【文学フリマ東京】建築【全文サンプル】

こちらの文章は令和元年5/6文学フリマ東京で頒布する小説のサンプルです。

19歳の蒐集箱作家が、平成最後の三か月間ウェブで連載したエッセイ、という態で進む女×女×女の三人恋愛小説です。当日は文庫サイズ66P、400円でケー20「言う鷹」に置いています。よろしくお願いいたします。



建築

本書は蒐集箱作家、木崎英理氏が「三人で恋愛する」をウェブマガジンカスタムより配信していた「ロードラブチップス」をタイトルを改め編集したものです

これは架空の家の話

 うちの庭の紫陽花の色はころころ変わる。小学生の頃は歯医者の待合室で読んだまんがで、彼の植物は土のPh値によって花の色を変えると知った。俺がふたりの恋人と住んでいる一軒家は建物そのものは手狭だが無暗矢鱈と庭が広く、かといって土の栄養が豊富なわけでもない。例年誰かしらが気の向いた際に腐葉土を混ぜたりするのだが、共に入れる石灰だか草木灰だかの分量の微妙な兼ね合いで、青い花と白い花の間を行ったり来たりしている。あの花弁に見える箇所はガクだ。白色と青色の境界は既に消滅した。六等星が消えるかのごとく。二色あり、あった紫陽花のガクの形は真っ白な掻き傷のように俺のまぶたの裏に残り、徐々に「白色」と「青色」のもつイメージを更新しつつある。先日モネ展に行った。
 県立美術館は車で移動し一時間の場所にある。入り口前に立つモニュメントは曲線を強調した鈍色の裸婦だ。彼女が豊満な臀部で腰かけるアスファルトは日光にきらきら光っている。モネの生涯を追う展示物たちをひとつずつ丁寧に眼差しで愛し、ふたつのフロアを抜けて凹状にへこんだ一画に足を踏み入れる。俺はモネの絵というと睡蓮しか頭に置いておかなかった。こんなにも一室を天井まで光に満たす絵を教えられた覚えがない。
 ライティングがされているのだと思った。その絵に向けて、あるいはその絵を中心に、白く透ける光が溢れているのだ。乱反射という現象とは違う。とにかく半透明の、影の青い白い光が途端に瞳の中を溢れだしたのだ。心が震えすぎて動揺してしまう。焦燥感すらある。真実眩しいものは人に対して非常に無遠慮なのだ。窓より見下ろす広場を切り取った絵だった。眩しさにどこもかしこも触れられているのに、それが心地よくて見惚れた。隣にいる恋人に撫でられているようだった。彼女は背が高い。顔を見ようとすると後ろより差す灯りによって鼻のあたりに影が生える。
 今年、紫陽花の色は淡い水色だった。紫がかったガクの縁、抜けるような白色の中を、ぴりびりと駆ける青い筋、中心に座る装飾花は完全なる青色、まだら模様に色を取り込んで、全てを表すのならば水色。境目の曖昧な淡い色彩の衝突は脳にバグを引き起こす。光っている、と俺は認識した。モネの光に似た光だ。ただし、モネがあの眩い光を真っ白なキャンバスに絵の具を塗りこめて表現したのか、絵の具を引き算して表現したのか、絵画に疎い頭には理解に難渋する。俺の記憶にある絵は白く輝いている。なので、あれはあえて描かなかった光なのだと決めつけた。はらはらするほど眩しいのだ。目が潰れそうだ。絵の具で描くにしては神秘が勝ちすぎる。
 恋人たちと撒く石灰だか草木灰だかの素朴な臭気が、俺の胸を戸惑わせた光を再び生む。その稀な神秘の滴りが落ち続ける先に、俺の家と庭がある。

