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一夜に咲く永遠の花〔後編〕

 
 
 
 ひとりで店を切り盛りするようになった鷹征は、忙しいながらも平穏な毎日を送っていた。
 ひと月かふた月に一度は、売り上げからいくばくかの金を持って長尾夫妻を訪ねている。ふたりは「金などいらない」と言っているが、鷹征が訪ねて来る事自体は喜んでくれていた。
 

 
 いつものように夫妻の住まいを訪ねる途中、長尾はひとりの娘が数人の男に囲まれている場面に遭遇した。
 当たり前に助けに入ると、男たちの身形は怪しいものではなく、むしろエリートサラリーマンと言った様子。だからと言って、嫌がっている娘を放って見過ごす訳にも行かない。
 見た目だけで迫力満点の鷹征が間に入ると、どうも大事(おおごと)にはしたくないのか、男たちは早々に退散して行った。
「大丈夫か?」
 座り込んだ娘を助け起こす。
「……はい……ありがとうございました……」
 顔をあげた娘の顔を見、鷹征は思わず息を飲んだ。今まで見た事がないくらい綺麗な顔の娘は、どこからどう見ても『いいとこのお嬢さん』と言った空気が滲み出ている。
 送ってやる、と申し出ると、娘はビクリと反応して頭(かぶり)を振り、再度礼を告げると足早に立ち去った。
 その後ろ姿を見送り、何か腑に落ちない物を感じながらも、鷹征は長尾夫妻の家へと急いだ。
 
 鷹征が訪ねる時は、いつでも夫妻は喜んで出迎え、志津子は好物を作って振る舞ってくれた。もちろん、この日も同じで、帰り際には夫妻が育てた野菜をドッサリと土産に渡された。
 ありがたく受け取り、駅への道を歩いていた鷹征は、公園のようになっている広っぱのベンチに人影を認めて足を止めた。
(ありゃあ、さっきの……?)
 うつむいて座る細い背中は、確かに行きがけに助けた娘である。
「おい、そこのあんた……」
 呼びかけた声にビクッと反応した娘は、鷹征の顔を見ると安心した表情を浮かべた。
「おめぇさん、まだこんなところにいたのか。さっきの男たちから逃げてた風なのに……見つかっちまうぞ?直に暗くなる。送ってやるから早く帰れ」
 じっと鷹征を見上げていた娘は、『帰れ』と言ったところでうつむき、頭を振った。
「何でぇ……おめぇさん、どう見てもいい家の娘さんだろうが……」
「……帰りません……」
 『帰れない』ではなく、『帰らない』と答える。
(……まさか、家出か……?いや、到底未成年とは思えんし……おれと同じくらいか?)
 それきり黙ったままの娘に埒が明かず、とにかく駅まで行こうと促した。
 
 駅に向かう道すがら、鷹征は娘に提案した。
「……どうしても、家に戻らねぇってなら……ウチに来るか?」
 娘が驚いた顔で鷹征を見上げる。
「ただし、おれはひとり暮らしだ。それでも構わねぇ、ってんなら来い。だが、もし家に帰らねぇで、このままフラフラするようなら、有無を言わさず警察に保護してもらう。それが嫌なら家に帰る事だ」
 鷹征にしてみれば、これは賭けであった。若い、しかも見るからに育ちの良さそうな綺麗な娘を、こんなところで放り出す訳には行かない。まして、昼間男たちに絡まれているのを目撃している。
 『知らない男のひとり暮らしの家』に、身の危険を感じて自宅に戻るなら良し、それでもゴネたら警察行き──つまりは、娘にとって究極の選択を提示したのだ。
 判断を委ねられて鷹征を見つめていた娘は、だが下を向いた後、予想外の答えを返して来た。
「……家には帰りません………………警察にも行きません……」
 一瞬、返答につまる。
「……なら、おれん家に来るってのか……?」
 見上げた鷹征の目を真っ直ぐに見つめ、また下を向いた。
「………………はい………………お願いします……」
 絶句する。
(……マジか……)
 しかし、言い出した点前「あれは言葉のアヤでした」とも言えない。とにかく、少し間をおいて落ち着かせようと、ふたりは列車に乗り込んだ。
 
