見出し画像

魔都に烟る外伝/終宴の始まり~part2~

 
 
 
 宴も終わった宵、ゴドー伯爵夫人となった花嫁──マーガレット・ジェーンは、与えられた豪奢な私室に驚いていた。

 とは言え、戸惑っている時間はない。マーガレット付になったメイドに促され、急いで夜着に着替える。

(……こんなに豪華な……わたくしなどには勿体ないわ……)

 仕立ての良さにも溜め息が洩れた。それは決して、豪奢さに対する喜びから来るものではなく、強いて言うなら嘆息と言う方が近い。こんな扱いをしてもらえるような立場ではないのに、と。

「奥様。旦那様がお待ちにございますので、お部屋にご案内致します」

 夜着に袖を通したまま、己の立場と処遇に考えを巡らせていたマーガレットは、メイドに声をかけられて我に返った。

「……あ、は、はい……」

 声が上ずる。伴われて歩く廊下も、つまりは屋敷自体も、実家である男爵家とは比べ物にならない広大さ。飾り気が少なくシンプルではあるものの、主の品の良さを匂わせる佇まい。

 マーガレットは式で見た『夫となる男』の姿を思い起こした。顔を合わせたことがない訳ではなかったが、言葉を交わした記憶はない。

 それもそのはずで、マーガレットは生来おとなしい性質(たち)であった。故に、宴に出ることも少なく、アシュリー子爵と見知ったのも、幼い頃からの付き合いが発展した、と言う程度。それがなければ、父である男爵の意向通りの相手に嫁ぐことになっていたはずである。

 初めて間近で見る──と言っても下を向きっぱなしだったため、横顔を何度か見上げただけの『新しい夫』は、背が高く、絵画のように整った顔立ちをしていた。垣間見ただけでは、大凡、非の打ち所はない。だが──。

(……伯爵はわたくしとの結婚をどうお思いなのだろう……? 格下の、しかも離縁したわたくしのような女となど、とても釣り合わぬとお考えなのではないかしら……? 国王陛下のご意向とは言え、ゴドー家のご当主ともなればお断りにもなれたのでは……?)

 感情の機微がわかりにくい、やや冷たい印象の横顔を思い起こすと、胸に満ちた不安で震えそうになる。いけないとわかってはいても、つい、穏やかで優しかった前夫エドワード・ライナス・アシュリー子爵と比べてしまう。そもそも、互いに愛想を尽かして離縁した訳でもないのだから、当然と言えば当然のことであった。

(……ローズは元気でいるかしら? 泣いたりしていないかしら? ライナス様を困らせたりは……)

 まだ赤子のルキア・ローズを思う。愛しい夫だけでなく、幼い(いとけない)娘をも残して来た身とすれば尚のこと、思い出すだけで涙が出そうになる。

「奥様、こちらが旦那様の私室でございます」

 再び、メイドの声で我に返った。

「旦那様。奥様をご案内致しました」

『……入れ』

 メイドがノックして呼びかけると、中からは低い声。あまりの感情のこもらなさに、心臓が掴まれたように縮こまる。

「……し、失礼します……」

 おずおずと足を踏み入れると、デスクに向かっていた『夫』が立ち上がった。背後で閉じられた扉の音が、まるで遠くの物音のようであり、また牢獄の扉が閉まる音にも聞こえる。

 震える手で夜着の裾を持ち、おずおずと淑女の礼を表したマーガレットは、『夫』と目が合わないように下を向いたままであった。ダークブラウンの鋭い目が、己の全てを見通している気配を感じて慄く。

「……お疲れではありませんか?」

「……は……?」

 だが、夜着を握りしめたままの耳に、思いもよらない言葉。驚いたマーガレットが顔を上げると、自分を見つめているダークブラウンの目に囚われそうになり、震えながらも目を逸らせなくなる。

「……あの……いえ……大丈夫です……お気遣い、ありがとうございます、伯爵……」

 やっとのことで返事をしたマーガレットだが、再び下を向いてしまった。その様子をじっと見ていたクライヴは、『妻』を静かに椅子へ促す。

「……レ……」

 『レディ・マーガレット』と呼びかけようとしたはずの、クライヴの言葉が止まった。下を向いていたマーガレットは、『夫』に視線を向けるべく葛藤している。

「……マーガレット……」

 名を呼ばれ、さすがにマーガレットは顔を上げた。まともに目を合わせ、夜着を掴む指に力がこもる。

「……夫婦となった今、もうレディ・マーガレットではおかしいでしょうから、これからはマーガレット、とお呼びします。貴女も私のことを“伯爵”などと呼ばず、名前で呼んでください」

 『夫婦となった』と言いながらも、『夫』の言葉は他人行儀なほど丁寧なものであった。マーガレットにはそれが彼なりの気遣いに感じられ、緊張し切っていた心持ちがやや解れる。

「……はい……あの……どちらのお名前でお呼びすれば……」

「貴女が呼びやすい方で構いませんよ。……クライヴでも、カーマインでも……」

 その返事に、マーガレットは記憶の引き出しを引っくり返した。他の人間が彼を何と呼んでいたのか、を。もちろん、ほとんどが『伯爵』と呼んでいた。だが、数人の知人らしき男が『カーマイン』と呼んでいたことを思い起こす。そして、執事のフレイザーと言ったか……彼もひと気の少ないところでは『カーマイン様』と呼んでいた、と。

(……妻として、敢えて他の人とは違う呼び方をした方がいいのかしら……?)

