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今週の【ほぼ百字小説】2021・6月12日~20日

 
 ずっとツイッターで書き続けている【ほぼ百字小説】ですが、まあせっかく毎日書いてるので、それとそれに関するあれこれを書いておこうと思います。有料にするのは、ちょっとした実験というか、せっかくやるんだから投げ銭してほしい、というそれだけです。

 月曜から日曜までを一区切りにするので、とりあえず今日と明日は試験運転で。

 12日から21日までの【ほぼ百字小説】を朗読しました。

2021年
6月12日(土)

【ほぼ百字小説】(3166) 二階の窓くらいの高さに自動車サイズの雲があって、その真下だけ雨。それが自動車みたいに道を進んでいくのを何度か見たことがあって、通り雨というのはそれのことだとずっと思っていた。もう長いこと見ていないが。

  子供の頃の記憶の話です。本当にそんなものを見たことがあるのかどうかもよくわからないんですが、映像として頭の中にあって、ずっと気になっている記憶というのが私にはいくつかあって、これもそのひとつ。まあこの通りではないんですが、たしかにこういうものを見たことがあるような気がするんですね。それも何度も。

 テレビとか絵本とかそんなものの記憶と現実がごっちゃになっているような気はするんですが、でも自分の中ではそれは現実の記憶と変わりがなくて、だから今も思い出します。思い出すことでまた細部が付け加えられたりして変形してたりするんでしょうね、きっと。そこにまたこんなふうに小説化してイメージを強化したりしているので、もう現実よりも強力かもしれません。大人になってから住んでいるこの町にあるあの道路の上をこれが通っていくところをくっきりとイメージできます。まあこれを書きながらイメージしたわけですが。

 それと、子供の頃に見たウルトラQのバルンガも入ってるのかもなあ、と今思いました。風船怪獣です。風船というか、雲なんですね。生きている雲。黒い雲に小さな棘みたいな脚みたいなのがたくさんついてる。まああれは雨は降らなくて、電力とかそういうエネルギー吸い取るんですけどね。そうやって大きくなっていく怪獣。モノクロの映像なんですが、ほんとに雨雲っぽくて、しかも生き物みたいで、それは空に浮かんでる映像は強烈でした。最初はそんなに大きくなくて、それが空に昇っていくシーンがあったような。まだ現実と虚構の境目なんかぐらぐらの頃ですから、ほんとに怖くてぞくぞくしました。

 それに、ちょっと狸っぽいですね。なんか狸の化かしかたってこんな感じがします。狐じゃなくて狸ですね、こういうのは。だからもし入れるのであれば、『100文字ねこ』ではなく『100文字たぬき』に、とこれはツイッターにも書きました。どちらもまだ出るあてもない本のタイトルですが、そのことはまた追々書いていきます。いちおう選んで組み立てた『100文字ねこ』を未だに読んでもらえないぼやきとかも。まあ有料ならそういうちょっとツイッターに書きにくいようなことも書きやすいだろう、ということもあります。

 あ、「通り雨」という言葉は子供の頃から好きでした。うまいこと言うもんだなあ、とか、子供心に感心してたと思います。そのときの感情とその不可解な記憶とを結びつけたもので、こうやって書いてしまうと、本当に自分がそんなふうに呼んでいた気になってきます。まあこうやってまた記憶が捏造されるのでしょう。

 長いこと見ていないのは、山田太一の小説のタイトルで『飛ぶ夢をしばらく見ない』というのがあって、これはほんとに名タイトルだな、とずっと思っていて、それが入ってるような気がします。なんとなく連想で出てくるんでしょうね。

【ほぼ百字小説】(3167) 抗癌剤を入れると妻はまたしばらくいろんなものが食べられなくなるだろうから、夏日ではあるがすき焼き材料を買いに行く。豆腐葱糸蒟蒻玉葱卵、肉はある。自転車を漕ぎながら唱える。豆腐葱糸蒟蒻玉葱卵、肉はある。

 実際にあったことそのまんま、というか、ほとんど日記というか、そういうシリーズの一環になるのかな。妻は年末に乳癌の手術をしました。片側の乳房を全摘して今は抗癌剤治療中です。早めに手術の日程が決まっていたので、なんとか手術は予定通りにできました。コロナと大阪の医療の状況を考えるとかなり幸運だったと思います。

