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魔都に烟る外伝/終宴の始まり~part3~

 
 
 
 マーガレットが目覚めた時、既に部屋の主の姿はなかった。残っていたのは、主がそこにいたと言う確かな痕跡──とっくに冷たくなっている窪みだけである。

「……いけない、寝過ごしてしまったわ……! 初日から何てこと……妻が夫より寝過ごすなんて……」

 慌ててベッドを抜け出て部屋に戻り、身支度を整えながら感じるのは特有の倦怠感。纏わりつく余韻を振り払い、衣装部屋からシンプルなドレスを選んで髪を整える。

 前夜の記憶は、必死の心持ちで訴えた羞恥を残すのみで、後半に至ってはほぼ残っていなかった。

 はっきりと憶えているのは、激しい嵐の中に放り込まれたのかと思う程に翻弄されたこと。それでいて、最後には何か暖かいものに包まれていた気がする、と言うことのみ。だからと言って、それが『他に興味がない』と言い切った、あの『夫』の腕の温もりであったのかまでは確証が持てなかった。

(……カーマイン様と言うのは、一体、どう言う方なのかしら……)

 ぼんやりする頭で考える。冷たいようでいて、そうとも言い切れない何かを感じさせる振る舞いの謎を。

 ゴドー家の役割は前夫の役目とそれなりの関わりがあるらしく、多少の話を聞いたことはあった。『すごい方だ』と、それのみを。

 そもそもゴドー家と言えば、社交界に疎いマーガレットでさえも、当たり前に知っているほど名門の家柄──伯爵家である。その当主であるにも関わらず、浮いた噂ひとつ聞いた試しがないと言うのも珍しかった。ただ、直感的に納得したのは、『他に興味がない』と言う表現は的を得ているのだろうと言うこと。『女性嫌い』でも『自分のことが疎ましい』訳でもなく、本当に『関心がない』のだ、と。

 それならそれで良い、とも思う。と言うよりは、致し方ないと言った方が正確であった。元々が政略以外の何物でもない結婚。多くを望まなければ、恵まれた環境とは言えた。

(……けれど……)

 『女性に惹かれたことがない』と言う言葉が真実だとして、それにしても扱いには長けていた、と思わざるを得ない。少なくとも前夫よりは確実に。だが、肉体的な交歓は強くとも、当たり前ではあるが、前夫との間に感じていたような暖かな心の交歓はなかった。

(……ライナス様……)

 『望まない』と己に言い聞かせたとて、ただ一つ、マーガレットが望んでいたものが前夫との暖かな関係である以上、今後、それは望むべくもない──奇跡でも起きない限りは。そのことが切なかった。

 涙がこみ上げそうになった時、扉を叩く音で我に返る。

「……マーガレット……私です」

「……あ、は、はいっ……」

 急いで扉を開けると、クライヴが一人で立っていた。顔を見た途端、昨夜のことを思い出したマーガレットは、恥ずかしさに目を合わせることが出来ない。

「……用意はいいですか? 屋敷を案内する前に食事にしましょう」

 差し出された腕にエスコートされ、居間へ向かいながら窺い見る『夫』の横顔には、何事もなかったと言う色しか見出だせなかった。安堵はするものの、同時に居心地の悪さも感じてしまう。慣れていない人間と話すのは苦手なはずなのに、今はメイドたちからの挨拶に応えなければならない立場であることが救いになる。

「おはようございます、カーマイン様、奥様」

 食卓では執事のフレイザーに迎えられ、その見習いであるヒューズが温かいお茶を注いでくれた。妻とは言っても、マーガレットには特に何もすることがなく、仕方ないのでカップの陰から夫の顔を窺う。

(……本当に整ったお顔立ちをしていらっしゃる……)

 明るい場所で、しかも正面からまじまじと夫を見たのは初めてであった。食事を摂りながら動くたびに、クライヴのダークブラウンの髪が光を受けて艶めいている。同じくダークブラウンかと思っていた瞳は、角度や光の加減によってやや赤味を帯びて揺れており、マーガレットはここに来て夫の名の由来に気づいた。

(……カーマインにしては深い色だけれど……完全なブラウンではなかったのね)

 ━━と、その時、夫の瞳が自分を捉えたことに気づき、慌ててカップに目線を落とす。

「……マーガレット。この後、屋敷内を案内します。一度に色々覚えるのは大変でしょうから、ゆっくりと慣れてください。何かわからないことがあれば……私が屋敷を空けている時は、フレイザーかヒューズに何でも訊いてください」

「……はい……ありがとうございます」

 話し方自体には特に変化がなくとも心遣いは感じられ、胸の内に安心感が湧いて来るのを自覚した。

 食事が済み、クライヴに広大な屋敷内を案内されるも、庭も含めるとかなりの敷地面積で、とても廻り切れるものではない。そこは屋敷周辺に留まるが、中でも薔薇園とピアノを見たマーガレットは目を輝かせた。しかし、生来のおとなしさが作用してか、触れたそうにしながらも決して口には出さない様子に、クライヴは先回りしてやることにする。

