚いて以来、特にこれと言って問題行動を起こす事もなく、現在は大学に通っている。それほど社交性がある訳ではなかったが、外では令嬢としてそれなりに振る舞っており、何かの集まりの折に信吾に見初められたらしい。
 父である昇蔵は、当初はこの話に乗り気ではなかった。親としての勘なのか、曄子については、何か漠然とした不安を抱えていたのだ。
 しかし、信吾からの再三に渡る熱心な申し入れに、曄子の心情を確かめるに至った。そして、曄子に話す前に、まず陽一郎に打ち明けた。
 
 陽一郎としては、曄子の反応に若干の懸念を示したものの、緒方信吾に対する印象自体は、決して悪いものではなかった。
「……緒方グループの御曹司と言うと……あの令嬢の弟、と言う事になるんですよね?」
「……そう言う事だな」
「しかし、令嬢の……斗希子(ときこ)さん、でしたか?彼女にしても『大企業の令嬢』と考えるから奇想天外な印象になるだけで、人として決しておかしい事をしている訳ではありません。それと比べてしまうと、弟君は地味な印象になってしまいますが、真面目で判断力はあり、慧眼でもある、と言う評価も聞こえて来ます。相手としては、もったいないくらいだと思いますが……如何せん、曄子がどう出るか、ですね……」
「……そうなのだ」
 昇蔵にも判断が付きかねている。
「ここまで来たら、曄子に決めさせるしかないのではありませんか?」
「……ふむ……」
 結局、消去法でその選択になった。
 本来なら、昇蔵としては少し強めに奨めておかしくない縁組。それが出来ないのは、偏に曄子に対する不安があるから、であった。
 
 だが、その話を切り出した折の、曄子の反応は呆気ないものだった。
「……わかりました」
 その場にいた、昇蔵、冴子、陽一郎と美紗の四人は拍子抜けしてしまう。
「……曄子。本当に良いのか?」
「はい。大学を卒業してからで良いのですよね?」
 昇蔵の問いにも、無感情な目を向けた。
「……それは、もちろん、そうだが……」
 冴子の胸には、却って不安が過る。漠然とした不安、が。
「……曄子……嫌なら無理にではないのですよ?」
 念を押すも、
「……別に問題ありません」
 問題はなくとも、心配になる答え。だが、本人が良いと言っているものを、周りとしてはどうしようもない。
「……わかった。先方にはそう伝えるからな」
 何となく重苦しい空気の中、昇蔵のひと言が話を終わらせた。
 
 曄子は卒業してしばらく後、予定通り緒方信吾に嫁いだ。
 
 それが、第二の事件の幕開けでもあった。
 

 
 陽一郎たちが結婚してから、そろそろ10年になろうとしていた。
 だが、未だ二人が子どもを授かる事はなく、こう言うものだ、と思ってはいても、やはり気にはなる。
 陽一郎が気にしているのは、このまま子を授からなければ、父・昇蔵がいつ最後の手段を用いるかわからない、と言う事であった。
 
 そんなトワイライトゾーンにいるようなある日、魔が差したように事は起きた。
 
 陽一郎が書斎で仕事をしていると、不意に扉を叩く音。手元から顔を上げる。
「……どうぞ?」
 椅子ごと身体を入り口に向けると、入って来たのは曄子であった。
「……何だ、曄子か。来ていたのか」
「……お兄様」
 曄子が静かに近づいて来る。
「……どうした?」
 妹の様子を訝しみ、腰を浮かしかけた陽一郎を、かつてない衝撃が襲った。
「………………!」
 持っていたバッグを投げ捨てるようにして、曄子がいきなり抱きついて来たのである。
「……曄子……!……何を……!」
 曄子の勢いに、陽一郎は革張りの椅子に諸共に倒れ込んだ。
「……お兄様……!」
 膝の上でしがみついて来る曄子を、肩を掴んで引き離そうとする。
「……何のつもりだ、曄子!やめるんだ!」
「お兄様が好きなんです!初めからわたくしはお兄様しか見ていません……わたくしにはお兄様しかいないんです……!」
 呆然とする陽一郎の背中に回された腕。曄子の指が求めるように這っている。
「……やめるんだ、曄子!ぼくたちは兄妹なんだ!」
「何故、兄妹だとダメなの!」
 曄子は女と侮れない程の力で、陽一郎の身体に縋りついた。
「好きなの、お兄様!お兄様だけなの!お兄様以外いらない!……だから、お願い……お兄様……!」
 目眩がしそうな衝撃。心を打ち砕きそうな程に強烈な。霧散しそうになる意識を必死で繋ぎとめる。
「やめるんだ!」
 陽一郎は無理やり曄子を引き剥がした。半ば、突き飛ばすように。
「……お兄様……」
 押し遣られて床に座り込んだ曄子が、息を乱した陽一郎を見上げる。唇を噛んだ陽一郎は、握った拳を震わせて背を向けた。
「……出て行ってくれ……!」
 絞り出した陽一郎の声に、曄子が目を見開く。
「……おにい……」
「出て行け!」
「………………!」
 立ち上がり、近づこうとした曄子の耳に、今まで一度も聞いた事がないほど激しい、兄の叱責の声が突き刺さった。
 一瞬、怯んだ曄子が唇を噛み、兄に向かって伸ばしかけていた腕が行き場を失う。転がっていたバッグを掴んだ曄子の、駆け去る足音だけが遠くに聞こえた。
 
