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魔都に烟る外伝/終宴の始まり~part9~

 
 
 
「……旦那様……! ……旦那様……! お客様が……ゴドー伯爵様からのご使者がお見えでございます……!」

 眠っているルキア・ローズを慮るアシュリー家の執事は、声を抑えながらも慌てた様子で主に伝えた。娘の寝顔を眺めていたアシュリー子爵エドワード・ライナスは、告げられた名に顔を上げ、同時に頭の中を記憶が駆け巡る。

(カーマイン殿が、また使いを……?)

 それは、つい数週間前の記憶。

「……すぐに行く」

 その時のことを、鮮明に思い起こしながら答えた。

 マーガレットがクライブに再嫁してしばらく後、夜も更けた頃──。

 月が翳り、辺りを闇が包む中、クライヴ本人が密かにアシュリー邸を訪れた。

「……伯爵……」

 複雑な面持ちで出迎えたライナスが、それでも努めて普段と変わらぬ態度を示そうとしていることは読み取れる。

「突然の申し入れ、失礼した。しかも、このような夜更けに訪ねる無礼、許されよ」

「……いえ……本来なら、私の方が伺わなければならないところを……恐れ入ります……」

 普段見知る様子と、努めずとも変わらぬクライヴに、ライナスは己の未熟さを痛感した。辛さに於いては己の方が上でも、複雑な状況と言う点に於いてはクライヴとて同じである。

 しかも、ライナスは呼び出されれば、自らゴドー邸に出向かなければならない立場でもあった。そこを『出向いてもらった』のだ。幼子を連れての密かな外出、それも夜更けになど難しいだろう、と。もちろん、そこにはマーガレットに関する暗黙の了解も含まれてはいる。

「……ライナス」

「……はい……」

 二人だけの空間で、クライヴは敢えて『アシュリー』とも『子爵』とも呼ばなかった。不思議なことに、それがライナスにとっては『案ずるな』と言う風に聞こえ、解消するはずはなくとも、心の位置がやや持ち上がる気がする。

「最初に訊いておきたい」

「……はい……」

 それでも、不安を拭い切ることは出来ないライナスに、クライヴは表情を変えぬまでも声のトーンをほんの僅か緩めた。ライナスには、その微妙な差が読み取れる。それが彼の『力』であり、『役目』を担うためのものであるから。

「……レディ・マーガレットが、そなたの元に戻る、となったら……そなた、どんなことがあろうと迎える覚悟はあるな……?」

「…………!」

 『あるか』ではなく、『あるな』と、確かにクライヴはそう訊ねた。

 ライナスは言葉を失った。その断定的な問い方だけでなく、内容にも驚きを隠せない。そして、今現在、クライヴの妻であるマーガレットを、わざわざ『レディ』の敬称付で呼んだことにも。だが、ライナスの心は端から決まっていた。ただ、そのようなことが可能だなどと、到底、考えられなかっただけである。

「……もちろんです……!」

 質問の意味を認識したライナスは即答だった。真っ直ぐにクライヴを見つめ、真っ直ぐに答えた。

 そこには、クライヴの脳裏にどのような思惑があるか、は関係なかった。己がマーガレットを迎えるか、迎えないか……もっと正確に言えば、迎えたいか、迎えたくないか、だけであり、ライナスの中に『否』はなかった。

「……例え……」

「……例え、一度は別れ、貴方の妻となったのであっても……例え、伯爵家世継ぎの母となったとしても、彼女が私の元に戻るのであれば、その事実以外は関係ありません。私の妻は……そして、娘の母親は彼女ひとりです……生涯……」

