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里伽子さんのツン☆テケ日記〔9〕

 
 
 
 やっと、金曜日になった。

 昨日の夜は、なかなか眠れない上に、課長へ何をどう伝えるべきか悩んだ。悩んだワリに結論は出ない。眠いし、どうしようか悩むし、半分、意識不明瞭みたいな状態で出社。でも、たぶん、傍目にはいつもと変わらない能面顔。

 朝が早い米州部・欧州部は、当たり前に既にフル回転。特に米州部は、課長が出張中の処理に追われているみたいだ。課長は昨夜もかなり遅かったみたいなのに、そんな様子を微塵も感じさせない。

 勝てないのわかっていても、とにかく私もやらなければ。気合を入れて臨む。

 昼休み、食事を終えて化粧を直していると、課長からメールが入った。同じ部屋にいるのに、今日は何だか話すタイミングがないと思っていたけど、それは課長も同じだったらしい。

『おつかれ。今夜のことだけど、少し遅くなるかも知れないから、退社できるタイミングで連絡する。すまないが、待っていて欲しい』

 ……忙しそうだもんねぇ。でも、それでも『取りやめ』って選択肢は課長の中にはないらしい。これが営業課長の底力ってヤツなんだろうか。とりあえず返事しとかなくちゃ。

『おつかれさまです。わかりました。お待ちしてますね』

 ……私って、本当に用件だけ。

 ちなみに私の中では、相手からギブアップの意思表示がないのに、『ムリしないでください』つまり『今日はやめてもいいですよ』とかって先回りの選択肢はないのだ。

 代わりにと言ってはナンだけど、向こうが『ごめんなさい。仕事で今日はどうしてもムリです』って言って来たら、そこはグダグダ言わずに一気に引いておくけどね。

 休憩室でコーヒーを買って部屋に戻ると、既にお昼から戻ったらしい課長はものすごい勢いで仕事を片づけていた。

(あ~久しぶりに見たなぁ~……あの顔)

 よし、私もとにかく終わらせなくては。

 夜、一足先に仕事を上げて退室した私は、その時になって、課長に借りた服を家に忘れて来たことに気づく。朝、ちゃんと袋に入れて準備したのに、だ。週末ボンヤリ度、ますます絶好調で困ってしまう。

 取りに戻るには少しキツいだろうか。またの機会でも大丈夫かな。……迷う。

 もしも課長が送ってくれたら、でいいか……とか思ってみたり。別に送ってもらうことを期待しているワケでは全くない。ないんだけど、でも。

 今までも何度か自分で帰ろうと試みて、一切!一度も!実行させてもらえたためしがないのだ。電車であろうと早い時間であろうと、課長は必ず家の前まで送ってくれる。ほぼタクシーだけど。

 ま、いっか、と休憩室でのんびり待ってることにした。

 立ち昇るコーヒーの湯気をじっと眺めていると、いつも思い出さなくていいことばかり思い出してしまう。もう20年も前のことや、ここに入社してからのこと。私はいったい、どこに向かっているんだろう。どこに行きたいんだろう。

 どれくらい時間が経ったのか。ふと、人の気配を感じて視線を上げると、入り口の陰に誰かいる。

「片桐課長?」

 呼びかけると、課長が硬直が解けたようなぎこちない動きで姿を見せた。

「そんなところに黙って立っていらっしゃるからびっくりしました。お仕事、一段落つかれたんですか?」

「……あ、ああ、遅くなってすまない。今、ちょうど連絡しようと思っていたところだ」

 携帯電話を握り締めた課長が、まだぎこちなさの途中、みたいな、珍しく躊躇ったような口調で答える。私は「ちょっと待ってくださいね」と言いながら、カップに残っているコーヒーを捨ててゴミ箱に放り込んだ。

 入り口の方に歩いて行くと、課長が真っ直ぐに私を見ている。何か……ヘンな歩き方と言うか動きをしているのだろうか、私……。

 廊下を並んで歩いていると、「予定を立てられなくてすまない」みたいなことを課長が心底、申し訳なさそうに言って来た。私としては、別にいつもそんなにキッチリしてくれなくていいのに、って感じなんだけど、男性にとっては重要ポイントなんだろうか?

