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天涯の果てまで〔後編〕〜かりやど番外編〜

 
 
 
 1960年代・東京──。
 その頃、副島(そえじま)は有名大学に入学し、学生生活を謳歌していた。教授の勧めにより、ある講演会に参加する学生代表のひとりに選ばれたのは、二十歳になる直前であった。
 
「今度の講演会の来賓には、あの松宮財閥のご当主が参列されるのだ。良いスピーチを行なえば、お目に留まる事になるだろう」
「……はあ……」
 やる気のない副島の返事に、教授は眉をしかめる。
「おいおい、本気でやってくれないと困るぞ。推薦した私の立場もあるし、この大学の評判にも関わる。何より、松宮のご当主のご機嫌を損ねたりすればえらいことだ」
 正直、副島は大して興味がなかった。講演会にも、松宮財閥の当主にも、体面を気にする教授にも。
(……面倒だな……)
 とは言え、教授には公私共にそれなりに世話になっており、その事を考えればあまり無下にする訳にも行かない。
「……わかっています」
 とりあえずの返事をし、教授の部屋を後にした。
(……松宮家が何だって言うんだ。財閥だか何だか知らないが、そんな事で……)
 溜め息をつく。言いたい事は山程あった。だが、やらなければならない状況である事はわかっている。
(とにかく、練るか……)
 それが運命の出逢いとなるなど考えもせずに。
 
 講演会の当日、講堂に集まった人数は予想外の多さであった。
 さすがの副島もやや緊張する。それでも、生来の肝の座り方は伊達ではなかった。むしろ、他の学生たちの尋常ではないアガり方に、己の緊張はほぐれて行く気さえする。
 来賓席を見れば錚々たる顔ぶれ。一番上座に座しているのが松宮財閥の当主だと聞かされ、副島は遠目に様子を窺った。
(……結構、若い……?)
 年輪を感じさせる諸氏の中にあって、松宮財閥の当主と言う男は若く爽やかに見える。しかし、遠目でもわかるほどにその面差しは理知的であった。
「……すごい……」
 その佇まいに何かを感じ、思わず口から洩れたのはそのひと言。目を離せない雰囲気に飲まれそうになっていると、ふと松宮昇蔵(しょうぞう)がこちらを向き、まともに副島と目が合った──気がした。
(あの人に認められたい)
 瞬間的に脳裏を駆け抜けた願望──それは直感のようなものでしかない。
 表情を引き締めた副島は、深呼吸をして壇上に上がった。
 
 他を圧倒する出来のスピーチを終わらせた副島に、場内からは割れんばかりの拍手が湧き上がった。袖に引いた副島を、教授が満足気な笑顔で迎える。
「素晴らしかった、副島くん!」
「……ありがとうございます」
 集中し過ぎて半トランス状態に陥っていたのか、副島は上の空で礼を言った。教授の事など眼中になく、心此処に在らずの体。その後も、教授が何やら言っている事はわかったが、内容は全く耳に入って来なかった。他の人間の言葉も然り。
 ただ、この講演会で副島の評価は確実に上がり、他学部の教授たちの覚えが高まったのは間違いなかった。
 
 その数日後、教授室に呼ばれた副島は、思わぬ言葉に驚いた。次のゼミの話かと思いきや、全く別の話だったのだ。
「副島くん、驚くなよ!何と松宮のご当主が、きみの先日のスピーチを甚くお気に召し、ぜひ屋敷に招待してゆっくり話をしてみたいと仰せらしいぞ!」
「……え……」
「もちろん、お受けするだろう?」
 興奮して話す教授を尻目に、副島の脳裏にはあの時の事が鮮やかに浮かび上がった。そう──松宮昇蔵と目が合った時の事が。
(会いたい……!会って話してみたい……!)
 高まる気持ちを抑えて答える。
「……はい。よろしくお願いします」