 クライヴの言わんとすることを、全て先読みした返答であった。微かではあるが、クライヴは口元に満足気な笑みを浮かべ、そして小さく頷く。

「……それを聞いて安心した」

「……えっ……?」

 拍子抜けするライナスに、クライヴは再びいつもと同じ目を向けた。一瞬、怯むライナスに、目で合図をして立ち上がる。

「……では、本題だ。娘御のところに案内してくれ」

 見上げたまま息を飲んだライナスは、先触れの文の内容を思い出し、操られるように立ち上がった。

「……こちらです」

 娘のルキア・ローズが眠る部屋へと誘う(いざなう)。

「しばらく外していてくれ」

 乳母に命じて部屋から出すと、娘の様子を覗き込んだ。その瞬間、眠っていたはずのルキア・ローズが、何かに促されたように突然目を開け、大きく見開く。

「……起こしてしまったか……」

 ライナスがつぶやくも、ルキア・ローズは特に泣き出したりすることはなかった。ただ、何かを探すように、イエローブラウンの大きな瞳を動かしている。

「……何を見ているのだ……?」

 ライナスには、それが母を探しているようにも見え、恐らくは何ひとつ記憶に残っていないであろう娘が不憫に思えた。そっと抱き上げ、キョロキョロと視線を移動させる娘をクライヴに差し出す。

「……娘のルキア・ローズです……」

 頷いたクライヴが、思いの外、やわらかい手つきで赤子を受け取ったことに、ライナスは驚きを隠せなかった。同時に、クライヴの手に抱かれ、彼の顔がルキア・ローズの視野角に入った途端、浮遊していた視線が固定されたことに気づいた。娘の目がはっきりと見えているのか、いないのか、それすらも判断がつかぬ中での、さらなる驚きとなる。

「……ルキア・ローズ……」

 大切な呪文を唱えるようにつぶやき、クライヴは片手に赤子を抱き、もう片方の指を彼女の額に当てた。瞑目し、口の中で何かを唱えている。

 かなり長く続く唱和に、何を施されているのかわからないライナスの表情は、緊張でひどく硬いものになっていた。それでも、待つしかないこともわかっており、ひたすら炙られるような時間に耐える。

 その間(かん)、当のルキア・ローズは声ひとつあげなかった。怯えた様子もなく、ただ目を開けたまま、じっとクライヴの顔を見上げている。

「……………」

 クライヴが静かに息を吐き出した。それに気づいたライナスの緊張も同時に解ける。

 腕の中からじっと見上げて来る赤子を見下ろしていたクライヴが、一度自分の正面に小さな身体を掲げ、静かにベッドへ寝かせた。片手でルキア・ローズの両目を覆うと、再び何かを唱え始める。

 この時、ライナスの目には、クライヴの全身が仄かに発光したように映った。それは間違いではなく、クライヴの左目はオーソンを恐怖のどん底に落とした光を放っていたのである。

 息を詰めていると、やがてクライヴを包んでいた仄かな光は消え、元の薄暗さと静けさが戻った。クライヴがゆっくりとライナスを振り返る。

「……この子には、最強の護符を施しておいた……良いな?」

「……はい……ありがとうございます」

 頷いたクライヴは、またウトウトと眠りかけたルキア・ローズを見下ろした。

「……ルキア・ローズ……良い名だ……その名がそなたを守るであろう……大切にせよ……」

 穏やかな声でつぶやき、小さな頭をそっと撫でる。扉を指差してライナスに合図を送り、ルキア・ローズを起こさぬように部屋から出た。

「……ライナス……ルキア・ローズには、恐らく子爵令嬢に相応しい、華やかな生活はさせてやれぬだろう」

 応接間に戻ったクライヴが低くつぶやくと、ライナスがその顔を見つめる。

「あの子は、そなたと母御に似て美しく生い立つだろう。社交界にデビューすれば、それこそ注目の的になるはず……だが……」

「……人目に晒さず、静かに育てた方が良い、と言うことですね?」

 言い憚る様子に、ライナスの方が先回りをした。クライヴが静かに睫毛を翳らせる。

「……予想してはいたが、あの子は『力』を持っている。それも、そなたよりもかなり強い、だが、オーソンには及ばぬ。故に、奴には出来る限り近づけぬ方が良い。恐らく、向こうから近づいて来ることはあるまいが、もし何かの妨げになる、と判断されればその限りではないからな」

「……あの……“護符”の作用と言うのは……」

 恐る恐る訊ねるライナスに、クライヴが胸の前で指を組んだ。少し考える様子を見せ、小さく頷く。

「……ルキア・ローズに掛けた護符は、通常の生活で関わる相手に及ぶことはない。害意を持って近づいた相手にのみ発動する故、屋敷内の者たちは特に心配することもない。だが、強力な力であることは間違いない。当然、オーソンが破ることは絶対に出来ないレベルにしてあるからな……」

