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終の棲処/参〔小春〕〜かりやど番外編〜

 
 
 
手が届くなどと
思ってもみなかった
 
辿り着けるなどと
考えたこともなかった
 
あの人と共に見守れる場所
其処が私の終の棲処
 

 美鳥(みどり)さまが亡くなられてから、もう、どのくらい経つのでしょう。
 
 寄る年波には勝てません。めっきり身体も動かなくなり、それだけならまだしも、たびたび不具合を起こすようになってしまいました。
 当然といえば当然です。私はもう八十代も半ばを越したのですから。
 
 お忙しいのに、朗(ろう)さまは毎日のように来てくださいます。時には肩を揉んでくださったり、美味しいお菓子を差し入れてくださったりもします。
 今日は、夏川先生の診察を終えた後、程なく様子を見に来てくださり、少し遅れて、和沙(かずさ)さまが沙代(さよ)さんたちをつれて来てくださいました。
 可愛い盛りの昇一郎(しょういちろう)さまと緑朗(ろくろう)さまの笑顔を拝見するのは、私にとって何よりまぶしい宝物のような時間。
 
 子どもも孫も持つことはなかった私ですが、こんな時間(とき)を、何年か前にも過ごさせて戴いたことがありました。
 昇吾(しょうご)さまと美鳥(みどり)さまと、そして朗さまの笑顔が輝くあのお屋敷で。
 
 恐れ多いと思いながら、夏川先生のことは息子のように思っておりました。
 先生は、昔お世話になっていた神屋(かみや)先生と雰囲気が似ておられます。明るくて気さくで、それでいて熱くて真面目で、何よりも心と命を重んじるところが。
 それはきっと、お父上である先代の夏川先生から受け継がれたものなのでしょうね。
 
 お産まれになった時から見ていた美鳥さまたちは、本当に孫のように思っておりました。可愛らしくて、愛おしくて、おふたりの成長を間近で眺められる毎日は輝いていました。
 もちろん、それは奥様たちの存在があったからに他なりません。
 沙代さんが優一(ゆういち)さまを守るために松宮家を出られて、私は奥様たちとの御縁を戴けたのですから。旦那様と奥様、陽一郎(よういちろう)さまと美紗(みさ)さまとの。
 
 でも、まさか、陽一郎さまたちまでお送りすることになるなどと、少しも考えてはおりませんでした。
 
 それどころか、昇吾さまと美鳥さままで。
 
 誰よりも幸せになって欲しいと願っておりました。その願いを、ひと針ひと針レースにこめたのに……あんな事件さえ起きなければ。
 生きていてくださったことは幸いでしたが、ご両親もご友人も亡くされ、健康な身体を奪われた美鳥さまにとっては、お辛いだけのことだったのでしょうか。
 それでも、生きて欲しいというのは、私の我儘なのだろうか──そう思ったこともありました。
 代わって差し上げることが出来たなら、どんなに良かったか。
 
 だからこそ、朗さまからご結婚されるとお聞きした時、もう心残りはない、と思いました。美鳥さまは私が編んだレースでドレスを仕立て、願いを叶えてくださったのですから。
 ドレスを纏い、朗さまと並ばれた美鳥さまは、本当にこの世の誰よりもお美しかった。奥様や昇吾さまたちを差し置いて、私などが拝見したことが申し訳ないくらいでした。
 
 私は、また美鳥さまたちに、夢のような、宝物のような瞬間を戴きました。例え、短い時間だったとしても、美鳥さまと朗さまのあの笑顔は本物だったのですから。
 
 そして、優一さまたちとも引き合わせてくださいました。年齢的にも、もうお役には立てなくなった私の、それでも最後の居場所としてくださったこの場所で。
 
 美鳥さま。
 私は美鳥さまとのお約束通り、美鳥さまを喪った朗さまを、ほんの少しでもお支え出来たでしょうか?
 わずかでも、お慰め出来たのでしょうか?
 
 到底、『出来た』などと言えないことはわかっております。何より、それ以上に朗さまはお強い方です。私の支えなどなくとも、お気持ちが揺らぐことなどありません。
 私に出来ることと言えば、結局、皆さんを見守ることだけでした。せめて、お傍で、この場所で。
 
 それでも、やはり、本当は美鳥さまたちに見送って戴きとうございましたよ──。

 夢を見ていた。
 朗さまたちがお帰りになられた後、私はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 
 とうの昔に亡くした人たち。
 婚約者、最初の主人とふたり目の主人。
 いつも必ず現れるのは曽野木(そのぎ)──ふたり目の主人だ。
 
 例えば、他の人の夢を見た夜も必ず最後に現れるのは、一番最後に知り合い、共に過ごした時間が一番短かった曽野木。
 知り合ってから別れるまでは二年足らず、夫婦としては一年余りに過ぎないのに、ふと思い出すのは彼のことばかりだった。
 
 最後に知り合ったから?
 最期まで一緒にいたから?
 
 最初はそう思っていた。けれど、そうじゃない。
 だって、『最後に知り合った』と言っても、それも既に40年も前のこと。
 
 私が曽野木のことばかり思い出すのは、彼が唯一、私の引きとめを欲し、受け入れてくれた人だから。
 何より、私を引きとめてくれた人でもあるからだ。
 
 大切な男性(ひと)を引きとめられず、ふたりとも喪った。それでも人は生きていかなければならない。
 けれど、それからずっと、自分には人を引きとめる力などないのだと、人を引きとめたりしてはいけないのだと思っていた。もう、人を引きとめることなどしない、引きとめても止められない人に、それはただの重荷でしかないのだと。
 
『いかないで欲しい』
 
 そのたったひと言を、伝えてみること。そこからすら背を向けていた私を、彼が引きとめてくれた。
 
 『引きとめて欲しい』と、言ってくれた。
 
 私にも引きとめることが出来る人がいるということを、引きとめてみて良かったのだということを教えてくれた人。
 前の主人を喪った時には旧姓に戻した私が、曽野木の姓で人生を終えようと思ったはそのためだ。
 
 出逢う前からわかっていた別れだった。それでも。
 
 引きとめて引きとめて、半年はとても保たないと言われながらも、彼は必死に、一年余りも私の引きとめに応えてくれた。
 
 彼と過ごした、苦しくて、怖くて、幸せな二年。苦しむ姿を見れば苦しくて、今回が最後かも知れないと思うと怖くて、また笑顔で向かい合い、食事するだけで幸せだった。
 期限が見えているからこその幸せ、などと思いたくはなかった。
 曽野木もそう思っていてくれたのかはわからない。彼の態度に、少しの負い目も感じなかったか、と問われれば、それは『否』だから。
 
 でも、その気持ちも私にはわかる。
 看護婦をしていた時、たくさんの患者さんと会った。余命いくばくもない人も少なくなかった。
 自分に残された時間が少ないと知っているその人たちが、他人に与える影響をどれほど気にしていたか、見て、聞いて、知っている。
 だからこそ、それはそれとして受け取りたかった。
 
 それを知ってか知らずか、彼は私にこう言った。
『きみがどこにいても傍に行けるように』
 
 遺骨と共に海風に乗せた彼の願いは、きっと今も私の傍を巡っている。
 終の仕え先に辿り着いた私の傍を、今も。
 
 もうすぐだ。
 恐らく、もうすぐ曽野木は私を迎えに来てくれる。その時こそ、私は彼と一緒に大切な人たちを見守ることが出来るようになる。
 
 それが、私にとっての終の棲処。
 
 
 
 
 
 
 
 

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