 マーガレットは迷った。だが、人前でそんなことをすれば、クライヴに気を寄せていた女性陣から、いらぬ反感を買うような気もする。何と言っても、彼は若く見栄えも良い『伯爵』なのだ。狙っていた女は数知れないと予想し、右へ倣え的に『カーマイン』と呼ぶことにする。

「……はい……カーマイン様……」

 クライヴは静かに頷いた。

「では、細かいことは明日にでもご説明致します。今宵はゆっくりお休みください」

「……え……」

 そう言って立ち上がった『夫』を、マーガレットは驚いて見上げる。

「……どうしました……?」

 呆気にとられているマーガレットを、クライヴが不思議そうに見つめた。不思議そうに、と言っても、他の人間の表情のように変化している訳ではないが。

「……いえ……」

「マーガレット? 何か、私にお訊きになりたいことでも?」

 『夫』の様子に、マーガレットはこのまま与えられた私室に戻って休め、と言われているのだと確信した。この部屋に呼ばれたのは、本当に案内と挨拶だけのためだったのだ、と。

「……あ、あの……」

 マーガレットは困惑を隠せなかった。いくら双方共に望んだ婚姻でなかったとは言え──。

「……マーガレット……?」

 夜着を握りしめ、言いにくそうに口ごもるマーガレットに、クライヴが椅子に腰を下ろして話を聞く姿勢を見せた。

「……あの……わたくしは……」

「……うん……?」

 何と言えば良いのか──さすがに直球では言えず言葉が出て来ない。

「…………でございますよね……?」

「……今、何と……?」

 肝心の用件のところが聞き取れずにクライヴが訊き返すと、マーガレットは忽ち下を向いてしまった。覗き込むクライヴに、夜着を握る指先を震わせる。

「……わたくしは……本日より貴方様の……妻、でございますよね……?」

 ようやっと絞り出した返事に、クライヴの方が意味を探しあぐねた。だが、言いにくそうな『妻』の様子に、彼女が言わんとする意味を理解し小さく頷く。

「……そう言うことでしたら、貴女の方こそお気遣いは無用ですよ、マーガレット」

 予想外の返事にマーガレットは驚いた。思わず凝視したダークブラウンの目は、何の感慨もなく見返している。

「……貴女が“妻”としての“責務”を果たさんとしていることは理解しました。しかし、無理なさる必要はありません。まだ間もないのですから……」

「……む、無理などしておりません……わたくしは……」

 『間もない』とは、前夫アシュリーとの離縁を指していることは明らかであった。素直に取れば慮る心遣いであるとも取れるが、別の理由を含んでいるようにも感じられる。これがもし前夫であったなら、マーガレットは悩んだりせずに純粋に思いやりとして受け取っていたのであるが。

 うまく言葉に出来ない己が歯がゆく、またもや下を向いてしまった『妻』に、クライヴが小さく溜め息をついた。

「……無理してないだなどと……そのように震えて何を言っているのです。強がりはやめて、とにかく今宵はゆっくりとお休みなさい」

 話を終わらせようとする気配に、マーガレットが慌てて顔を上げる。静かに立ち上がり、デスクに戻ろうとする『夫』の背中を追い、咄嗟に袖口を掴んだ。

「……マーガレット……!?」

 予想外の行動に驚き、俯いたまま腕にしがみつく『妻』を見下ろす。

「…………くしでは…………すか……?」

「…………?」

 クライヴはマーガレットの方に身体を捻った。『妻』が何を言わんとしているのかを確認するために。

「……わたくしではご不満でございますか……?」

「……? ……何を言っているのです……?」

「……わたくしなどでは……ほんの少しもそのようなお気持ちにはなれないのですか……!」

 しがみついたまま、マーガレットは必死にそのひと言を絞り出した。黙って見下ろすクライヴの腕に、袖を掴む指先から震えが伝わって来る。

 ややして、その指をそっとほどいたクライヴは、『妻』と間近で向き合った。袖を離した手は、今度は己の胸の前で組まれ、やはり微かに震えている。

「……不満も何も、貴女が私のことをまだ何も知らぬように、私も貴女のことを何も知らないのですよ」

 クライヴとしては最大限、『普通』の声音を以ての返答ではあった。だが、マーガレットにとっての自分は、前夫との比較対照にはなり得ないこともわかってはいた。

「……我々の婚儀の目的を考えれば、貴女は人前で私の妻としての立ち居振舞いをしてさえくれれば良い……もちろん、私も然り。それらを積み重ねた上での信頼と相互理解……そうではありませんか? それを全て素通りした上で、本当に義務だけの関係で良いと?」

