見出し画像

姪バカ備忘録

 
 
 
★身内贔屓の権化一族・悠凜家の一族の末席に居座るうかれポンチの、思い出と所感のただの個人的備忘録です。
 
 
 
***
 
 
 
昨日、義理も実も含めたおじ・おばの内のひとりである母方の伯母の連れ合いを初めて送ったので、義伯父との思い出なんぞ忘れぬうちに書いておこうと思う。

家族である伯母や従兄と私は立場が違う。家族は良いとこも悪いとこも全部見ている。ヘタすると悪いとこの方が多かったもする。だから、これはあくまで「私から見た義伯父」と、その思い出に過ぎないことは明記しておこう。

先月75歳になったばかりだった義伯父は、25年ほど前、50歳くらいの時に初めて大手術を受けた。確か胃癌だったと思う。その時に痩せて、その後も何度か入退院し、年齢も加算されてその都度小さくなっては行ったけど、それでも何とか元気に頑張っていた。

一昨日、12月10日の夕方、お通夜に参列するために仕事を早引けさせてもらい、そのまま斎場へと向かった。前夜、従兄からは17時半までに来て欲しいこと、それほどの人数は来ないと思うけど、場合によっては会計の手伝いをして欲しいと言う旨の連絡を受けていた。

到着し、棺に横たわる義伯父の顔を見た瞬間、もうどうしようもなく泣けて仕方なかった。

今年のお盆に会った時、お正月に会った時とは比べ物にならないくらいに痩せこけていて驚いたばかりだったのだけど、入れ歯を外してしまったのを加味しても、その時よりも更に小さく小さくなっていた。

私の子ども時代の記憶にある義伯父は、背は恐らく今の私くらいしかなくて小柄だったけど、全身筋肉の塊のような人だった。仕事でドラム缶やガス缶を転がし、トラックに積んだりしていたような人だ。腕の太さなど、ほうれん草の缶詰を食べたポパイのようだった。色が黒くて、顔も濃ゆくてハッキリしてて、尚且つパンチに近いパーマをかけていて、どう薄く見積もっても小柄なメキシコ人にしか見えなかった。

光り物が好きで、太い金のネックレスや指輪をしてサングラスをかけた姿など、知らない人が見たら「やばい……」と逃げ出しそうな雰囲気ですらあったかも知れない。

そんな義伯父だったのに、私を軽々抱き上げてくれていた腕と胸板は、私が抱き締めても折れてしまいそうなほどに細く薄くなってしまっていた。目はくぼみ、頬はこけ、骨と皮だけのようになってしまっていた。

元々、義伯父はワリと自己チューで勝手な方だと思う。伯母たちにも何の相談も報告もせずに、何でも自分でパッパッサッサッと決めてしまい、後で聞かされてビックリ!なんて話は何度も聞いている。伯母もちょっと天然なところがあるので、付いてくのは結構大変だったとは思う。そこはフォローのしようがなく、「うん、まあ、確かにね」としか言いようがない。

それでも、優しさがないワケではなく、愛情がないワケでもなく、いいところはいっぱいあった。私が知る限りでも。(もちろん、義伯父にも外面がいいとこもあったとは思う)

伯母と母は歳が離れていて、母が高校生の時には二人は結婚していた。なので、遊びで上京した母は義伯父たちの家に世話になっていた。母が「○○に行ってみたい」と言えば、義伯父が一生懸命調べて連れて行ってくれたらしい。就職で上京してからも、正月休みは新潟の実家ではなく、義伯父の家に世話になっていたと言う。

小さい私がひとりで泊まりに行った時も、夕飯に何を食べたいか訊かれて「ラーメン(もしくはざる蕎麦)」と答えれば、「よし、末っ子(斜め向かいのラーメン屋)に行くか」と、麺類なんて軽食かおやつみたいなもので、ゴハンとお肉でなければ食事と認めないステーキなんかのお肉が大好きな義伯父が言ってくれたりもした。恐らく心の中では「えっ、ラーメンかよ」と思っていたとしても。
(この時、本来麺類好きなんだけど、いつも義伯父に合わせて麺を食べれない伯母は内心ガッツポーズだったらしい)

中学生か高校生の頃、やっぱりひとりで泊まりに行った私に、「今日はおじさんが一番いい肉を焼いてやるからな。おじさんが焼いた方がうまいんだぞ」と嬉しそうにフライパンを振ってくれた。たぶんホントは自分が食べたかったんだろうと思うし、はっきり言って料理上手の伯母にかなり失礼なことを言っている。しかも、伯母の煮てくれたカボチャの煮物が大好きだった私には、特になくても構わないメニューではあったのだけど、焼いてくれている義伯父の笑顔は嬉しいものだった。
(後に従兄が「ぼくがたまに帰っても、そんなことしてくれたことないけどね」と言っていた)