「……はい……」

「害意と力の大きさに比例して……つまり、相手に見合った防御と攻撃が発動する」

「そのようなことが可能なのですか……?」

「……可能だ。オーソンが本気でルキア・ローズを手にかけようとすれば、恐らく塵も残らぬほど完膚なきまでに消し去られるだろう」

 ライナスが息を飲んだ。その恐れを察したように、クライヴが付け加える。

「先ほども申したように、相手の害意と力が弱ければ、単に具合が悪くなる程度のものだ。心配はいらぬ。だが、世間にはどのような輩がいるやも知れぬし、ルキア・ローズ自身が力を持っているが故、精神面の安定を考えれば悪い意を持つ者と関わらぬ方が良い。護符の有無に関係なく、出来る限り人前には姿を現さぬに限る……可哀想だがな……」

「……確かに、若い娘には酷な生活やも知れませぬ……しかし、それも全て、このような状況の中、当家に生まれたあの子の宿命(さだめ)……致し方ありませぬ。……元々、私も華やかな世界は好みませぬ。静かに……平穏に育てて行きます」

 ライナスは俯き、それでも静かに言い切った。穏やかな性格そのままの声音は、強い決意に満ちた空気を纏っている。ライナスの目を見つめ、クライヴは微かに口角を上げた。

「この屋敷の敷地全体には、既にオーソンが立ち入れぬように術を施しておいた。あとは、そなただけだ」

「……え? ……いえ、私は……」

「何を不思議そうな顔をしている?」

 驚くライナスに、クライヴの方が不思議そうに訊ねる。

「……私とて、オーソンがそなたやルキア・ローズに敢えて干渉して来るとは思っておらぬ」

 あれだけの『嚇し』をかけておけば、さすがにオーソンも、これ以上怒りを買うような真似はしないだろう、とクライヴは思っていた。だが、己の思惑通りに上手く事が運ばなければ、どんな手段に転じるか油断は出来ない、とも考えていた。

「……万が一、そなたに何かあれば、ルキア・ローズはどうする? まだ幼い(いとけない)娘をひとりには出来ぬであろう? 命さえ残れば良い、と言うものでもないのだからな」

 ライナスは唇を噛んだ。さらに、その後のクライヴの言葉が胸に突き刺さる。

「……だからこそ、レディ・マーガレットは私のような得体の知れない男の元に、自ら身を投げ出したのであろう? あれほどに儚く、頼りなげな彼女が、そなたたちを守るために……」

 マーガレットに関しては、返せる言葉は何ひとつなかった。だが──。

「……私たちを守るため……確かにそれは仰る通りです。けれど私は、もし、相手がカーマイン殿……貴方でなかったなら、このアシュリー家を潰してでも、マーガレットを手離したりはしませんでした。……相手が貴方だったからこそ、マーガレットの意に賭けたのです」

 顎に指を当てて聞いていたクライヴが、その言葉に首を傾げる。

「……何故(なにゆえ)だ?」

「……貴方なら、どのような状況でマーガレットを娶ったとしても、決して軽んじたり無体な扱いはしない、と確信していたからです」

 クライヴは支えていた顎を僅かに持ち上げた。何か驚くべき話を聞いたかのように。

「……私は幼き頃より貴方を存じ上げております」

 真っ直ぐに自分を見つめるライナスを見つめ返す。

「……得体が知れない、などとんでもない。確かに貴方は、常人では考えられない力をお持ちだ。そして、あの頃から誰にも感情の襞をお見せにはなりませんでしたが、決して優しさがないとか、思いやりの欠片も見せない、などと言うことはなかった。特に深く関わることはなくとも、例え身分が低い者であっても、必ず相手を『ひとりの人』として対してくれていた……そのことを見て、知っておりましたから……それに……」