 その日、招待された学生は副島をふくめて三人。松宮家の車が大学まで迎えに来る事になっていた。
 テレビでしか見た事がないような高級車に、三人は緊張した面持ちで乗り込む。
「……おい、すごい車だな」
「そりゃあ、あの松宮財閥だもんな」
 隣の二人が興奮した様子で、だが小声ではしゃいでいるのを尻目に、副島は窓の外に思いを馳せた。
(……もう一度、あの人に会える)
 そう思うと、深い眼差しの松宮昇蔵に、一瞬で心を掴まれていた事を自覚せざるを得ない。
「もうじき到着致します」
 運転手からの声かけで我に返ると、はしゃいでいた二人も背を正した。大きな門を通ると、広い敷地内の奥に松宮邸が見えて来る。
「……すげぇ……」
 玄関前に車が停まると、立っていた年輩の女性が扉の中に声をかけ、中から数人の男女が姿を現した。
(……あっ……!)
 副島は言葉を飲み込んだ。
「お、おい、ご当主じゃないか、あれ……」
 二人が囁き合うように、出て来た家人の中に松宮昇蔵その人の姿を認めたからである。
「どうぞ」
 ドアを開けた運転手に促され、当主自らの出迎えに恐縮した三人が恐る恐る降り立った。
「よく来てくださった。こちらは家内の冴子(さえこ)。家内共々、楽しみに待っておりましたよ」
 笑顔の松宮氏が言い、斜め後ろに立っている着物姿の女性を隣に誘う。
「ようこそお出でくださいました。松宮の家内でございます。主人から皆さんのお話を伺い、楽しみにしておりました」
 その瞬間、副島の心の時が止まった。


 
 かのひとに
 とどむ心の
 さびしきを
 天に放てず
 如何にいだきて

 松宮昇蔵と同年代であろう女性は、当然副島より二十歳は歳上と思われた。それにしても、目を引く美しさには違いなく、若い男が心奪われてもおかしくはない。
「旦那様……こんなところで立ち話もナンですから中へ……」
 後方に控えていた女中と思しき女性が促すと、昇蔵と冴子が同時に頷いた。扉の左右に寄ったふたりに誘われた三人は、応接室に通された途端、あまりの立派さに足が止まる。
「そんなに緊張なさらず……どうぞお楽に」
 カチコチになる三人を、女中頭と思しき着物姿の老婦人がソファへと促した。茶を置いて出て行こうとする老婦人と入れ替わるように、松宮夫妻と十歳には満たないであろう男の子が姿を現し、慌てて立ち上がった三人に笑いかける。
「息子の陽一郎(よういちろう)です」
 目の奥に知性の光を輝かせた利発そうな少年を、昇蔵が嬉しそうに紹介した。
「お父様の大切なお客様ですよ」
 冴子が横から少年を促すと、笑顔を浮かべてペコリとお辞儀をする。
「はじめまして。松宮陽一郎です」
 そう言ってから三人の顔をひとりひとり見つめた。幼いながらもその目は、まさに上に立つ者のそれであり、見つめられた三人の背筋が伸びる。だが副島は、その子の視線がしばらくの間、最後に見た自分に留まっていた事を感じた。
「もういいぞ。あちらに行ってなさい」
 昇蔵の言葉に、陽一郎がねだるように顔を見上げる。
「お父さん。ぼくもここにいてはいけませんか?」
 むしろ驚いたのは大人たちの方で、昇蔵と冴子だけでなく、副島も少年を凝視した。
「ここから先は大人の話だ。お前には面白い話ではないぞ?」
「そうですよ、陽一郎。お父様たちのお話を邪魔してはいけません」
「ぼく、ちゃんとおとなしく聞いてます。お父さんたちの話を聞いていたいんです」
 諭す両親に訴える。ふたりは困ったように顔を見合わせた。
「……ご当主。差し出がましいようですが、ご子息もこんなに仰っているのですから……」
 見かねた副島が助け舟を出すと、陽一郎の顔がパっと輝き、期待を込めた眼差しで父親と副島を交互に見やる。
「子どもが一緒でも構わないですか?」
 問う昇蔵に三人は同時に頷いた。
「……ふむ……客人がそう仰ってくださるなら……」
 昇蔵が同意しかける。
「ならば陽一郎、決して邪魔をしてはなりませんよ」
「はい!」
 言い含める母親に、少年は嬉しそうに答えてちょこんと座った。そこからは副島にとって有意義な談義となり、昇蔵が思った通りの人物であった事が、後々の関係をも決定づける事となる。
 途中、家庭教師が来たと陽一郎が名残惜しそうに退室した後も、時間を忘れて話し込んだ。
 
「息子がまた会いたいと言っております。子どもの相手など退屈でしょうが、もし宜しければ、ご都合の良い時にでもいらして欲しい……もちろん、私も望んでおります」
 夕食を共にした帰り際、他の二人の隙を見計らった昇蔵が、副島にそっと耳打ちする。
「……えっ……」
 不意の申し出に戸惑う副島の目の端を、昇蔵の後ろで静かに微笑む冴子の姿が掠めた。何かが胸に湧き上がって来る。それが何なのかもわからぬ内に、副島は声を発していた。
「……はい……喜んで」
 