はじめまして

 俺は恋愛をする女であるからして、ときに口紅を引くこともある。恋人たちの帰りを待ちながら洗濯物を干している際など、ふと最高の気分が沸き起こる。春光ながめ(ながめちゃん))と松前江奈(えなちゃん)は世界一気高く崇高な女性たちだと思う。俺は彼女たちの自慢できる持ち物でありたい。貝殻でできたよく切れる剣だ。愛するひとの武器でありたい種類の恋愛者は恋人を日常生活の中で果敢に戦う貴人でありそれは半永久的に続くと思っている。その戦いとは生活することそのものだ。ごく軽微なものから重篤なものまで生にまつわる残酷を切り裂いて日々を彩るルージュに変えたいと思っている。世界で呼吸し続ける限り彼女の美しさは更新される。ながめちゃんの肉体のとくに優れた点として、俺が好ましく感じているのは一目でわかるほどの長身であるところだ。すらりと伸びた手足、といった形容を一切無に帰す広大で文化的な建築物のような彼女。万里の長城だ。宇宙からも観測できる大きさの人工的かつ素朴な美。などと言うと肉感的な女性を想像されるかもしれないが、一概にそうも言いきれない足の指の爪をもっている。えなちゃんの良いところは腹筋が割れているところ。皮膚が若々しい力の限界まで張り詰めているように薄く硬い。柔軟な運動経と反して気性が荒い点も素敵だ。とても怖い。しかし臆病だ。そして人懐っこい。合理的な価値観を総動員させて感情的に怒鳴る。俺は彼女たちを他人にかわいい、美しいと評されたくはない。俺にとっては彼女たちはこの世の何物にも代えがたく美しくかわいいが、俺の美的センスや世間一般の常識と照らし合わせると世界でいちばん美しい、とはならない。だから俺たち三人は三人きりのものなのだ。共生し共存する動物たちは互いにかわいいと思い合ってはいない。ただ生物的な美しさにはっと瞠目する刹那がある。そういったありきたりの種族同士の交接がこの三人の恋愛なのだ。ふたりきりで抱き合うのに、俺の手は広すぎる。ぎゅっと抱き合っても腕の力でひっつきあっているのではより大きな力に剥がされてしまう。力学の力を借りるのだ。それぞれ自分に具合の良い生物と無生物を集めて固有のハニカム構造をつくろう。絶対に離れることのない、なんて狭量で破滅的な文言など口にしない。力学で組まれたこの構造体は同じ力学の仕組みによっていとも容易く自立する。
 ながめちゃんは市内の塾で講師をしている。えなちゃんはネイリストだ。インスタグラムに写真を投稿している。ながめちゃんの趣味は掃除だった。彼女とは学生時代の写真や切符の収集物を標本にする依頼を俺にしたこと、えなちゃんはネイルチップの保存とインテリアの案を出す依頼をしてきたことを切っ掛けに出会った。三人はサンドイッチを主に取り扱うカフェで待ち合わせ、スタンドに立つソフトクリームにプラスチックのスプーンをさしながら話した。すぐに隣の飲み屋に移った。ミートソーススパゲティとハイボールで乾杯した。


スピンの下の現代詩

 初めての店だった。ミートソーススパゲティの専門店だ。券売機には麺の種類を選ぶためのボタンがずらっと並んでいた。なにを押したかは覚えていない。さほど重要なことと感じなかった。小説で、登場人物の食べた料理の描写が延々と続くようなタイプの作品があるが、俺はそのような長ったらしい食べ物への著述をひどくオバサンくさいと思っている。幸福や丁寧な生活を言及するに必要な部分なのだろう。俺は時期を過ぎた蓮池のようにすかすかで粗雑な生活を送っているので、無駄だ。未成年だからハイボールは飲めなかった。ハイボールやビールの色は気品がある。泡も肌理が細かく、良い香りがする。俺たちは乾杯したけれど、話は別に弾まなかった。全員がさほどお洒落な人間ではないので、甘いものよりもしょっぱいものを口にしたかったのだ。俺は高校時代のジャージを着ていた。あれはいまは寝間着にしている。ジョッキの酒が進む間に、最果タヒの詩を読んでいた。本屋で立ち読みしたときはどうってことのない作品だと思ったが、そういう作品にも往々にしてハマることはあり、またその頃と最近はこれらが完璧に心を打つ作品だと受け止めるよう胸が変化していた。だから正確無比に透徹に感情が揺れていた。食べ物への言及を非難したばかりの俺が、何故わざわざ最果タヒの詩について書いているかというと、思い返すに、この最果タヒの詩に喚起された感情の揺れが、ながめちゃんとえなちゃんとの関わりへの誘い水となったのだ。ひとつの詩に組み込まれた言葉や字をまぶたの裏に生かしたまま、ふたりを見た。ハイボールの色と詩とグラスに彩られたふたりの依頼は誠に純だった。感動するとき、俺はいつも感動の起因を非常におもしろいものだと見ている。興奮している。恋心すれすれの気持ちだ。そして気持ちは、詩集にスピンを挟んだ仕草で見事に好意へ陥った。スマホのデータからこれまで自分の手掛けた蒐集箱の画像をタップし、意見を交換した。連絡先も。スパゲティをフォークでぐちゃぐちゃにかき混ぜ、皿の端に溜まった挽肉を掬った。味を覚えていない。
「木崎さん、下の名前は?」
「英理です。英語の英に理科の理。エリじゃなくてエイリ」
「私はひらがなだからそういうのないですね。ああでも、春の光でハルミツだ」
「じゃあ私はエマじゃなくてエナかな。エマじゃないんだよね~。エマのがかわいいからエマが良かったなあ。エマ・ワトソンもかわいいし」
「それは違うやつじゃないですか? もう外国の名前じゃないですか」
「響きならマよりもナの方が可憐で綺麗ですよ」
 ふたりとはその後すぐに別れ、依頼を完了して数日経てまた会った。デートのような集会が数カ月続き、気が付けば一緒に住み、全員が全員と手を繋ぐことに慣れ、恋人になった。