「……興味があれば、何でも好きに使ってくださって構わないのですよ」

 意外な言葉に夫を見上げる。とは言え、クライヴの表情が特に変わることはなかったが。

「もう貴女はこの屋敷の女主なのですから、屋敷内のどこに行こうと、何をしようと自由です。わからないことは、先ほど言ったように誰にでも訊いてくれれば良い……ただし……」

 そこで一旦区切り、声のトーンが少し落ちる。

「何があっても、私の書斎にだけは立ち入らないように。あそこには役目上の大切なものだけではなく、危険なものも置いてあります故……」

 昨夜、立ち入った私室の居間。マーガレットは寝所とは反対側の奥に続く扉を思い出した。

「……良いですね?」

「……はい。……ありがとうございます」

 マーガレーットの目を窺うように問う様は、穏やかな物言いにも関わらず有無を言わせない強制力を含んでいる。だからと言って、『役目上の』と言われ、そこに疑問や好奇心を挟み込み、『却って見たくなる』などと俗な考えが浮かぶようなマーガレットではなかった。素直に感謝し、そして受け入れる。

 何よりマーガレットが一番ホッとしたのは、クライヴが公の場に出ることが極端に少ないと言うことであった。前夫も賑やかな場が好きではなかったが、召されれば断れない立場であり、それを考えばクライヴの外出率は極めて低いと言えた。

 本来、正餐や夜会に召されれば、当然、妻であるマーガレットも同伴せざるを得ない。それは必然的に前夫と顔を合わせなければならない、と言うことでもある。

 『逢いたい』と思う気持ちが、決してない訳ではない。だが、『他の男の妻』として、『他の男』に手を取られた姿を見られるのは──正面切って『他人』として挨拶を交わすのはあまりにも辛かった。

 それにしても、引く手数多であろうに、クライヴは役目以外の外出をほとんどしない。それはやはり強い立場、即ち誘いを断れる立場でもあるのだろうとマーガレットには思えた。

 ただ、不思議に思ったのは、時折『何故、この夜会に?』と思うレベルの招待に応じることである。それは、特に大きな会でもなければ、高位の家からの招待と言う訳でもなく、言ってみれば『何の変哲もない』のだ。

 もちろん、マーガレットも伴われたのであるが、幸いと言うべきか前夫は出席しておらず、顔を合わせずに済むものばかり。しかし、案の定と言おうか、クライヴは身分や姿形だけでなく、その立ち居振る舞い──マーガレーットをリードしてダンスする様までもが注目を集めた。

 マーガレットは、共にいる己に注がれる視線に羨望とも嫉妬ともつかぬ負のエネルギーが満ちているのを感じ、仕方ないとわかってはいても恐ろしくて堪らなかった。それを知ってか知らずか、クライヴは彼女を決してひとりにはせず、常に傍らに置いてくれる。

 あまりの分の悪さから始まった結婚生活ではあったが、マーガレットの予想に反して緩やかに穏やかに溶け込んで行った。薔薇の手入れをし、時には夫の部屋に生け、刺繍や編み物、ピアノを演奏して過ごす平和な時。

 彼女が次第に慣れ、許容出来る日常に同化した頃を見計らい、クライヴは少しずつ己の日常も通常に戻して行った。決して、マーガレットに違和感を感じさせぬように。

「……お珍しいことですね」

 マーガレットに決して立ち入るな、と言い含めた書斎。紅茶を注ぐヒューズに問われ、書き物をしていたクライヴの目が彼を見上げた。フレイザーは一瞬だけヒューズを見遣り、後は何も言わずに黙っている。

「……何のことだ?」

 視線を手元に戻したクライヴが、感情のこもらぬ声音で訊き返した。その対応に、ヒューズがやや拗ねた顔を見せる。

「……おわかりのはず……奥様のことです」

「……マーガレットの? 何を不思議がることがある?」

 意に介することなどない、と言うように、クライヴはペンを走らせた。

「……本当にお人の悪い……伯爵自ら、あのように細やかにして差し上げるなど……お優しい態度をお示しになるなどお珍しい、と申し上げているのです……」

 フレイザーが微かに眉をひそめる。ヒューズは、何気に非礼な言葉を発している己に気づいていない。だが、クライヴの口角は僅かに持ち上がった。

「……そう見えるか……?」

「……違うと仰るのですか?」

 ヒューズの質問に答えず、クライヴは書き終えた書面を封筒に入れて蝋を垂らすと、ゴドー家の紋章入りの印で封じた。

「……フレイザー……使いを頼む……」

「……畏まりました。アシュリー子爵のお屋敷でございますね?」

 差し出された封筒を受け取る前に答えるフレイザーに、ヒューズは驚き、クライヴは『さすがだな』とでも言うように口角を上げる。手紙をフレイザーに渡し、クライヴは胸の前で手を組んだ。