 家に着いた頃には、すっかり夜になっていた。中に通すと、きちんと挨拶し、靴もしゃがんで揃え、背筋を伸ばして正座する。
 途中、鷹征は何度も帰宅を促したが、娘は絶対に首を縦に振ろうとせず、理由も話そうとしなかった。困り果て、せめて名前くらい教えてくれ、と半ば懇願すると、娘は『涼花(すずか)』と名乗った。だが、苗字は名乗ろうとしない。
「おれは長尾鷹征(ながおたかゆき)だ。おめぇさん、ホンットに、おれしかいないこの家から帰る気はねぇんだな?」
 しつこく念を押すも効果はなかった。
「……仕方ねぇ……」
 鷹征は溜め息をついた。
「……腹減ってるか?」
 涼花が顔をあげる。
「……少し……」
「……よし。ちょいと待ってな」
 頷いた鷹征は台所へ立った。冷蔵庫を開け、中を確認して舌打ちする。
「……そういや、買い出しし損ねたしな……と、これでいいか……あとはオヤジたちにもらった野菜で……」
 手早く作った焼きそばを、うつむいて座ったままの涼花の前に置いた。目線が動く。
「あいにく、おめぇさんの口に合いそうなモンはないんでな……こんなんで良ければ、まあ食ってくれ」
 焼きそばを見つめたまま動かない様子に、鷹征の胸に不安が過った。
(……やっぱり焼きそばなんか食わねぇか……?)
 だが、気づかぬフリ。すると、胸の前でゆっくりと手を合わせる様子が目の端に映った。
「……いただきます……」
 ひと口食べ、また動きがとまる。鷹征の方がいちいちドキっとする。
「口に合わねぇか……?」
 訊ねても答えず、焼きそばを凝視している。実刑判決を待つような気持ちでいると、涼花はまた箸を動かし始めた。
(何とか……食えるって事か……?)
 ──と、
「香ばしくて美味しい……」
 つぶやく小さな声。鷹征は焼きそばをかき込んでいる状態で、涼花を上目遣いで凝視する。
「……こんなに真っ黒でお汁のないお蕎麦、初めて戴きました……」
 そう言って嬉しそうに笑う顔に、鷹征は思わず見惚れた。それにしても、あまりの浮世離れに苦笑いも浮かぶ。
 
 食事を終え、涼花に風呂を使わせている間に寝床を用意し、万が一、自分に何かあった時のために長尾夫妻に報告を入れた。
 夫妻は「まあ、それでいいんじゃないか」と気楽に笑い、それも自分への信頼の証なのだろうとは思っても、やはり苦笑いになる。ただ、志津子は電話を切る間際、男手に余るようならいつでも手伝いに行く、と言ってくれた。
 それだけで、心は相当に軽くなっていた。
 
 こうして奇妙な共同生活が始まった。
 世間慣れしていない涼花ではあったが、驚いた事に家事は一通り熟せた。その証拠に、鷹征の店の手伝いや食事の支度などを、慣れるにつれてしてくれるようになって行った。
 焼きそばを商品にしては、と言うのも、実は涼花の提案で、どうやら初めて食べた焼きそばがいたく気に入ったらしい。ただし、『提案』と言うにはあまりに控え目ではあったが。
 
 美味しいたこ焼きと焼きそば、どこからどう見ても美人の涼花、何より鷹征の人柄の成せる技で、店は老若男女問わずに客がひっきりなしの大盛況。
 繁盛と共に、涼花にいらないちょっかいを出す客も比例して増え、時には油断ならない輩もいたが、それが逆にふたりを近づけもした。
 平穏に。忙しいながらも幸せ、と言える日々が。
 いつしか、ふたりは夫婦同然に暮らすようになっており、そうなれば、鷹征だとて考えない訳ではなかった。──結婚する、事を。
 だが、涼花は相変わらず自分の身の上を語ろうとはせず、未だ苗字さえ名乗らない。
 鷹征にしても、傷害紛いの事件まで起こした自身の過去、涼花の育ちの良さそうなところを加味すれば、自分たちが一緒になる事は容易ではないはず、と思う。
 ならば、ただこのまま一緒にいられる時間が続く事だけを望むべき、とも思うのだ。
 少しでも長く。出来る事ならこのまま。
 