 ……って、私が気にしなさすぎるの!?自爆!

 そうか。これが瑠衣が言ってた『大事にされてるか、されてないか』バロメーターなワケね。なるほど。でも、やっぱり私にはよくわからないからいいや。そんなものなくても、粗末な扱いを受けてるようには感じないし、うん。

 社屋を出て、少し歩いたところにあるイタリアンレストランに入った。カジュアルな感じのお店で、私も友萌や瑠衣とも何度か来たことがあるけど、料理はかなり美味しい。

 メニューを眺めるのは相変わらず楽しんだけど、今日はアラカルト料理で目についたものを一気に決める。本来、私はこーゆうタイプ。今、考えると、最初の食事の時、何であんなに迷ったのかしらねぇ~私。

 課長と他愛もない話をしながら、どういう風に、どんなタイミングで、今、私が一番話したい話題を出すべきか、まだ迷っていた。昨日の夜、あれだけ考えたワリに結論は出ていない。だから、寝不足でチョーゼツ眠いはずなんだけど、何故か意外と意識はクリアだ。……が。

「今井さん。もしかして具合悪い?」

 突然、課長に訊かれてビックリする。え、眠そうとかじゃなくて具合悪そうに見えるの、私?そりゃ、まずい。具合は全く悪くない。食欲も絶好調だ。

 だけども、時々、課長が心配そうに私の様子を窺っているような気がする。よほど私がダルそうに見えるのか……自分では自覚がないだけに対処のしようがない。

(う~ん。まだ話も頭の中でまとまってないし……別の機会にしようかな)

 早くスッキリしたい気持ちはあるものの、うまく伝えられる自信がないだけに消極的になって来た。だって、どうせなら、ちゃんと正しい気持ち、を伝えたいし訊きたい。

 そんな風に迷っていると、まだかなり早い時間に課長の方が切り出して来た。

「今井さん。今日はもう帰ろう」

「あ、はい」

 課長にしては珍しい時間帯に言い出して来たな、なんて思っていると、

「……すまない。酒が入ったら直に眠くなって来そうだ」

 また、申し訳なさそうに言う。そっか。そりゃ、そうだよね。土日もフルで同行した挙句に、続けて出張して全く休みなし。私だったら電池切れてるわ。

「今週は出張でお休みなしでしたもんね。少しゆっくり休んでください」

「うん、ありがとう」

 お店を出て、課長がいつも通りタクシーを捉まえようとするのを見て、私は咄嗟に課長の袖口を掴む。

「課長。今日はまだ早いですし電車で大丈夫です。課長も早くご自宅に戻られて休まれた方が……」

 そう言ったのに、聞こえなかったのか何なのか、課長は普通にタクシーをとめ、私に乗るように促した。その時のひと言。

「……いや、送って行く。おれは心臓があまり強くないからな」

 その言葉に脳と顔が固まる。

 フリーズした脳の中で熟成でもしているかのように、ジワジワと何を言われたのか理解できて来て、次いで、グワッと複雑な気持ちが吹き出して来た。

 顔がむくれているのが自分でもわかる。課長をじと~っと見上げるものの、当の課長は知らん顔。悔しくて、悔しくて、悔しくて、でも、この間のことを考えると反論の余地が微塵もない。

 何より、それをサラリとダメ押しされたのがもっと悔しくて、つい、ものすごい上目遣いになってしまった。私の顔を見て、明らかに笑いを堪えているのがわかる課長の様子が、さらに悔しさを倍増させる。