「……マーガレットには何ひとつ責任はない。落ち度も、ほんの僅かな欲すらも……むしろ、被害者とも言える」

「……情けをおかけになっていると……? だから、優しくして差し上げていると仰るのですか……?」

 組んだ手をデスクにつくと、クライヴはその陰で口元から微かな笑みを打ち消す。

「……彼女のように純粋無垢でおとなしい者こそ、何かあった時にどう動くか予想がつかない……」

「……え……」

 言葉を失うヒューズに視線を向けたものの、それ以上は何も答えなかった。

「フレイザー……頼んだぞ」

「……Yes, my lord……」

 一礼し、退室するフレイザーにヒューズが慌てて続く。扉が閉められ、ひとりになったクライヴは椅子の背にもたれた。

「……さて……エドワード・ライナス……きみはどう出る……?」

 紅茶が注がれたカップを捧げ、誰もいない空に向かって小さく問う。

「……リチャード……そなたの命(めい)、恐らく守れんぞ……オーソンの方から反故にしてくるだろうからな……」

 そう言い放ち、己の瞳と同じ色の液体を見つめた。

 自ら主の使いに立ち、アシュリー邸を訪ねたフレイザーは丁寧に名を告げた。執事は、一瞬返事に詰まり、だが、すぐに己の主の元へ走った。落ち着かぬ様子でノックする。

「……だ、旦那様……! ただいま、お客様が……!」

 書斎で執務をこなしていたアシュリー子爵エドワード・ライナスは、不思議に思いながら顔を上げた。

「……どなただ?」

「……そ、それが……ゴドー伯爵様からのご使者でございます……」

「………………!」

 予想外の相手の来訪に手が止まる。息を飲んだライナスは、一呼吸して己を落ち着かせて答えた。

「……失礼のないように応接室へ……すぐに行く」

「……か、畏まりました……」

 立ち上がったライナスは、奥の扉の隙間から続き間を覗いた。陽当たりの良い部屋の暖かい窓際に赤ん坊のベッドが置いてあり、傍らに座る女が覗き込んであやしている。まだ言葉にならない、けれども可愛らしい声を聞き、自然にライナスの顔が弛んだ。

(……ルキア・ローズ……)

 娘の名前を唱える。覚悟を決め、客の待つ応接室へ向かうべく、そっと扉を閉めた。

「……大変、お待たせ致しました」

 応接室に入ると、窓際に背の高い男が立っている。文句のつけようのない、折り目正しい立ち姿。その後ろ姿がゆっくりと振り返った。

「……フレイザー殿……?」

 ゴドー邸を訪ねた折に見知った男が、ライナスに最敬礼を表す。

「……まさか、フレイザー殿とは……」

「……お久しゅうございます、アシュリー子爵。本日は、我が主より言伝を預かって参りました。ご査収くださいますよう……」

 ゴドー家の印章が入った封筒を差し出し、フレイザーは少し離れた場所に控えた。ライナスはその封筒を━━正確には文字と紋━━を数秒見つめ、意を決したように開封する。

 文字を目で追う間(かん)、まるで応接室の時間は止まっているかのように静かであった。空気を震わせる呼吸音までが鳴りをひそめている。だが、次第にライナスの表情が厳しいものに変わり往き、それにつれて額から汗が伝う。

 数刻の後、文を繰(く)る手がやや脱力した。目線が上に移動した様子から、フレイザーはライナスの読了を判断する。

「……ご返答を……」

 操られたようにフレイザーを見遣り、ライナスは思い出したように息を大きく吐き出した。まるで呼吸を忘れていたかのような胸苦しさを、ようやく自覚する。

「……承知した……」

 短く答えたライナスに頷き、フレイザーは主の元へと立ち返った。

 その背を見送りながら、ライナスの心は風に煽られたように揺れていた。そんな己を宥めようと、一番心慰められる場へと足を運び、無邪気な笑顔を向けて来る娘を抱き上げる。

「……ルキア・ローズ……そなたを守るためなら、私はどんなことでもしよう……。……そなたの母が、そうしたように……」

 抱きしめた娘の小さなぬくもりだけが、今のライナスを確かに支えてくれるものだった。

「……承諾したか……」

 クライヴは坦々とつぶやいた。

「……Yes, my lord……」

 フレイザーも、ひと言を以って答える。

「……ご苦労だった」

 フレイザーが一礼して去ると、クライヴは寝室から窓の外を見つめた。雲の切れ間から少しずつ現れた月が、薄暗い室内を照らし始めた時、扉をノックする音が響く。

「……入れ……」

「……失礼します……」

 声をかけると、遠慮がちに入って来たのはマーガレットであった。窓際に立つクライヴに近づこうとして足を止める。

「………………!」

 月が照らした夫の顔、映し出したその瞳。

「……どうしました?」

 だが、いつもと変わらぬ声。

「……い、いえ……何でもありません……」

 何とか答え、差し出された手に己の手を預けると静かに引き寄せられた。

 腕の中から夫を見上げると、鮮やかな紅に染まった瞳が見下ろしている。昼間とは違う──ように見える瞳が。

「……カーマイン様……」

 近づいて来るその瞳から目を逸らせないまま、月の光の中で影はひとつになった。

 クライヴが夜陰に紛れてライナスを訪ねたのは、それから二日後の夜更けのことである。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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