「それに?」

 目を逸らし、ライナスは少し躊躇う様子を見せた。

「……このような言い方はご無礼かと思いますが……」

「構わぬ」

 クライヴに促され、ライナスが意を決した表情を向ける。

「……その……逆説的ではありますが、貴方はマーガレットを大切に扱いながらも、決して心から本気で愛することはないだろう、と……思っておりました故……」

 クライヴの口角が小さく持ち上がった。その様子が、ライナスの目にはまるで自嘲しているようにも見える。

「……その通りだ。安心致せ……レディ・マーガレットの真心は、今も、そしてこれからも、永久にそなただけのものだ」

 完全に見透かされていた恥ずかしさで俯くライナスに、クライヴは穏やかな目を向けた。それこそが、ライナスと言う男への無言の信頼の証とも言える。

「……なればこそ、そなたに倒れられては困る」

 そう言って、静かにライナスの前に立った。

「……しばし、目を閉じよ」

「……はい……」

 見上げた姿勢のまま、目だけを静かに閉じると、クライヴの指が額の辺りに当てられ、ちょうど掌が顔全体を覆うように影を作る。

「…………」

 クライヴが口の中で何かを唱え始めた。目を閉じていると、額に当てられた手から次第に暖かさが感じられて来る。そのまま緊張していたライナスは、やがて額から何かが流れ込んで来る感覚を覚えた。不思議な波動が。

「……もう、目を開けて良いぞ」

 手が離れた気配、クライヴが離れた気配、そして掛けられた声にゆっくりと目を開く。

「あまり干渉し過ぎると困る故、ルキア・ローズの護符とは少し違うものだが……」

「ありがとうございます」

 再び向かい合って腰を下ろしたクライヴを、ライナスが深刻な表情で見た。やや緊張しているライナスに対し、やはりクライヴの方は特に構える様子もない。

「……カーマイン殿……お訊きしても宜しいでしょうか?」

「……なんだ?」

 組まれた指が彷徨う様は、そのままライナスの心の迷いを表していた。それでも、訊かずにはいられない、と言うように口を開く。

「……最終的に、貴方は義父を……いえ、男爵をどうなさるおつもりですか?」

 本来なら、何とも言えないおかしな光景であった。

 マーガレットと言う一人の女を挟み、『夫だった者』と『現在の夫』が向き合い、『義父だった者』『今現在、義父である者』について語っているのだ。しかも、それが決して微笑ましい平和な話題ではないことが一目瞭然でもある。何より、ライナスには心のどこかでクライヴの答えがわかっていた。それでも、確認せずにはいられなかったのだが。

「……そなたが考えている通りだ」

 それを読み取ったのか、クライヴはひと言で答えた。

「……カーマイン殿……」

 押し殺したライナスの声に、クライヴが強い光を湛えた視線を向ける。

「……ここで留まれば、現状維持でも構わぬ。だが、奴がこの程度でおとなしくなることはなかろう。ならば、その時は……」

 ゆっくりと立ち上がり──。

「……消えてもらうまで……」

 息を飲み、腰を浮かせたライナスを見下ろす。

「……オーソンに関することで、そなたは絶対に動いてはならんぞ。何よりもルキア・ローズとそなたの身を最優先にせよ。……これは命令だ」

 静かに、だが低く言い放ち、クライヴはアシュリー邸を去った。

「お待たせ致しました」

 ライナスが応接間に入ると、そこに立っていたのは予想通りフレイザーであった。

「アシュリー子爵……我が主より、文と言伝を預かって参りました」

 差し出された封書を、どこか恐ろしさに震える手で受け取る。そこには予想以上の恐るべき内容──マーガレットがオーソンの元に戻ってしまったこと、オーソンが禁断の法を犯したこと、クライヴはそれを解決出来る人物を捜しに行くこと、が走り書きされていた。

「……カーマイン殿……いや……伯爵は一体……」

 誰を、何を、どこに捜しに行くと言うのか、ライナスには皆目わからなかった。それでも、わからないなりに、オーソンが『現状維持』の一線を踏み越え、クライヴの逆鱗に触れたことだけは理解出来た。

「……主からの言伝です。そのままの言葉をお伝え致しますのでご容赦ください……『必ず戻る。何があろうと動くな。ルキア・ローズのために』……とのことでした」

 フレイザーはそれだけ伝えると、立ち尽くすライナスに一礼し、屋敷を後にした。

 クライヴは集めた情報を元に、目的の人物が今現在いる可能性が一番高い場所を目指していた。

 船上で見つめる前方は東の彼方──東西が交差する、その場所に向けて。
 
 
 
 
 
~つづく~
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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