 自分でも知らぬ間に、追い求める道に足を踏み出していた。

 暇(いとま)さえあれば松宮邸を訪ねるようになった副島は、陽一郎の利発さを伸ばすに一役も二役も買うことになった。
 同時に、聡明な当主である昇蔵への敬意も増す。何より、逢えば逢う程に、冴子への思慕の念も計り知れないくらいに膨れ上がっていた。それでも、姿を垣間見ることさえ出来れば心は満たされた。
 副島はある意味、己の冴子への気持ちを正しく理解していた。決して単体では成り立たない気持ちである事──つまり、自分が求めてやまないのは『昇蔵の存在あっての冴子』であると言う事を。決して届かぬ存在であるからこそ、生まれた気持ちである、と。
 もし、昇蔵と冴子が互いを大切に思っている節がなければ、むしろ副島はここまで思い入れはしなかった。そして、もし万が一にも昇蔵がいなくなりでもすれば、己の気持ちを誤ったまま、冴子に思いを告げていたであろう。
 
 それほどに副島は二人を敬愛し、故に冴子からの相談を受けた時、どんな手段を用いる事も厭わなかった。後に最大の後悔の種になる、などと思いもせずに。

「……あの時、私は行ってはならない方向へ舵を取ってしまった。松宮家の事を考えれば、冴子様の相談をそのまま飲むべきではなかった。もっと適切な意見を提案出来たはずだったのに……」
「……先生……」
 心底、後悔している副島の様子を、優一は初めて見た。ほとんど感情を顕にせず、冷静に、且つ坦々と物事を進めて行く──それが優一の副島に対する印象だった。
「きちんと説明さえすれば、きみのお父さんとお母さんは、例え昇蔵氏が約束を違えて行なった事であるにしろ、目の前の小さな生命を、しかも自分たちの血を分けた大切な生命を、決して意地や反発で否定する程わからぬ人物ではなかったのだから……」
 祖父母や副島の一連の行動に、納得した訳でも何でもなかった。だが話を聞くに連れ、優一にもひとつだけわかった事があった。
「……私の最大の失敗だ。目先に囚われた私の……」
 一つだけ、否定し得ない事実が。
「……しかし、もし松宮家を出ていなければ、私は今ここにはいなかった……」
 副島の言葉を遮るように、優一がポツリと呟く。
「もし松宮家の長子として育っていたら、私はあの時に、松宮の両親と、そして妹と共に死んでいた……違いますか?」
 優一の顔を見つめ、副島は目を伏せた。同時にそれは、優一の言う事を肯定している証でもあった。だが、ややしてゆっくりと目を上げた副島は、
「……きみの妹君は無事だ……」
 静かに、だが、衝撃的な言葉を告げた。さしもの優一も驚きのあまり言葉を失い、母・沙代も息を詰めて副島を凝視する。
「……きみの妹君は生きている」
 呆然としたままの優一の唇が、確認を求めるように微かに動く。
「……生きて……」
 言われたことを反芻するように唱え、信じられないと言うように首を左右に振った。
「……いや、まさか……あの事件の時、確か松宮家の令嬢の……妹の遺体も発見されたと……」
 瞬きの止まった優一の目を真っ直ぐに見つめ、副島の口が微かに動く。それは彼にしては珍しく、どのように言っていいのかわからない風でもあった。
「……発見された遺体は別人のものだ。妹君は間違いなく生きている」
「……副島さん……それは本当なのですか?」
 優一よりも先に反応したのは沙代だった。副島はゆっくりと視線を沙代に移して小さく頷く。
「本当です」
「……どこにいるんですか? ……妹は……先生はご存知なんですね?」
 我慢し切れない様子を顕にし、優一が身を乗り出して訊ねた。優一でさえ、やはり『会いたい』『会ってみたい』と言う気持ちがない訳ではなかった。だが、副島の答えはさらに予想外のものであった。
「……きみは既に妹君と会っている」
 何を言われたのかすら理解出来ず、優一の動きが再び止まる。
「……え……?」
 その場の空気も時も、全て止まったかのような空間。
「……会って……」
「そうだ。そして、きみの従弟も生きていた」
「……従弟……緒方グループの……?」
 だが、そこで一番気になったのは副島の言い回しであった。『過去形』である事に。
「そうだ。緒方昇吾くん、と言ったか……行方不明とされていた彼も……」
「……生きていたと言うのは……それは……彼は今は生きていない、と言う事なのですか……?」
「……そうだ……」
 重い沈黙の後、副島は短く答えた。妹の他には唯一の血縁者であるはずの従弟は、既にこの世にないと言う事実を。
「……妹は……」