 だが、『それ』は訪れた。
 涼花が鷹征の前に現れた時と同じように、ある日、突然に。
 
 その日、涼花は行きたいところがある、と出かけていた。志津子から、『理由や行き先を言わない時は女の事情だから、男は追及するな』と厳重に言い含められていた鷹征は、特に何も訊かなかった。
 昼過ぎになり、鷹征も島田との寄り合いに出かけ、帰宅したのは夕方。既に暗くなりかけていた。
「帰ったぜ」
 声をかけても返事はなく、茶の間の灯りも消えて薄暗い。
(まだ帰ってないのか……?)
 二階にあがると、やはり部屋は暗い。湧き上がる心配を押し込めながら灯りを点ける。──と。
「……涼花……!」
 暗い部屋の片隅に、涼花がポツンと座っている。
「……帰ってたのか……灯りも点けねぇで……驚くじゃねぇか」
 鷹征の顔を一度見上げ、涼花は再びうつむいた。その様子に、鷹征は何かただならぬ物を感じる。
「……何でぇ……何かあったのか……?」
 傍にしゃがんで訊ねるも、何も答えない。
「……具合でも悪いのか?」
 顔を覗き込み、額に手を当てると、両手でその手を掴んで自分の胸に抱きしめた。
「……涼花……?」
 涼花は何も答えないまま、鷹征の胸にもたれた。何か様子がおかしい事だけは感じる。
 だが、それが何なのかはわからず、鷹征はただ縋りついて来る涼花を抱きしめた。
 
