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沖縄、1日目(石垣島)

 私は今、石垣島にある某ホテルのベットの上から文字を綴っている。貴重な体験に対し抱いた感情を風化させないために旅行記を書こうと思い至った次第だ。
 三月八日、目が覚めカーテンを開けると窓の外には積雪が見えた。今から南国に行くというのになんという寒さだろうか。これでは着ていく服に困るではないか。だが所詮栃木にいる間だけであろうと腹を決め、某フォロワーと下北沢に行った時に買ったジージャンの古着を携えて家をあとにした。
 頭に雪を被りながら小山駅に入る。六時台ということもあり人は疎らだ。寒い寒いと呟きながらホームへ。脱線するが、小山駅は秒速5センチメートルにて主人公が利用していた駅である。手紙が強風に飛ばされて泣きそうになってしまうシーン、あの映画を見たことがある人なら印象深いのではなかろうか。雪、そして小山駅という組み合わせにある種の既視感を覚え嬉しくなった。白い息を吐く度に、自己陶酔に陥った。寒さのせいか、気取りたかったせいなのかジージャンのポケットに手を突っ込んで電車の到着を待った。
 小山駅から新橋駅へ、そこからモノレール?と思しきものに乗り羽田空港へ。そこには制服姿の高校生の集団があった。卒業旅行なのか修学旅行なのかは分からないが、皆会話が弾んでいた。いいねぇ、青春だねぇ、と微笑ましくなったが、自分も同じ又は一個下くらいの歳なのに何故こんな上から目線になっているのか。制服を脱ぎ捨てた瞬間に、高校生気分も置いてきたのだろうか。今まで無かった感覚である。そしてこれから幾度となく抱く感情なのだろう。制服でない集団だったらこんなことは思わなかったと考えるあたり、制服は自分にとって特別で、恐らく学生を通過した多くにとっても特別なのだ。
 さて、飛行機に乗るのなんて小学生低学年のグアム以来である。空港とのやり取りの仕方なんて覚えてるはずもなく、少し緊張していた。そして、いざ手荷物やらの手続きをする時が来たのだが、そのデジタル化の進み具合に驚愕した。空港係員が介入する手順が想像の五倍少ない。セルフレジのような形で手荷物を登録し、自分が乗る便の予約確認も搭乗券のバーコードを読み込む方法。正直手間取った。ある程度こういう自分で…という手順に慣れているはずの自分でさえこうなのだ。外国人観光客やご老体の方々は大変だと思う。時代の波は利便性を連れてくるが、それに適応出来ないと流されてしまう。手続きの合理化も塩梅が難しいなと感じた。
 空港のラウンジにて喉の乾きを解消するために水を購入したいと立ち上がった。売店で購入しようとした際「160円」という表記に目が飛び出そうになった。自分のコンタクトがズレて視認性が悪化したのか、はたまた、ただの天然水でぼったくる悪徳ビジネスなのか。羽田空港の名誉のために答えは伏せておく。可笑しかったのは、売店から5メートルもしない所に位置している自販機で同じ系列の天然水が「110円」で販売されていたことだ。当然そちらに小銭を割いた。その場にあるからと即決してしまうよりも、少し広い視野を持つことで得する。身をもって体験すると心掛けようと気構えることが出来るのが良いところだ。
 10時30分、ついに羽田空港から離陸した。テーマパークのコースター系の乗り物でしか経験しないあの上昇負荷に少し恐怖したが、次第に慣れて、煩わしさは強烈な耳鳴りへとシフトしていった。対抗策は無いのか。機内のWiFiで調べようと思ったが上手く接続出来ずに検索を断念。唾を飲み込む、水を飲む、そしてイヤホンで爆音を流して誤魔化す。このサイクルでなんとかこの困難を乗り越えることが出来た。那覇空港に着陸したのは1時過ぎだったと記憶しているが、その間にアジカンやBUMP、最近ハマっているChevonやkamisadoのアルバムを大量に聞けたので有意義な時間だった。特に、2015年に発売されたアジカンのWonder futureを聞きながらゴッチの著書「朝からロック」を読んでいる時間は身も心も彼と共にあるような心地がした。少し活字を追うのに目が疲れたなと瞼を閉じれば、日常で経験することの無い浮遊感と自分が聞き慣れているロックミュージックを味わえる。何かを思案しながら本を読むには最適な環境に感じられた。

上から見た海色


 沖縄の地に降り立ちまず思ったことは肌から伝わってくる温度の違いだ。本州ではあんなにも凍えていたのに、腕まくりしようかなと考えるくらいには暖かった。陽気なBGMは沖縄に来たのだと実感させた。沖縄と言えば日本の中でもトップクラスに観光に力を入れている場所であり、当然空港も整然としていた。昼過ぎということもあり、何か昼食を食べようと立ち寄ったのは沖縄蕎麦屋である。空港のフードコートのような地帯の一角にあり、装飾から滲み出る「観光客はここを使ってください」感。それに抗う理由も無いため素直に店内へ。カウンター席へと案内され、私はタコライスと沖縄蕎麦のセットを注文した。