 抗癌剤治療はいろいろ大変そうですが、それでも基本的には元気にやってます。そんなあれこれもやっぱり日常で、物干しの亀のこととか、娘との会話や、妻と娘がゲームをしているときのやりとり、とかと同様に、私にとっては小説のネタになるというか、小説にしたらおもしろいと感じることは多くて、【ほぼ百字小説】に仕立てることが多いです。

 本当にあったこと、というのは、強いというか、頭で作ったこと、頭では作れないことが入ってきて、おもしろいんですね。いや、おもしろいのかどうかはわからないんですが、私はそう感じることが多い。だから、それをそのまま書くことは多いです。それはこういうマイクロノベルみたいな短い小説も長い小説も同じ、というかたぶん同じ書き方をしているのだろうと思います。

 じゃあ、本当にあったことだけをそのまま書けばいいのでは、と言われそうですが、そういうわけでもないんですね。いや、もしかしたらそうかもしれないけど、本当にあったおもしろいこと、というのはなかなかないし、やっぱりそこにも「でも、これは小説ですから」というのは必要なような気がします。いや、このへんはまだよくわからないし、そのうちわかるようになるものなのかどうかもよくわからない。まあよくわからないからやってるところだろうと思います。

 とにかく、だからそういうあれこれも書いていました、手術のことも入院のことも、そのときに書いてました。その日あったことをその日に。そして、書くだけは書いたけどどうしようかとずっと思っていた。それで、手術からのあれこれが一段落したところで【ほぼ百字小説】としてそのへんのことをツイートしてもいいかどうかを妻に尋ねて許可をもらいました。というか、なんでわざわざそんなことを聞くのか、という反応で、それも【ほぼ百字小説】として書きました。

 そんなわけで、これもそのまんま。抗癌剤の副作用は様々ですが、これもそのひとつ。薬を入れてからしばらくはきついんですが、だんだんマシになってきます。そしてその頃にまた薬をいれることになるわけですが。これは、そういう日常のひとコマ。

6月13日(日)

【ほぼ百字小説】(3168) それは昔ここにあった銭湯の壁。建物はもう無いが、雑草に覆われた土地にタイルの壁だけが残っている。雨が降るとタイルの埃が流れ落ち、富士山がくっきり見える。傘をさして雨の富士山を眺めている人がたまにいる。

 大阪の寺田町という町に住んでいます。環状線の天王寺の一つ手前の駅です。このあたりにはごちゃごちゃした古い路地がたくさん残っていて、越してきてしばらくは「昭和かっ」とよくつぶやいていました。銭湯もそのひとつで、やたらと銭湯があった。その銭湯も次々に無くなってしまいました。これは実際に見た風景そのままではないですが、取り壊された銭湯の跡が中途半端なままでけっこう長く放置されていたりしました。元になってるのは、そのときの記憶とか妄想ですね。

 壊れたタイルの壁が雑草だらけの更地に突き出てるのは、なんか発掘された古代遺跡みたいで不思議でした。壁の絵は見えなかったんですが、そこはやっぱり銭湯の定番として。あれって考えたらバーチャルリアリティの先祖みたいなものですね。お湯に浸かりながら偽物の絶景を眺める、ということを思いついた人はすごいと思います。偽物だからこその良さみたいなものがそこにはあるような気がします。そういうところは小説に似ているのかもしれません。

 そこにあったものが無くなって、でもそんな残滓が、ある条件下で鮮やかに再生される、という点では幽霊の話でもあるのかもしれません。建物の幽霊。人寄り場所の幽霊。そして幽霊と言えば雨ですね。傘をさして幽霊を眺めている人、というのもじつは幽霊かもしれません。幽霊ではないにしても、かなり幽霊には近い存在でしょう。まして、そんな人を眺めている人は。まあそういう話、というか風景ですね、これは。

 こういう「風景もの」は、【ほぼ百字小説】にはけっこうあります。書きたいのはそんな風景だけで、それだけで書けてしまう、小説としての体裁を整えるためのよけいなものを入れる必要はない、というのもマイクロノベルのいいところではないかと思ってます。

               *

 以下の三篇は、アンソロジー『ポストコロナのSF』(早川書房)に収録されている「不要不急の断片」のために書いたものです。

「不要不急の断片」は、2020年3月から2021年2月までにツイートされた【ほぼ百字小説】で構成されています。その時期にツイートされたものを並べることで、そのときのリアルな空気みたいなものが出せるのではないかと考えてそうしました。実写の映画にその時代を象徴するようなものがたまたま映り込んでたりするような感じですね。そうなってたらいいと思います。