 翌日、涼花は鷹征の元から姿を消した。
 鷹征がどんなに捜しても、それきり涼花の消息が知れる事はなかった。
 

 
 長尾(ながお)と遊鷹(ゆたか)──ふたりの間に、永遠にも感じられる静寂の時が流れる。
 今、ふたりの間には、『涼花』と言う名の女の存在が在り、それが全てでさえあった。
「本当にいるのか?……涼花が……」
「ああ」
 長尾は超常的な事を絶対的に否定している訳ではない。だが、信じている訳でもない。それでも、半分疑いながらも、遊鷹の言っている事を無意識に受け入れ始めていた。『涼花』の名前を遊鷹が知っていた事によって。
「……って事は……涼花はもうこの世にはいねぇ、って事なのか……?」
「そうだ」
 それは長尾にとって、あまりに無情なひと言であった。
「……どれだけ捜したか知れねぇ……」
 うつむいた長尾が、無念を隠さずに力なくつぶやいた。遊鷹はその様子を黙って見ている。
「……涼花は何で死んだんだ……?」
 少しの間の後、遊鷹は口を開いた。
「……病気だ」
 坦々と事実だけを伝える。
「……病気……一体、いつ……」
「あんたの元を去って、半月も経ってなかった」
 その答えに、長尾が勢い良く顔をあげた。
「……半月って……じゃあ、おれと別れた時、既に病気だったってのか……?そんな様子は……一体、何の……」
 全てを知りたくて堪らなかった。長尾だとて、自分の何かに嫌気が差して出て行ってしまった、と考えなかった訳がない。だが、涼花の最後の夜の様子を考えたら、どうにもそうとは思えなかった。
 遊鷹は、ガックリとうなだれた長尾の背後に目を向けた。
「……そろそろ時間的にも空間的にも、それからこのオッサンも限界だ。もう、いい加減いいだろう?ホントに全部話すぞ」
 そう言い放ち、長尾の正面に座った。
「あんたの涼花の実家……親は、あの『マルタカグループ』の経営者だ」
「……マルタカグループ……!」
 その名を聞いた途端、長尾の目が驚きに見開かれる。
「そうだ。日本でも有数の巨大企業、マルタカグループだ」
 長尾は絶句した。育ちが良い事は予想していたが、本来なら手も届かない相手であった事は少なからず衝撃であった。
「……そんないいとこのお嬢さんだったのか……じゃあ、治療のために実家に戻ったのか……それでもダメだったって事なんだな……」
「そうじゃない。家に戻った訳じゃない」
「……何だって?……じゃあ、一体……」
 長尾にはそれ以外の理由は思い浮かばず、遊鷹の返事は意外、としか思えなかった。
「涼花は生れつき治る見込みのない病を抱えていた。何年、生きられるかわからないと宣告され、20歳を超えられたら御の字だとも言われていた」
 長尾が遊鷹の顔を凝視した。
「文字通り、本当の深窓の令嬢……箱入り娘だ。ただただひっそりと生きて、死ぬのを待つだけだった。それが奇跡的に20歳を超え、だが、今度こそもう何年も保たない、と医者に宣告された時に……」
 そこで言葉を切った遊鷹は、初めて感情らしき物を表した。
「涼花の親は、最後にひとつくらい役に立て、と言い出しやがった……」
 目を見開いたまま固まる長尾を、今度は遊鷹が見据える。
「その頃、手を結ぶ案が出ていた別のグループ企業があって、涼花の親はその御曹司に目を付けた。涼花の器量なら気に入られるだろう、と目論んだんだ。要はたらしこんで結婚に持ち込め、と……マルタカに有利に事が運ぶように。一旦、手に入れてしまえば、後は涼花が死んでも関係ないからな」
「……ちょっと待て……」
 喘ぐように言う長尾に構わず、遊鷹は更に続けた。
「涼花は初めて言いつけを拒んだ。最期くらい好きにしたいと。だから、激昂する親の目を盗んで逃げ出した。初めて外の世界にひとりで飛び出したんだ。正直、相手の男は別に悪い奴じゃなかった。特にこれと言って良くもなかったが難もない……要は普通の男で、こんな話じゃなければ、涼花も普通に結婚していたかも知れない、って男だった。だからこそ逃げた。ハッキリ言ってこの話は詐欺だ、と。こんな騙し方をして平気でいられるほど嫌な男じゃない。それでも自分の最期を差し出す男でもない、と……」
 そこまで一気に話した遊鷹が、長尾の様子を確認する。
「おい、たこ焼きオヤジ……大丈夫か?」
 呆然としながらも耳を傾けていた長尾は、魂が抜けたような風体であった。遊鷹の呼びかけで我に返る。
「……じゃあ、初めて会った時に揉めてた男たちは……」
「涼花を捜していたマルタカグループの社員だ。相手方の手前、逃げた、なんて言えねぇ。って事は公にも出来ねぇ。だから、体調不良とでも言い繕って、秘密裏に捜し出すつもり……だった。ところが一向に見つからねぇと来た。そりゃ、そうだろうさ……」
 遊鷹は少しおかしそうに長尾の顔を見た。
「まさか、ひとりでまともに外出した事もない箱入り娘が、こんなたこ焼き屋の女房みたいに暮らしてるなんざ、これっぽちも考えなかっただろうからな」
 微妙な言い回しではあったが、それは決して『たこ焼き屋』をバカにしている風でもなかった。
「……おれといるのが嫌になった訳じゃない事は……信じていいんだな……」
「あんたには申し訳ないと思いながら、だけど、死ぬ時はあんたに見届けて欲しい、と思っていたとさ」
「……ならば、何で……」
 遊鷹の返事は、長尾にとって望ましい返事であるはずだった。だが、だからこそ腑に落ちないとも言えた。
「……何で、黙っていなくなったりしたんだ……」
 握った拳をテーブルの上につき、必死で堪えながら問う。何よりも、それだけは訊かずにいられなかった。
「……自分の中に、新しい命が宿った事に気づいたからだ」
 遊鷹が何を言ったのかわからず、長尾の頭の中が真っ白になった。
「……今、何て……」
「子どもが出来たんだ。ありえないくらいに限界間近だった身体に、ありえない確率の奇跡だった。自分でも信じられず、あんたの元を去る前日、自分で確かめるために出かけた。もちろん医者じゃねぇ。医者なんか行けばアシがついちまうからな」
「じゃあ、あの日……」
「それで、そのまま姿を消すつもりが、自分の身元がわかる荷物を、ここに置いて来た事に気づいて取りに戻った。ほんのわずか、ぼんやりしているうちに、あんたが帰って来ちまった、って事だ」
 あの日の涼花の様子を思い出し、長尾は己の迂闊さと鈍感さを悔やんだ。悔やんでも悔みきれないほどに。
「……だが、ならば尚更、行っちまった理由がわからねぇ……おれが狼狽えるとでも思ったのか……?それとも、そんなに情けねぇ男とでも……そりゃあ、驚きはしたかも知れねぇし、誇れた過去がある訳でもねぇが……」