なんで俺がこんなガキと

 子どもたちの遊ぶスペースの隣にはキャラクターグッズのガチャガチャを並べたコーナーがある。中央に頭部を切り取った円錐型のクッションを置き、足元と四方にパステルカラーのクッションを敷き詰めている。背後にゲームセンターを控え、華美な照明を背負った女性たちが、丈の短いダウンコートに身を包み水筒を持っていた。走り回っていた女の子がたどたどしい足取りで俺のもとへと近づき、ながめちゃんの差し出す麦茶を一口含み吐きだす。豆のさやのごとき硬さと柔らかさを併せ持つ唇をハンカチで拭き、二つに結んだ髪を撫でた。彼女の表情には満足の色が芽吹いている。豆の花の芽吹きだ。鞭毛のように細い蔓が新鮮な黄緑色で耳の穴やまつ毛より飛び出ている。柔らかいものの質感を表す形状として、子どもの顔ほど確実なものはないと思う。毛並みの良い動物のような触れたときに掌の中央で冷たく溶ける感覚はなく、あたたかいとも言えない気候に似た温みで肌を湿らせていく。あまりにもほのかな水分がすぐに蒸発する様子すら感じ取れる。自分が滅びていく気がする。それで思っている。子どもってかわいいんだなと。
 小さな人間といった方がより正確だ。俺は若い。しかし大きい。身体としては過不足なく育った。足りないのは頭で、人間らしさが足りない。ながめちゃんやえなちゃんと接していると不安になる。彼女たちには感情があり、俺の言葉や仕草に怒りを感じる。俺は人に嫌な思いをさせることが苦手だ。どれほどに傷つかれても相手の心が満足する謝罪は難しい。俺はすぐにながめちゃんとえなちゃんに不満を抱く。子どもだと思って舐めているんだろう。そうでなかったらもっと配慮する筈だ。俺はこんなにも大人に対し苛立ちを感じる人間ではない。ふたりの言葉や仕草にいちいち傷ついたりしない。立派なのだ。ながめちゃんの友達の子どもをスーパーであやしたりする。
「いい子だね」
「うふふ。そうでしょう。英理ちゃんはいい子でしょう。お掃除は苦手だけど」
 片耳で聞いた。ぞっと青ざめる心地だった。苛立ちは炎を纏って急速に燃え広がり、口に火傷を負わせて縫い上げた。クッションとクッションの間で子どもが前転し、宇宙のような真っ黒な黒目に真っ白な光の粒粒を映して口角をあげる。ここに肉体がある。熱い小さな肉の身体が目にした全宇宙を脳味噌の裏側まで照らす。この子の笑いに比べたら俺の頭の子ども具合など真実ちっぽけだ。小さな人を抱き上げる。上手く抱けない。この子は大人へのしがみつき方をまだわかっていない。ながめちゃんの友達が駆け寄り、代わりに腕を伸ばした。
「英理さんありがとう。面倒見良くて、良いママになれそうだね」
 そうかもしれない。だが俺のなりたいのはながめちゃんのママだったりする。


微笑む人工
 
 トレーシングペーパーと雲母紙に印刷された絵と台詞を重ねて、ようやく一ページの漫画になる。マット加工を施された表紙は指にさらさらと馴染み良く、白色で押された箔の感触も心地よい。学園祭の始まりから終わりまでを、少し不思議なエピソードを交えて掻いた作品だ。紙の本は素敵だ。電子書籍も素敵だ。本屋に行くとなにかしら見繕い未読の本を積んでしまう性分の俺は、ワンクリックで購入し時間のあるときにさらっと読める電子書籍を重宝している。巻数の多い漫画はほぼ電子版で買いなおした。最近、とみに漫画を読むことが面白い。面白いという感情で泣くので相当だ。感動はしていない。感情が動いているというよりも、感情の壁が厚くなっている気がする。それは触れて確かめられる。厚く、熱く、脈動し、けれど無機物の冷たさもある。漆喰の触り心地に近い。高さは俺の身長の倍はあり、見上げた先に小さな窓がある。窓はいつも光を反射している。
 恋愛漫画は面白い。登場人物同士のすれ違う様子を、読者は神の視点で読んでいる。筈なのだが、どうにもヒロインの誰々はかわいい、相手役の誰々は格好いい、と神ならば考えもしないことをつらつらと考えている。サスペンス漫画では、犯人は誰だろう、と推理する読者の楽しみ方を予期して、叙述トリックがあからさまに仕掛けられていたりする。漫画はこのように、読者である俺たちを異様な神にしたりそのための道筋の梯子を急に外したりと、工夫と求められる視点の移動に枚挙に暇がなく面白い。俺はこの容赦ない視点の移動に騙されたときに純粋な読者としての役割を果たせたと嬉しく思う。つまり、ああ面白かったと自分の思考を奪われて作品の中で一区切りついた際にだ。作者の意図に関係なく、作品には固有の作為が生じるのだと思う。それは確かにある程度パターンがある。その波形は読者に委ねられ、感得されている。筈だという前提を抱きすぎたまま俺は漫画を読んでいる。波に溺れている感覚もあれば、思いがけない絵の迫力や文章に目を吸着させられている感覚もある。これは非常に気分が良い。俺を純粋な読者にしてくれるのは漫画の非常に作為的な部分だが、固有波形の作為は俺を翻弄し、遊ばせてくれたりする。そして作者に聞くとそこは何にも考えていない部分だったりする。作者と漫画と俺の間には幾重もの溝があるのだ。大変豊かな大地の実りを思う。感情の壁を離れて見ると、非常に美しい棚田の風景が広がっていたようだ。思うに棚田はかなり整地され人工的になった場所も多く、自然の美しさは人工的な幅を獲得してよりままならず広がったらしいのだ。えなちゃんの教えてくれた漫画はとてもとても人工的で良かった。彼女は用もなくどこにでも行くので、レンタル用の漫画で話題の作品の一巻だけを借りてくる。見開きで表現された抒情的な場面は印刷して飾っておきたい。えなちゃんは俺を笑い、そのシーンを真似して笑顔で手を繋いでくる。美しい人工だ。