 身動きひとつ出来ず、立ち尽くす陽一郎の耳に、床を擦るスリッパの微かな音。幽鬼のように振り返った目に、扉に手をかけた美紗の姿が飛び込んで来た。驚愕に目が見開かれる。
「……美紗……!」
「……陽一郎さん……」
 陽一郎も美紗も呆然と呟いた。
 美紗は、結婚前に冴子が言っていた事を瞬時に理解した。実感として。漠然としているようではあったが、冴子が感じていた不安はこれだったのであろう、と。
 自身もショックを受けているのは間違いない。だが、今は何よりも陽一郎の心が心配であった。
 現に、陽一郎は意識を保つのが精一杯で、ただひとつの事しか考えられない状態だった。
 曄子が産まれた時から漠然と感じていた、そして決して拭う事が出来なかった不穏なもの──それは『これ』だったのだ、と。
 もちろん、こんな形で現れるとは思っていなかったが。
「……美紗……これは……」
 寄りにも寄って、美紗に見られていた事で陽一郎は狼狽えた。イヤイヤをするように首を振る。
 ゆっくりと近づいた美紗は、目の前に陽一郎を見上げ、そっと頬に触れた。泣きそうな、怯えたような顔に。
 身体を折り曲げた陽一郎が、美紗の肩に顔を埋める。
「……違うんだ……」
 何が違うと言っているのか、陽一郎は自分でもわかっていなかった。美紗はそんな陽一郎の頭を抱きしめ、囁いた。
「……愛してるわ……」
 溶け込むように美紗に縋った陽一郎が、たったひと言、絞り出す。
「……きみだけだ……」
「……わかっています……」
 陽一郎が落ち着くまで、美紗はずっと抱きしめていた。心ごと。
 
 この数ヶ月後、第二の事件が起きた。
 だが、やはり陽一郎も松宮の人間であり、心が闇に引きずられそうになっていても、対策を怠ってはいなかった。
 

 
 その日、書斎で机に向かっていた陽一郎宛に入った一本の電話。
 電話の主は、松宮が運営する研究所の人間であった。
 
「……盗まれただと……?」
 内容を報告すると、ひどく狼狽える父。
「……はい。今度はぼくが直接出向いて、確認して来ます」
 再び、陽一郎の遺伝子──今度は陽一郎のものだけ──が盗まれたらしい、との報告であったが、当の本人は至って冷静だった。
 
 現場に出向いた陽一郎から、「今度も間違いだった」と、昇蔵が報告を受けたのは翌日の夜。
 その報告の内容自体は、決して嘘ではなかった。『陽一郎の遺伝子が盗まれたのではない』と言う事実に於いては。何故なら、実際に盗まれたのは、陽一郎が緒方信吾を言い含めて保存した義弟のもの、であったからだ。
 妹・曄子への消せない不安感。陽一郎は、あれほどに反対していた父・昇蔵と同じ手段を用いた。
 だが、この時に追及しなかった事が、義弟に言えなかった事が、何より母にさえ打ち明けられなかった事が、そのまま爪の甘さとなる事など知る由もなかった。
 
 それから半年余り経った頃、曄子の懐妊の知らせが松宮家に伝えられ、もちろん何も知らない昇蔵と冴子は純粋に喜んだ。
 更に半年が過ぎた頃には、無事に男児が産まれた。
 昇蔵の『昇』の字をもらい、『昇吾(しょうご)』と名付けたと聞き、昇蔵は陽一郎をたちの事を気にしながらも、大層喜んだ。
 昇吾は人懐こい子どもで、陽一郎にも美紗にも良く懐いた。自分たちや曄子の事はさておき、昇吾には何ら罪はない。二人とも心から可愛がりはしたが、自分たちに決断の時が迫っている事も感じてはいた。
 即ち、子どもを授かるための、最後の手段に踏み切るか、否か──。
 昇吾が産まれた時、陽一郎は36歳。40歳までには結論を出さなければならないだろう、と漠然と考えてはいた。
 