「そうじゃねぇよ」
 自己嫌悪の言葉を並べ立てる長尾に、遊鷹は一言を以って答えた。
「……あんたに、子どもの命が消える様を見せたくなかったからだ」
「……何……?」
「自分だけなら見届けて欲しいと思っても、自分と一緒に子どもの命まで同時に、あんたに失わせる事に耐えられなかったんだ」
「……そんな事……わからねぇじゃねぇか……もしかしたら……」
 遊鷹が氷のような目で長尾を一瞥した。長尾ですら怯むほどに強い視線で。
「絶対にもう無理だったんだよ!……だってよ……もう限界が自分の眼前に迫ってたんだぜ?今、この場で死んでもおかしくねぇくらいに。そりゃあ、もし自分の命と引き換えにしても、それで子どもを救えたんなら喜んでそうしただろうさ。だが、もう絶対に間に合わない、とわかってた。何をどうしたって救えねぇんだ、って」
 元の表情に戻った遊鷹が、静かに目を瞑った。
「……あんたには知らせないままの方がいい、って考えたとしても不思議じゃねぇだろ?自分がそれに耐えなきゃいけねぇんだぜ?あんたの前から、ふたり共に消えなきゃならねぇ事に……」
 遊鷹の言葉が、長尾を容赦なく刺し貫く。
「……何故こんな身体に…………どうして今…………そう思ったってさ……」
 返せる言葉は何もなかった。ただ、遊鷹の声だけが耳から脳にやって来るだけで、理解出来ているのに、まるで遠い出来事のようでさえあった。
「皮肉な話だよな……もし病気じゃなかったら、涼花はあんたと出逢う事もなかったんだ……」
 ポツリとつぶやく遊鷹から目を逸らす。
「……涼花は……成仏出来てねぇ、って事なんだな……」
「出来ねぇ、んじゃなくて、してねぇ、んだよ」
 一瞬の間。
「……どう言う意味だ?」
 答えようとしない遊鷹に、却って長尾の感情が昂ぶる。
「……何かあるんだな?……一体、何だ?何で……」
「あんたの傍にいたい、って言ったんだ!」
 叩きつけるような遊鷹の声に、長尾の方が気圧された。
「あんたに見えなくてもいい。あんたと話せなくてもいい。あんたに気づいてもらえなくていい。ただ、あんたが誰かと幸せになるのさえ見届けられたらそれでいい。そうしたら、ちゃんとあっち側に行くから、って……」
 それだけ言うと、遊鷹の表情も声もすっかり元に戻っていた。
「強制的に連れて行くのは簡単だ。だが、未練のある奴は高確率であっち側で問題を起こす。だから、出来るだけ穏便に済ませるのがセオリーだ。けど、涼花の言い分はいつ晴れるかわかんねぇ望みだ。こっちとあっちを長く繋いでいるのは危ねぇし……いや、むしろ叶ったら嫉妬に狂っておかしくなる可能性もあるじゃねぇか、って皆反対だった」
「……なら、どうして……」
 どこか迷っている風に遊鷹が黙る。
「皆、ってのが誰の事なのかは知らねぇが、本当なら涼花は有無を言わさず連れてかれるはずだったんだろ?それが何で、20年もおれの傍にいてくれたんだ……!?」
 長尾の視線を受け、遊鷹が少し下を向いた。自分の身体を見るように。
「……こいつが……『遊鷹』が頼んで来たんだ。代わりに自分が担保になるから、出来るだけでいいから、いざという時には何とでもしていいから、涼花をあんたの傍にいさせてやってくれ、って……」
 長尾が首を傾げた。
「……ちょっと待て……遊鷹ってはおめぇの事だろうが?こいつって……どう言う事だ?おめぇは遊鷹じゃねぇのか?」
 再び遊鷹が長尾の目を見、次いでその背後──涼花──を見遣る。
「……厳密に言えば遊鷹じゃねぇ。遊鷹ってのは……この器の本来の持ち主だ」
 長尾の眉間に、コイル巻きのようにシワが寄った。
「……言ってる意味がわからねぇぞ?おめぇが遊鷹じゃねぇってのは置いといて、大体、何で『遊鷹』は自分が担保になってまで、涼花の望みを叶えようとしたんだ?おかしいじゃ……」
「……涼花の中に宿った命が『遊鷹』だからだ」
 あくまで坦々と言い放つ遊鷹を見つめながら、何を言われたのかわからない、と言うように長尾の全てがとまった。
「……何だって……?」
 訳がわからなくなっている様子に、遊鷹が小さく息を吐き出す。
「……お母さんをお父さんの傍にいさせてやってくれ、って言ったんだよ。それで、私が監視と管理をするって条件で、色々限界が来るまでは許可が下りたんだ。だから、この身体のモデルは遊鷹で、中身は違う。……まあ、遊鷹の魂も中にいる事はいるけどな」
 遊鷹を見つめながら、長尾は放心状態だった。
「……バカ言うな……そんな事が……」
 そこまで言って、長尾の口は動きをとめた。思い当たってしまったのだ。言われてみれば面影がある、角度によっては確かに涼花に似ている、と。既視感を感じた理由に、今になって。
「なのに、何年経ってもあんたは変わらねぇ。新しい女の気配のケの字も出ねぇ。そうこうしてるうちに20年も経っちまって……色々、厄介な問題が出始めちまった。そろそろ、涼花の願いを叶えてやんのも限界だ。このままじゃ、清浄な涼花の存在は喰われちまう。他にもやんなきゃならねぇ事があんのに、涼花にだけ張り付いてられねぇからな」
 遊鷹の話は長尾の理解を超え過ぎていた。全く理解出来ない。出来ないが、とにかくこのままでは涼花を守る事は難しいのだ、と言う事だけはわかった。
「……おれはどうすりゃいいんだ?」
「あんたが涼花を説得しろ。酷な話だが、どっちにしろ、このままあんたの傍にいる事は不可能だ。変な奴らに喰われるよりは、あっち側に行った方がいいだろ?」
「……さっぱりわからねぇが、とにかく涼花にこれ以上傍にいてもらう事は不可能で、二者択一しかねぇ、って事なんだな……?」
「そうだ」
 長尾は、遊鷹の端的な返事に沈黙し、ややあって顔をあげた。
「……ほんの少しの間でいい……涼花の姿を見る事は……やっぱりおれには無理か……?」
 長尾の目は真剣そのものであった。しばらくの間、その目を見つめた遊鷹は、長尾の背後に向かって手を差し出した。
「最後のチャンスだ」
 長尾には見えない何かをその手が掴み、引っ張り上げるように動くと、目の前に何かが実体として現れた。眩しさに目を凝らすと、次第に輪郭がハッキリとして行く。
「……涼花……?」
 長い髪の毛、細くしなやかな肩と背。見紛うはずのない後ろ姿。
「……涼花……!」
 ゆっくりと振り返ったその顔は、間違いなく別れた時のままの涼花であった。
「夜明けまでだ。出血大サービスで実体化してやったんだ。タイムリミット忘れんなよ」
 それだけ言うと、遊鷹は扉の方に向かって行く。──と、突然、思い出したように振り返り、
「そうそう、絶対にここから出るんじゃねぇぞ?」
 そう言い残して出て行った。
 
