〘異聞・阿修羅王29〙月翳
誰にも知られることのない地に、阿修羅たちはひっそりといた。
潜んでいるとは言え、無論、ただじっとしている訳ではなく、一族を挙げて須彌山や人界に目を配り、魔族や災に目を光らせている。見知った者と顔を合わせないよう、神出鬼没を貫いているだけなのだ。
「王……戻りましてございます」
「ご苦労だった。問題はなかったか?」
見回りから戻った羅刹(らせつ)に頷き、経過を訊ねる。
「穴と……開きかけていた歪(ひずみ)も塞いで参りました」
その言い方は、暗に何かあることを示していた。
「それは……」
言いかけた阿修羅の目に、入って来た雅楽(がら)の姿が映る。
「王……まずは何かお飲み物でも……羅刹殿、どうぞ、こちらへ……あっ……!?」
「む……!」
杯を載せた盆を持っていた雅楽は、突然の地鳴りに足を取られてよろめいた。阿修羅が支えたが、杯が盆から落ち、儚く砕け散る。
「も、申し訳ありません。粗相を……」
「杯など構わぬ。そなたは大事ないか?」
「はい」
「なれば良い」
代わりを用意するために雅楽が退室すると、阿修羅は話を差し戻した。
「何ぞ、気になることでもあったか?」
「は……実は……恐らく、この地鳴りが増え始めてからと思われまするが……各所に微細ながら亀裂や崩落なども起き始めたことは、以前にご報告申し上げた通りにございます。が、歪や穴も、それと比例して増えているように思えまする」
「ふむ……」
今までの報告と照らし合わせ、頷く。
「此度の月が四半に近うなってからは、急激に……しかも、今回は毘沙門天様が守護する北側にまで及んでおります」
「む……! 北方に……!」
毘沙門天の領域にまで異変が増えていると聞き、腕を組んだ阿修羅は考え込んだ。
「手の者を細かく散らしまするか?」
「いや……」
羅刹の提案に首を振る。
「皆を集めておけ。早々に、動くことになるやも知れぬ」
顔を下げたまま、羅刹は眼(まなこ)だけで阿修羅を見上げた。主の命(めい)の意図するところを、正確に読み取ろうとする。
「……御意……いつでも動けるよう、整えておきまする」
「うむ。頼んだぞ」
「では、今宵はこれにて……」
羅刹が退室すると、ちょうど代わりの杯を持って来た雅楽と鉢合わせた。
「羅刹殿……もう、お出でになるのですか?」
「はい。今宵はこれにて失礼致しまする」
立ち去る背を見送り、入れ替わるように室に入ると、阿修羅が宙を見上げている。
(……こんなことが、前にもあった……)
遥か昔、阿修羅に嫁いですぐのこと、舎脂が産まれる少し前のことを思い出し、その時々に交わした会話が雅楽の脳裏に甦った。重要な話の時には、いつもこの光景を見た、と。
「何ぞ、良からぬことでもございましたか?」
盆を置きながら訊ねる雅楽を、阿修羅は静かに振り返った。細まった月が、それでも背を照らしている。
「雅楽……話がある」
その声音に予感が生じた。だが、逆光に縁取られた顔(かんばせ)は陰になり、その表情は読み取れない。
「……はい……」
傍に寄って向かい合うと、雅楽は端正な面立ちを見上げた。
「もうじき月が姿を消す。故に、私は善見城(ぜんけんじょう)に発つ」
それは闘いを意味していた。この永い永い年月、幾度となく聞いて来た言葉に、もう何度目かわからぬ闘いを挑むのだと。
「はい……」
常であれば、極めて崩れることのない表情──その眼に微かな憂いが見え、雅楽の予感は強いものとなった。
「……此度で終わりだ。来たるべき時が来、私がインドラに挑むは此が最後となる」
現実となった予感に、それでも雅楽は固唾を飲んで堪えようとする。
「……ここで、そなたとこうして過ごすも、今宵が限りだ。私は、もう、ここへは戻らぬ」
人ではない身にも気が遠くなるほど永い年月、雅楽は阿修羅の傍らにいた。阿修羅王に嫁ぎ、彼女なりに精一杯尽力して来た集大成の日が、ついに訪れたのだと知る。
「はい」
毅然として答えても、やはりこみ上げてくるものは隠し切れなかった。阿修羅が気づいたかは定かでないが、手が微かに震えるのが自分でもわかる。
「……感謝している」
謝罪の言葉はなかった。であればこそ、そのたったひと言が、万の言葉より重厚な謝意でもあった。
伝えておかなければ、阿修羅は必ず口にするとわかっていたからこそ、雅楽は始めに伝えたのだ。
『自らの運命を負うは必定、罪悪は感じるに及ばず』と。
「……わたくしは、王のお心通りにお役に立てたでしょうか……わたくしの役目を、果たすことが出来たのでしょうか……?」
「そなたがいなくば、私はここまで辿り着けなかった」
答えは間髪入れずに返された。気遣いはあれど、心にもないことを口にする阿修羅ではなく、それは雅楽の知るところでもあった。
「……勿体のうございます……」
雅楽は更にこみ上げて来るものを堪え、心と共に深く深く頭(こうべ)を垂れた。そして、今、己が言うべき言葉のみを拾い上げる。
「……ここでこうして、お傍にいられて嬉しゅうございました。約束した通り、わたくしは一足先に参り、王をお待ち申し上げます」
「……ああ、待っておれ……すぐに追いつく」
言うか言わぬかの内に、阿修羅は雅楽を引き寄せた。
「後は、手筈通りに頼むぞ」
「……はい」
嫁いで幾星霜、この時、雅楽は初めて阿修羅の前で涙を流した。死闘で身を欠損して戻った折も、決して見せなかった涙を。
ひとつに重なった影は、やがて翳った月の闇に飲まれた。
*
月が完全に翳ると、阿修羅は羅刹たちを連れ、善見城に向けて発った。
見送りながら雅楽は、阿修羅と交わした会話の数々を思い返していた。
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