 店内は繁盛しており、気温と人の熱気のせいもありここでジージャンを脱ぐ羽目になった。手荷物になるからなるべく脱ぎたく無かったのだが、3月に汗だくになるのも馬鹿馬鹿しい話なので仕方がない。リュックサックの整理をしていると女子大生だろうか、フレッシュな女性が料理を運んできてくれた。その子に一礼し、食への感謝と手合わせを終えまずは麺を啜った。啜ったと表記したが、私はあまり音を立てて物を食すのが好きではないため、噛んだと言った方が良いのかもしれない。まず口に入れて感じたのは麺の太さである。食感は蕎麦なのに太さはうどんに近い、今まであまり食べたことの無い類だった。県をあげて推しだしているだけあって当然美味。タコライスもあるというのにまずはそちらを完食してしまった。次にタコライス。チリソース?をかけ、いざ食す。これがまた美味い。チーズとチリソースとご飯、そして謎の葉っぱの相互作用が素晴らしかった。書いていて思ったが、食に関する知識が無さすぎて曖昧な表現が多くなっているのが恥ずかしい限りである。一人暮らしが始まればそこら辺の知識も装填されていくだろう。 昼食を終え、今度は石垣島へ行くための飛行機に乗った。このフライトは1時間ほどだったが、霧の影響があり15分ほど遅れての離陸だった。待機時間の間、FGOのストーリーを進めていたのだが、自分が求めているものが見れて満足だった。頼れるカーマのなんと格好良いいことか。周りに人が大勢いるため分かりやすいリアクションはしなかったが、相当心は昂っていた。 
 フライト間は昼食後の血糖値上昇に耐えられず爆睡。 
 石垣島到着。ここで自分の荷物が届いていないトラブルが発覚。完全にあちら側のミスなので謝罪とアフターケアを確約してもらったが、焦るからやめていただきたい。不測の事態に弱いのだ私は。 
 4日間ツアーで申し込んでいるため、空港でその集団と合流した。周りはお年寄りが8割、家族連れが2割といったところ。ガイドもおばあさんだったので、疎外感を感じた。バスに乗車し、ガイドの話を聞きながら目的地へと進んでいく。耳さえ傾けていればいいので、私は窓の外の風景を見ていた。そこに広がっていたのは圧倒的自然。栃木の地元以上の田舎さ。広大な畑に聳え立つ山々、不揃いの電信柱に間隔を空けて在る民家・牧地。極限的に人工的なものを排した世界に緊張を覚えた。
 道中30分の間に、人も車も片手で数えられるほどしかすれ違わなかった。空港から居住区は距離があるみたいだ。だが、ある程度整理されている歩道やだだっ広い公園に人っ子1人いないのは違和感というか寂しさを覚えた。恐らく観光客向けに整備された道なのだろう。現住民・島に暮らす人々は集中的に存在しているため空港周辺はあまり立ち寄らないのだろうか。オーバーツーリズムに加担しといてどの口が言っているという話であるが、島民が普段使わない所を我々観光客のためにお金を払って舗装してもらっているのは申し訳ない気持ちになる。自分に出来ることはせめて島民にとって気持ちの良い観光客になるくらいだ。 
 織物と飲食を両方扱う施設に到着し、そこで三線(さんしん)の演奏を聞きながらしゃぶしゃぶを食べた。ガイド曰く、名もない豚さんの肉だそうだ。食事に関しては美味しかったとだけ。描写力が無いのが悔やまれるが、ここで書きたいのは三線の方である。演奏していたのは23歳の男性の方で、美声と小粋なトークで私たちを楽しませてくれた。4曲ほど演奏があり、都会へ行ってしまった島民を思う歌や島に暮らし得られるものを歌った歌など石垣島という環境でしか真価を感じられない曲を聞かせてもらった。高校や大学に行くためにみんな島を出るんですよ〜と語る彼の語り口にそれらの曲のテーマ性が重なり、彼にしか作り上げられない音楽を体験した。店を出る際に「めっちゃ良かったっす」と一言伝えると、「ありがと!君何歳?20になったら良い居酒屋教えるからまた来てね!インスタ教えてよ」とグイグイ。最終的に写真まで撮ってもらった。私の一言で嬉しそうに喋りかけてくれた彼が眩しくて、この地で強く生きている彼に対して、沖縄の人間は諸問題に巻き込まれてかわいそうと思っていた自分を恥じた。実地に赴かないと分からないことって、こういうことだと思う。 

陰キャの傾き、やめたい


 そしてホテルへ…といった流れで一日目は終わった。ホテルに着いてから周囲を散策したのだが、人の少なさとそれに付随して静けさに驚いた。人の雰囲気が少ないだけで、空気が美味しい気がしたし、実際そうだったのだと思う。スマホの画面から目を離しふと顔を上にあげるとそこには星空が広がっていた。自然の美しさを壊さないために生活してくださっている島民には頭が上がらない。沖縄の歴史も決して短くは無い。星空と肌に触れる心地よい風、静かに香る葉の匂い、過ごしやすい気候、それらは彼らの努力により保たれてきたのだと改めて思った。 

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