 言葉もなく、20年ぶりに向き合う。自分を見上げる変わらない眼差しを受け、何から話して良いのかすら思いつかなかった。
「……涼花……」
 名前しか出て来ず、情けない己に苦笑いが浮かぶ。
「……声を聞かせてくれ……」
 この20年、涼花には自分の声が聞こえていたのだろう、と思うと、とにかく声を聞きたかった。
「……鷹征さん……」
 変わらぬ声に、この20年が溶けて行くような気さえする。だが、確実に歳月は経ていた。少なくとも長尾には。
「……すまなかったな……」
「……どうして謝るんですか……?……私の方が騙していたのに……」
 不思議そうな顔をする涼花に、長尾は申し訳なさそうに鼻をかいた。
「……気づいてやれなくて……」
 涼花は首を振り、また長尾の目を見つめた。涼花にしてみれば、『気づかせないようにしていた』のだから。
「……知らなかったとは言え……相当、無理させてただろ?店の手伝いやら家事やら……それに……」
 言いにくそうに口ごもる長尾を、涼花はまた不思議そうに見上げた。
「……ま、その、何だ……あの頃は、おれも若かったしな……」
 一瞬だけキョトンとした涼花が小さく笑った。その表情が愛おしく、長尾はそっと頬に触れる。
「……幸せでした……」
 答えた涼花が、頬に触れる長尾の手に自分の両手を添えた。
「……私が『本当に生きていた』のは……あなたの傍にいる時だけでした……」
 瞳が涙でいっぱいになり、声が震えている。
「……もっと、一緒に生きたかった……」
 堪え切れずにこぼれた涙を、長尾の親指が拭う。拭っても拭っても溢れ出す涙を。
「……生きてる……」
 そう言い、長尾は涼花を抱きしめた。
「……今までも、今も、そしてこれからも……おれは、おめぇと一緒に生きてる……」
 涼花が腕の中で目を閉じると、新たな涙があふれて長尾のシャツを濡らして行く。
「……すまねぇ……」
 再び謝る長尾に、涼花が腕の中から再びキョトンと見上げた。
「……すっかり歳を取って、おれは……おれだけこんなオッサンになっちまった……」
 涼花が首を傾げる。
「……いいか……?……それでも……」
 じっと目を見つめていた涼花が、長尾の言わんとしている事に気づき、花が開くように笑った。長尾が作った焼きそばを、初めて食べた時と同じ笑顔で。
 