 それでも反論できないのは事実で。仕方なく、無言でタクシーに乗り込むも、まだ顔のむくれは治まらない。すると。

「……家に着くまで、もう少し、つき合ってくれ」

 課長がまだ笑いを堪えながら、でも、やさしい穏やかな声で言った。

 予想もしなかったその言葉に、思わず前方を見る課長の横顔を振り返って凝視する。課長の表情は全く変わらず、ただ、穏やかな微笑を浮かべて前を見据えていた。

 さらりとイジワルなこと言っておいて、今度はいきなりこれだ。

 ……ずるい。そうは思うものの、堪らなく自分が子どもに思える。仕事だけじゃなくて、何をどうしたって敵わない自分が。

「……はい」

 せめて返事だけでも素直に、と思うのに、蚊の鳴くような声になる。

 見透かされるだけ見透かされて、軽くあしらわれて、全部、このまま持って行かれそうな気がした。そんなの私じゃない、と思うのに、それでもかまわないと思う自分もいたりして。

 本来、私は、あんまり長時間だったりとか頻繁にだったりとか、人と過ごすのは得手じゃない。どうしても、面倒くさいなぁ~って気持ちが先に立ってしまって。恐らくそれも、瑠衣に『冷たい』だの『里伽子、ホントに女なのっ!?』とまで言われる理由のひとつだったと思う。

 でも━。

 何でだか、課長と一緒にいるのはイヤな感じが少ない。今みたいに軽くあしらわれることがあっても、それに面倒くさいことが全くないワケじゃないんだけど、でも、何故かイヤではない。こんな人に逢ったの初めてのような気がする。

 ……ううん。正確には、ふたり目、と言えるかも知れない。ひとり目の人を数に入れていいかはわからないけれど。

 何故って。

 その人と逢ったのは、もう20年も前の子どもの頃のことで。しかも、一度しか逢ったことのない人……だからだ。

 そんなことを、流れて行くライトの光をぼんやり見ながら考えていた私は、ふと、何かを感じる。

 無造作に課長の方を振り返ると、課長と視線が重なった。課長が私の方を見ていたなんて思っても見なかった私は、そのまま目を逸らせなくなる。そして課長もまた、私と視線を絡ませたまま微動だにしなかった。

 どうしよう。動けない。身体も、目線も。

 もう、魂が屈伏しそうだった。

 シートについていた私の手の指先に、課長の指先が僅かに触れる。身体が震えそうになった、その時。

「そろそろですよ。どの辺りでとめますか?」

 金縛りを解くような運転手さんの声。一気に身体の緊張が解けた。

「その横断歩道を越えたところで……少し待っててください」

 課長が視線を前方に戻しながら答えたので、私も慌てて前を向く。

 いつものように、課長は一緒にタクシーを降り、入り口の前まで来てくれた。向かい合って立つ。

 目も、心も、もう逸らすことは出来ない。観念した私が課長の目を見つめていると、課長も私の目を見つめたまま、そっと私の指先を握った。ホントに指先だけを。

 驚いたけど、やっぱり目を逸らすことは出来なくて。そのままじっと課長の目の奥を覗いていると、

「……今日は中途半端ですまなかった。来週末、埋め合わせをしたい」

 課長が、私の目を真っ直ぐに見つめながらそう言った。

「……はい」

 そう答えて、私が課長の指先をそっと握り返すと、

「おやすみ」

 確認したような課長の言葉。

「おやすみなさい。ゆっくり休んでくださいね」

 私もまた答える。

「うん、ありがとう」

 やさしく微笑んで言った課長は、一瞬、ギュッと目を瞑るようにして私の指を離した。

 部屋に入って灯りを点け、窓の下に課長の姿を探す。私の姿を認めたらしい課長が、ゆっくりとタクシーに戻って行った。

 何を、どう伝えようか、なんてバカらしい。思っていることを、そのまま伝えればいい。課長には。そう思い直す。

 課長は、きっと、それでわかってくれるだろう。

 課長に返す洋服のことなんか、すっかり頭から飛んでいた私は、翌日、びっくりするようなことに遭遇することになる。
 
 
 
 
 
~里伽子さんのツン☆テケ日記〔10〕へ つづく~
 
 
 
 
 
 
 

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