 だが、陽一郎もその事ばかりにかまけてはいられなかった。
 ちょうど曄子が出産を間近に控えていた頃、夏川の息子・崇人が、父の後を継ぐ道を選び、入所したばかりであった。
 学生時代から将来を有望視されていた崇人は、その期待通りに、若いながらも優秀な医師として認知されつつあった。大病院からも引く手あまたであったが、それらを全て蹴り、松宮家に入ったのには理由がある。
 
 崇人には学生結婚した妻がいた。
 彼女も元々、同じ医学部で将来を嘱望された女医の卵で、崇人とは互いに切磋琢磨し合うライバルであったが、そこにいつしか情愛の念も重なった。在学中に結婚し、卒業してからも共に医師としての高みを目指していた矢先、妻が難病に倒れたのである。
 単に難しい、と言うのではなく、そもそも有効とされる治療自体が、まだ国内では認可されていなかった。その治療を受けるには海外に行くしかなく、それには莫大な費用を必要とした。
 身を切られる思いで諦めかけた時、陽一郎が一切の費用を肩代わりすると申し出たのである。
 崇人たちは治療のためアメリカに飛んだが、結果として妻は助からなかった。失意の内に帰国した崇人は、父の後を継ぐ事を決め、迎えてくれた陽一郎にその事を告げた。
 もちろん、陽一郎は崇人を松宮に引き入れるために肩代わりなどした訳ではなかった。だが、崇人の方が、恩と言う事だけではなく、何かはわからぬ陽一郎の魅力に引き付けられたのである。
 
 松宮に入り、崇人が最初に手がけたのが、産まれたばかりの昇吾の健康管理であった。更にこの時、崇人は陽一郎にある人物を引き合わせてもいる。
 それが、後に松宮家の会計士となる佐久田征司(さくたせいじ)であった。
 かなり曲者で通っていた男であるが、やはり初対面で、陽一郎の不思議な引力に引き寄せられる事になる。
 
 そして、昇吾の誕生から2年。
 幸か不幸か、運命はどちらへともなく回り始めた。
 結婚して14年が経とうと言う頃、諦めかけていた二人を、その運命の歯車が噛み合わせた。
 
 美紗がついに懐妊したのである。
 

 
 爽やかな新緑が薫る5月、美紗は無事に女の子を出産した。
 当たり前ではあるが、陽一郎も昇蔵も冴子も、まるで天にも昇る喜びようであった。
「おお、いい顔をしておる。冴子の子どもの頃にそっくりだな」
「……え?わたくしですか?」
 そんな風に、和やかな両親を見るのも久しぶりの事で、陽一郎と美紗の頬も弛む。
「せっかくだから、この新緑に準えた名前にしたいな。例えば『みどり』とか『あおい』とか……でも色の緑じゃ芸がないか……?」
 小さな娘を抱きながら、陽一郎はひとり言のように言うと、しばし考えを巡らせた。
「……美しく羽ばたく鳥のように……美しい鳥で『美鳥(みどり)』……」
 夢見るように呟く。
「あら、素敵ね」
 真っ先に冴子が反応すると、美紗も頷いた。
「綺麗な名前だわ」
「……そうかな……?……美鳥……どうだ、この名前は……?」
 まだ目も開かない娘に向かい、真面目に語りかける。すると偶然なのか、微かに頬が動いて笑ったような顔になった。
「……笑ったぞ……この名前が気に入ったのか……?」
「陽一郎さんたら。それは天使のくすぐりよ」
 美紗の方が可笑しそうに笑った。
 
 誰もが望み、待ちわびていた娘・美鳥の誕生を、ただひとり叔母の曄子だけは忌々しい思いで見つめていた。
 だが、皮肉な事に、自身が産んで溺愛していた息子・昇吾は、誰よりも従妹である美鳥を大切に思い、そして美鳥からも思われる立場になるのである。
 

 
 後日、初めて目を開いた美鳥に、周囲は驚愕した。深く濃い緑色の瞳──森の色であった。
 ほんの時たま、松宮家直系に出る瞳の色、と知ってはいても、冴子でさえ未だ見た事がなかった。それほどに珍しいものだった。
「……こうと知っていたら、名前は緑色の緑、でも良かったかも知れないな」
 冗談めかして言う陽一郎に、皆が笑顔になる。
 
 その瞳の色が失われる事になるなど、まだ誰も知るはずもなく。
 
 
 
 
 
〜つづく〜
 
 
 
 
 

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