 返事の代わりに、涼花は長尾の胸にその額を預けた。
 

 
 表に出た遊鷹は、長尾家の遥か上空にいた。
 遠くの空を、氷のような眼差しで見つめている。
「……珍しく手こずってるな……」
 つぶやく声には、大して感情はこもっていなかった。だが、しばらくすると息を吐く。
「……増えたのか……仕方ない。もう、いい。後はやる。『場』に誘導しろ」
 誰もいない空間で言い放つと、彼方の夜空をじっと睨んだ。
「……来たか……」
 視線の方向は、宙が真っ黒に変わっていた。影のように黒い何かが、まるで宙を覆い尽くす暗雲のように迫って来ている。
「……もう少し……」
 『場』の真上に到達するタイミングを計る。
「……今だ!右!」
 鋭い声に呼応したように、遊鷹の右側から何かが飛び出し、暗雲の先端に網のように絡みついた。影が苦しみもがいている。
「左!」
 そして、左からも。
「……逃さねぇよ。そのために、この地を選んだんだ」
 不敵な笑みを浮かべ、遊鷹が言い放った。
「……隙間に蔓延る者たちよ……左と右、天と地の境、0へ還れ!」
 唱え終えた途端、もがく暗雲の背後に、突然巨大な裂け目が姿を現し、一瞬で『奴ら』を飲み込む。
 次の瞬間には、暗雲も裂け目も嘘のように消え失せていた。
 
 遊鷹の頭上には、嘘のように静かな夜空が広がり、無数の星たちが今にも降りそうに瞬いている。遊鷹はゆっくりと降下すると、長尾家の屋根に静かに足を着けた。
 ただ、彼方を見つめる。時も、何もかもを忘れたように、ひたすら。やがて、その彼方に一本の光の筋が現れた。
「……夜明けか……」
 
 太陽が新たな日を連れて少しずつ姿を現す中で、遊鷹の目は涼花を見送っていた。
 

 
 薄暗い部屋に、仄かな光が差した事に長尾は気づいた。
「……夜明けか……」
 長尾がつぶやくと、腕の中にいた涼花が、うつむいたまま身を起こした。
「……行っちまうのか……」
 長尾の顔を見ずに頷く。下を向いていても、唇の震えが堪えている事を物語っていた。そっと涼花に口づけ、抱きしめる。
「……そのうち、必ずおめぇのところに……おめぇと遊鷹のところに行く……待っててくれ……」
 長尾の腕にしがみつき、涼花が頷いた。その頬を両手で包む。
「……まあ、そんときゃおれは、もっとジジイになっちまってるだろうが……勘弁してくれな」
 長尾の言葉にもう一度頷き、涙はそのままに微笑んだ。互いに手を握り合う。
「……涼花……遊鷹と待っててくれな……」
 涼花が返事のように微笑んだ瞬間、握っていた手の中からぬくもりが消えた。同時に、目の前にあった姿も。
 涼花がいた場所を見つめていた長尾がゆっくりと顔をあげ、明るくなって来た部屋の窓を開けた。今度は今日の陽が顔を現す様を見つめる。──と、人の気配。
 振り返ると、扉のところに立っていたのは遊鷹であった。
「……おめぇか……一体、どこに行ってたんだ?気を遣わせちまって悪かったな」
 もう一度、窓の外の朝陽を見つめる。
「……行っちまった……」
「外で見送った」
 寂しげにつぶやく長尾に、憎らしいほどさらりと返して来る。だが、長尾にとっては、今はそのくらいの方がありがたかった。
「……おめぇも……行っちまうのか……」
「ああ」
「……そうか……」
 何か気の利いた事を言いたいと思っても、言葉が出て来ないもどかしさ。その心を読んだとは思えなかったが、遊鷹が思わぬ事を言い出した。
「……焼きそば……」
「……あ……?」
「……食ってみたいって…………こいつが……」
 何を言われたのか理解するのに、少なくとも5秒はかかったであろう。
「……お、おう……!……よし、待ってろ!」
 ようやく、脳のど真ん中で理解した長尾が台所へと走り、冷蔵庫の中を探る。
「何とか足りるか……」
 手早く作り、後ろで見ていた遊鷹の前に皿を置いた。
「いただきます」
 目の前の焼きそばをじっと見る様子も、手を合わせて食べ始める姿も、20年前の涼花の姿と重なる。無意識に目を細めた長尾の耳に、ささやき声より小さな声が届いた。
「……うまい……」
 そのひと言にも、極限まで顔が弛みそうになる。
「……そうか……」
 噛み殺して堪え、感無量で目を閉じた。
「……おめぇも……涼花と同じようにここからフッと消えちまうのか?」
 沈黙をかき消すように訊ねると、焼きそばをかき込みながら首を振る。
「……いや……こいつの身体と魂を切り離すから……一番、適任の場所に移動する」
「……そこ……おれも行っていいか?」
 遊鷹がチラリと長尾を見た。
「……好きにしろよ……」
 ぶっきらぼうではあるが、諾。本当にダメな時はバッサリ切るであろう性格、既に長尾にもわかっていた。
「……ありがとな……」
 それに対する遊鷹からの返事はなく、知らん顔して焼きそばを食べる様子に、長尾は心の中で笑った。
 