 マーガレットは、クライヴの言わんとすることを理解はしていた。義務と責任、何より邪な欲望だけに駆られて振る舞う男に比べれば、例えようもなく理性的であると。情は感じられなくとも、粗末に扱われているようにも思えない。だが、マーガレットには、そのまま引き下がれない理由があった。それが例え、彼女が望んだものではなかったにせよ。

「……マーガレット?」

「……お……ぎを……なければ……」

 完全に下を向いた口から洩れる微かな言葉を、クライヴの耳は確かに聞き取った。それによって、マーガレットが何を憂いているのか、その全てに得心が行く。

「……男爵に……お父上に言われたのですか?」

 俯いたままでいたマーガレットが、ハッとクライヴを見上げた。

「……本来なら、後継ぎは重要な問題でしょうが、貴女が真に望んでいるとは思えない。そもそも必ず授かるとも限らないのに、そのためだけに無理やり結婚させられた男と褥を共にするなど……」

「……む、無理やりなどでは……」

 唇を噛んで目を逸らす様子を見れば、どう言い繕っても隠し切れているものではない。さすがのクライヴも本格的な嘆息を洩らした。

(……本当に普通の娘御ではないか。父親ともあろう者が己の策謀のために、よりにもよって私のような男の元に遣わすなど……この娘に出来ようはずもなかろうに……)

 しかし、とクライヴは思う。マーガレットが父にこのようなことを言い含められ、承諾せざるを得なかった理由は二択しかない。それがどちらであるにせよ、クライヴはその点に於いてマーガレットと自分の利害が一致していると確信した。ならば、と極論が頭をもたげる。

(……『提案』してみるか……? ……ある意味、最初に言わなければフェアではあるまい……)

 だが、そう考えた時、マーガレットの思い詰めた声音が思考を引き留めた。

「……そのように理由をお付けになってまで避けようとなさるのは……やはりわたくしでは……」

 そのひと言で、クライヴは『提案』を持ち越しせざるを得なくなった。今の状態の『妻』に提案しても、冷静に考えることも、まして受け入れることなど出来まいと判断したためである。

「……貴女を疎んじているだとか、魅力がないなどと言うことではありません。貴女は男の目から見て十分過ぎる程に美しい……恐らくは女性から見ても、です」

 クライヴはそう答え、青く鮮やかな大きな瞳、淡い金色の髪、とても子どもを産んだとは思えない、少女のように華奢な肢体の『妻』を見下ろした。ただ、客観的な意見ではあっても、クライヴがマーガレットに惹かれているか、と問われれば「否」としか言いようがない。何故ならクライヴは、女性や芸術に限らず、本当の意味の主観で『美しい』と感じたことがなかった。

「……では、何故……」

「……ならば、ハッキリと言いましょう」

 必死で食い下がるマーガレットに、クライヴが試みたのはやや控え目な方の『極論』。

「……全く興味がない、と言う訳ではありませんが、私は女性に惹かれたことがないのですよ。……いや、女性に限らず、全ての『他』に興味がない……貴女の魅力がどうこうと言う問題ではないのです」

 驚いたマーガレットが、全く感情の色がない『夫』の顔を見上げた。

「……肉体的な悦びまで皆無とは言いませんが、精神的な喜びを感じたことはないのです」

 目を見開いて呆然としている『妻』に坦々と引導渡すと、青い瞳がみるみるうちに湿度を帯びて行く。

「……ならば……どうしても……わたくし……無理なのですか……お役目を果たすこと……貴方様のお情けを賜ることは……」

 震えながら俯き、涙を溢す『妻』の姿に、クライヴは天を仰いだ。この純粋無垢な『妻』は、どうあっても父の意向に逆らうことなど出来ないのだと悟る。

(……罪なことを……)

 諦めの境地に達し、クライヴは涙にくれる『妻』を再び見下ろした。

「……もう一度だけ、訊きます……」

 震える肩が一瞬止まる。嗚咽の声と共に。

「……本当に……」

 クライヴがそう言いながら僅かに動くと、それにすら怯えた気配をかもす『妻』に苦笑する。

「……良いのですね……?」

 後戻りは出来ないところまで来てしまった、と言う警告を、マーガレットは堪え切れない震えの内に悟った。

(……この場は仕方あるまいな……)

 そっと手を伸ばし、小さな顎を掬い上げる。未だ震えの止まらぬ『妻』の目を見つめると、返事の代わりに睫毛が伏せられた。ふっと小さく息を吐き出したクライヴが、長身を折り曲げるように顔を近づける。

 蝋燭の火が揺れる中で、やがて二つの影が一つに重なった。
 
 
 
 
 
~つづく~









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?