 リアルなあの時期の感情の羅列とはべつに、ひとつのSF短編としても読めるように並べ替えて、10篇ずつまとめて7つのパートに分けて構成しました。その際に、ここにこういう部品があればいいかな、というものとして、書いたのがこの3篇です。まあこれはこれで独立したものとしても読めるようになっているはずですが。

【ほぼ百字小説】(3169) 世界を断片としてしか捉えられなくなったのは、あのウイルスのせいではないかと言われている。その真偽はともかく、100文字ほどの情報の集積としてしか捉えられないのは間違いない。以前はどう見えてたんだっけ。

 これはその100文字×70という構成に対する答えというか、謎解きみたいな形で置いてます。100文字の断片になってしまった世界を内側から見た100文字、という感じですね。

【ほぼ百字小説】(3170) ひさしぶりにやれるのは嬉しいけど、そうか観客も作らないといけないのか。だって、作らなきゃ誰が観るの。たしかにね。でもいい観客さえ作れば、あとはぜんぶ観客が頭の中で作ってくれるから。それもなんだかなあ。

 これは演劇の話。2020年の3月頃だったかな、SFマガジンにコロナに関する文章を書きました。

 これですね。このとき私は、「コロナ禍のいま」というお題で、小劇場のことを書きました。この文章を読んだらわかると思いますが、このときにはまだ演劇とコロナのことなんかほとんど言われてない頃で、私はたまたま芝居にも関わってることもあって、世間的にはどうでもいいであろうそういう小さな切実さを書こうと思いました。それが今ではオリンピックの「観客」の問題でこんな大騒ぎとは、という感じ。

【ほぼ百字小説】(3171) 音だけで作られた劇場がある。その中にある音だけで作られた舞台の上に、声だけで作った自分を送り出す。いつからかここには音が音として存在できなくなったが、送り出すのはできる。今この世界にあるのは文章だけ。

 これは朗読をイメージしてます。朗読のライブをやってるんですが、それもやれなくなって、リモートでやることになって、とかそんなことから書いたやつです。まあこれもコロナとか関係なく、そういう設定のもの、として読めるんですが、「不要不急の断片」の中ではある役割を果たしているはずです。

  ついでに「不要不急の断片」のことを書いておくと、そのときそのときに感じたことを日記みたいに【ほぼ百字小説】には書いていて、それは、そういうのが地層みたいになってひとりでに大きな何かを形作っていくらしい、ということが長く書いているうちにわかってきたからで、それがわかってからはかなり意図的にそうしているのですが、だからこのほぼ一年間にツイートしたものの中にもそういうのがいくつもあります。

 その当時のいわゆる時事ネタというか、政治ネタみたいなものがダイレクトに入っていて、そのせいかこの「不要不急の断片」は、「風刺」みたいな言いかたをされることが多いのですが、まあ私から言わせてもらえばあれは「風刺」なんていう行儀のいいものではなく、簡単に言えば「呪い」です。  

 あまりにあんまり過ぎることばかりで、でも後になってそれなりにちゃんとやっていた、みたいなことにしてしまうつもりだろうが、あの時期におまえらがやったことは絶対に忘れないし、絶対に言葉で残してやるからな、という呪いです。そしてもちろん文字通りの意味で私は彼らを呪っています。小説は呪文ですからね。私の文章に力があれば、この呪いはきちんと発動して、私が消えてもずっと機能し続けてくれるだろうと思います。それを望んでいます。ダークサイドに落ちてますね。とにかくあの短編にはそういう呪いが入っていて、でもまああらゆる小説にはそういう側面があるでしょうね。ないのかな。わからん。まあ呪いはただのオマケなので、それを抜きにしても小説として成立しているとは思います。あんなふうに1年くらいかけてゆっくりぽたぽたドリップしたコーヒーみたいな小説なんて、あんまり他にはないですよ。まあ誰も言ってくれないので自分で言いますが。『ポストコロナのSF』で読んでみてください。

 あ、そうそう、アマゾンのカスタマーレビューにわざわざこの「不要不急の断片」だけをけなしているのがあって、そういうのを読むと、ああ、こういう読めもしないのに読めると思い込んでいるらしい愚鈍な脳味噌にも棘みたいに刺さったのだろうなあ、書いてよかったなあ、書き下ろしのところにこの形でねじ込んでよかったな、と心から思います。ありがとう、アマゾンのカスタマーレビュアー。



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