 
 遊鷹が向かったのは、この街にある神社……と、寺であった。
 神社と寺が、まるで背中合わせのように存在しており、誰もが不思議に思いながらも、自然に受け入れている場所でもある。
 
「……ここ……?」
 長尾が意外そうにつぶやいた。
「ああ。ここは滅多にない、いい『場』なんだ」
「……場……?」
 つぶやいた疑問に遊鷹は答えず、奥を目指している。神社と寺の、どうやらちょうど真ん中──境目と思われる場所で足をとめた。
「ここだな」
 別れの時なのだ、とわかる遊鷹の言葉に、長尾の足は考えるより先に動いていた。腕を引き寄せ、抱きしめる。
 だが、予想外と言おうか、遊鷹は抵抗しなかった。
「……逢いたかった……遊鷹……おめぇに……」
 鼻の奥からも胸の奥からもこみ上げて来るものを堪える。
「……ありがとうな……逢いに来てくれて……涼花に……母さんに逢わせてくれて……」
 遊鷹の中にいると言う、『本当の遊鷹の魂』に向かって呼びかけた。ただ、届いてくれればいい、と。
 ──が、長尾はその時、遊鷹の腕が自分の背中を抱きしめたのを感じた。同時に、本当に声だったのかわからないほど微かな声も。
『…………父さん…………』
 それだけで十分であった。それが、遊鷹の魂の想いを具現化してくれただけのものである、とわかっていても、その気持ちが嬉しかった。
「……今度はおれが、いつか必ずおめぇと涼花に……母さんに逢いに行くからな……」
 
 長尾から離れた遊鷹がある一点に立つと、周囲の木々がざわめき始めた。ややあって、霊感の類は皆無の長尾にも、遊鷹の中から何かが抜けて行くのが感じられ、行ってしまった事を悟った。
「……ありがとうな……」
 既に元の遊鷹の面影はない、やはり少年とも少女ともつかない面立ちの『遊鷹』に向かってつぶやく。
「……任務だからな……」
 相変わらず素っ気ない答えに、思わず長尾の顔に笑みが浮かんだ。
「じゃあな」
 そうあっさりと踵を返した『遊鷹』が、「おっと」と何かを思い出したように振り返った。
「忘れるとこだった」
 長尾に向かって何かを放る。長尾がそれを受け止めるのを確認し、遊鷹は再び踵を返した。見れば、いつの間にか後方に背の高い男がふたり立っている。
 右側にはやや髪の長い優しげな男、左側には短髪で難しい顔をした男。
「そういや、おめぇの名は何てんだ?」
 呼びかけた長尾に、少しだけ顔を向けた『遊鷹』の唇が動いているのが見えた。
 だが、それきり、もう振り返る事はなく、手だけヒラヒラと振って、長尾に軽く一礼した男たちと去って行った。
 
 しばらく立ち尽くしていた長尾が、自分の手を開いた。手の中に残されていたのは、七宝焼きの小さなネックレス。
「……これは……」
 
 それは、いつかの祭りの夜、長尾が涼花に買ってやったものだった。
 
 
 
 
 
〜おわり〜
 
 
 
 
 
 
 
*****
 
 
 
☆最後に、実は『鷹征』の『征(ゆき)』はゆき坊さんから戴きました!『鷹』は入れるコトを決めていたので、『ゆき』をお借りして字面だけ自分で選びました!٩(。•◡•。)۶
 
ありがとうございました!
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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