 副島は、やや俯いた。その様子に、優一の胸の中を嫌な予感が駆け抜ける。
「……生きていると仰いましたよね? ……妹は……」
「……きみの妹君は、夏川美薗(なつかわみその)、と名乗っていた女性だ……」
「……夏……!」
 突然、冷水を浴びせられたような衝撃であった。
「……彼女が……」
 『夏川美薗』と名乗った美しい女の姿が脳裏を駆け巡る。ひと目で心惹かれ、彼女の事務所で自分が強引に抱こうとした時の事も。
(……あの時、入った邪魔は……既(すんで)の所で留めてくれた天の采配だった、と言う事か……。もしや、この祖母と言う人が留めてくれたのだろうか……)
 そう思い至った時、祖母の写真に対する不思議な既視感の謎が解けた。彼女は祖母に似ているのだ、と。
 そして、『美薗を手に入れたい』と望んだのは副島も同じであった事、その望みが叶うはずだった晩の事も。
 何よりも、思いがけず早く戻った副島が、優一に投げかけた言葉──。
『あの娘……未来に於いてもお前に添わせるのは無理になりそうだ……すまん……』
 その本当の意味が解けて行くのを感じた。ならば──。
「……松宮邸で発見された少女の遺体は一体……」
 当たり前の質問に、副島の目は暗い翳りを帯びた。それは優一も沙代も息を飲む程の暗さであり、他の人間と秤にかけても見た事がなかった。
「……私の娘だ……」
 優一は、その返答に驚愕した。思わずテーブルに手をつくと、置かれていた湯呑みがコロコロと転がる。
「……先生の……それが一体、何故、松宮家の令嬢として……」
「……きみと息子の掏り替えをした数年後、本当の小半百合子は長年の苦労が祟ったのか亡くなった。その頃、公私ともに激務だった私を精神的に支えてくれていたのは彼女だけだった」
 副島は腕を組み、そして口を開いた。
 小半百合子を喪い、もちろんそれまで通り坦々と責務を熟していても、少しずつ心は渇いて行く。古くなった漆喰が朽ちるように。そこにやわらかい湯を流してくれたのが、後に『美薗』の母になる『西野早苗』であった。
「彼女は子どもを授かった事に気づくと、私の前から黙って姿を消してしまったようだ。私が子どもの事を知ったのも……早苗が亡くなったことや美薗の居場所を知ったのも、『夏川美薗』と出会ってからの事だった……全て手遅れだったのだ」
「……では、はじめは……」
「そうだ。最初は本気で彼女を手に入れるつもりでいた。だが、早苗の事を知り、もしかして娘の『美薗』ではないかと思ったのだ。残念ながら違った訳だが、その代わりに……いや、それ以上の事実が紐解かれた。娘は松宮家が運営する施設で令嬢と知り合い、何かの手違いで身代わりとなって死んでしまったのだ……」
「……先生……」
 項垂れる副島に、優一は言葉を見つけられなかった。
「それもこれも全て、私の行状に対する報いなのだろうな……」
 もちろん、その『行状』には、政治家として行なって来た、決して清廉潔白とは言い切れない手段をも含んでいる。だが、決してそれだけではなく、一番の痼は自ら掏り替えを提案した、と言う事実を指していた。
「……黒沼の件が完全に落ち着いたら、私は引退する」
「……先生……!」
「あとはきみに任せる。きみにはもうその力が十分にあるのだから」
「……そんな……! 私はまだ……!」
 普段は自信に満ちている優一でも、いきなり副島の代わりとなる事には不安があった。まだ学びたい事も山ほどある。
 だが、副島は引かなかった。
 それは、副島にはわかっている事があったからに他ならない。即ち、自分の心を囚えて離さない松宮家直系の不思議な力──抗えないそれを、間違いないなく優一も兼ね備えているのだ、と言う事実である。
「手助けはいくらでも出来る……これからも。それに、きみにはこれ以上ない、表立った後援者を用意してある。いつか、この日が来る事は、わかっていたのだから……」
 そう言って、副島は優一の目を真っ直ぐに見つめ直した。それは秘書になって十年足らず、いつも眺めて追いかけて来た眼差しであった。
 
 優一にとっては副島こそが目標であり、天の果て──その果てまで追いかけても追いつきたい相手であったのだ。

 しばらく後、副島の紹介により、優一にある令嬢との見合い話が持ち込まれる。
 彼がそれを承諾したのは翌日の事であった。
 
 
 
 
 
〜終〜
 
 
 
 
 
 
 

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