私が短大生だった夏、義伯父は最初の手術を受けた。前期の講義を終えた足で見舞いに行くと、ひとりで病室に入って行った私をポカーンと見つめた。それから食堂でコーヒーを飲みながら、ふたりでおしゃべりした。帰り際にハグした時、私が訪ねたことを泣きそうなほど喜んでくれていたことを知った。

20歳の時には、義伯父の実の姪御さんのひとりも私と同じ歳だから成人式のはずで、「お祝いをするから」とお誘いを受けたのに、何故かそれを蹴って我が家にやって来た。朝、インターフォンが鳴ったので玄関を開けると、義伯父と伯母と犬がいた。伯母が言うには、義伯父は「○○家(悠凜家)に呼ばれているから」と断ったらしい。伯母は「私が悪く思われたら困るのに」と少々困っていたが、まあ義伯父は言い出したら聞かないし、実際のところ私の晴れ着姿の方が見たかったし(伯母バカ)、家にいてバレたら困るしで、いそいそと来たらしい。ちなみに、我が家では特に祝の席の予定はなかったので、義伯父は完全にウソをついていた。

本当に困った人で、手術後に固定しているコルセットを「苦しい」と勝手に外してしまうし、薬の飲み方も勝手にアレンジした挙句に「効かない」とかアホなこと言うし、腰が痛いのに重石をつけて懸垂とかバカなことするし。自分なりに一生懸命やってるのはわかるんだけど、その全てが逆効果に結びつくことばかりでホンットに困ったちゃんなんだけど。

でも、可愛がってくれた。

先にも書いたように、家族はいろいろ言いたいことがあると思う。けど、私にはいい記憶しかない。可愛がってもらった楽しい思い出しかないのだ。

いいか悪いかは別として、義伯父は身内との関わりと言うか縁が少し薄いところがあるらしい。早くにお父さんを亡くしているのは伯母や母と一緒なのだけど、どうも親ではなく伯母さん(叔母さん?)に育てられたのだと言う。兄弟姉妹も七人だけど、全員バラバラに育てられた、と。

一番上の人は早世し、一番下の妹さんは20歳になるかならないかで亡くなった。すぐ下の妹さんもかなり若くして亡くなっている。お兄さん二人とは仕事なんかの関係で仲違いし、縁は切れてしまっていて、実質関わりがあるのはお姉さん一家と、すぐ下の妹さんのご主人と子どもだけ。

だからこそ、伯母の実家に多少なりとも羨ましさがあったのかも知れない。口は悪いしぶっきらぼうな悠凜家の一族だけど、何でも遠慮なく言い合う伯母の実家が居心地が良かったらしくて、以前は必ずお盆には来ていた。体調的な問題と、犬を連れて行くのが自分的に困難になるまでは、必ずだった。

ここ数年、長い車移動や田舎の暑さが堪えるようになり、来ることはなくなっていた。けれど、今年の夏は「絶対に行く」と言ってきかなかったそうだ。

正直、伯母もそれほど体調が良いわけではなく、自分も今年はやめようかと思っていたほどらしいのだけど、前述の通り義伯父は言い出したらきかない。しかも、今回は本当に頑なに「絶対に行く」と言っていたらしい。

今夏を逃したら、もう行けないかも知れない、もう会えないかも知れない、と──もしかしたら義伯父は予感していたのかも知れない。生きていたとしても、もう自分は新潟までは行けないかも知れない、と。

そのお陰で私も会えたのだ。

もしお盆に会えなかったら、入院していることも一切知らせるなと言っていた義伯父だから、来年のお正月まで会いに行く機会はなかったはずなのだ。そうしたら、今年のお正月に会ったきりでお別れだった。

きっと、皆に会いに無理して新潟まで行ったのだろうと思う。会いたい、と思ってくれていたんだと思う。

余談だけど。もう10年以上前になるか、以前タクシーの運転手をしていた頃の義伯父と、一度だけ仕事中に表参道の交差点で遭遇したことがあった。

(あ、日の丸足立だ)

と思って足を止めた私の目の前で、お客さんを降ろしたタクシーの運転席を覗くように見ると、そこには義伯父の姿があった。思わず手を振ると満面の笑顔。

私はその笑顔を忘れない。ずっとおじさんのこと忘れない。

そう思うと、私は両親だけでなく祖父母やおじ・おば、近所の人や友だちのご両親、他にもたくさんいるけど、その人たち皆に育ててもらって来たんだなぁ、とつくづく思う。

その割に大した中年になってないのは申し訳ない限りだけど、我が家の家訓『親兄弟に迷惑をかけるな(=親兄弟が世間に後ろ指を指されるようなことはするな)』だけは、今のところは守れていると思うから(思いたい)、とりあえず良しとしよう(笑)。

私はおじさんのこと好きだったよ。
いつの日か、また会う日まで。
 
 
 
追記・遺影の写真は本当にいい男だったよ(笑)
 
 
 
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?