嗜好の意思

 鉱物の蒐集箱作成の依頼が最も多い。小粒の紫水晶を瓶に封入しラベルを作る仕事や、方解石を割る仕事が随分と増えた。鉱物の蒐集箱作成は箱さえ出来ればそれだけで見栄えがするが、箱に収めずとも良い量の品を卵のパックに詰めて送ってこられたりする。俺の仕事はあくまで蒐集箱作りだ。標本はそのために必要な手段にすぎず、物は数があった方がいいが、人の夢や愛はこのような小さな石に宿っているものなのだろう。これまでにした仕事の中で一番気に入っているのは、鈍行で日本を旅した学生の使用済みの切符をアクリル板で挟み、両端をアルミでクリップのように留めた作品だ。円環状のパーツに複数個繋ぐと、ホテルのキーホルダーに似た佇まいがある。気に入る仕事、気に入らない仕事とあえて分けた場合、気に入る仕事に分類されるのはこういったいかにも記憶の蒐集と呼べる仕事で、いま買った商品を並べ替えて見栄え良くする、といったことは得意ではない。するけど。でも気持ちとしても。やりがいがあったのは、小学生がひと夏を共に過ごした虫たちを標本にし箱に収めたもので、脚のとれたクワガタを虫ピンでようよう立たせ、千切ったスポンジと綿で固定した。俺はとても頑張ったのだが、依頼者である父親はともかく小学生の方には喜ばれず、結局夫婦の寝室の壁にかかっている。当然だと思う。記憶を扱う以上この仕事は人のナイーブな部分を刺激するし、箱に詰めて飾って綺麗になる記憶ははなから綺麗なのだ。俺は綺麗な記憶を依頼者の綺麗だと思う感情に大部分あやかって見栄えのするものにしている。記憶を失った時点で何だこれは、と思われるものを作るのが俺の仕事で、蒐集箱なんて最初からケほども美しくないのだ。人の大切な記憶を沢山観たいから勝手に仕事にして始めた。なのでその子の友達だったクワガタに勝手に触って勝手に箱に詰めた俺が悪魔のように悪い。格好いい虫はいっこもなかった。ぺしゃんこの蟻を樹脂に封入した。クワガタだって、デパートから連れ帰ったような太くて黒くて硬そうなオスではなかった。朝顔の観察にでも顔を出したその子の足元にでもたまたまいただろう弱いオスだった。大事に大事にそのまま送り返すべきだった。蟻はどうでもいい蟻なのかもしれなかった。それでも返すべきだった。どうでもいいものだって、誰かのどうでもよくないものと一緒くたにされていいくらいにはどうでもよくはない、そんなに投げやりな愛も夢も俺は許さない、あの子の大切だろうクワガタとともに入る箱は地獄の様相を呈していたのだ、蟻にもクワガタにもあの子にも惨めな思いをさせた、人の思いを尊重するとか大層なことは言えないが、その子どもだって客の父親だってクワガタだって蟻だって俺には興味の範疇外で、ゆえにこそ礼を尽くす理由があるのだ。どうでもいいんだぞ。興味のない相手なんてどうやったら大好きになれて心を寄り添えるられるんだ。俺には切実に記憶という混ざり物が要るのだ。人として生きるために。


細胞を割る営み

 人間、と大きな話に広げて自分の話をする、俺の盲目さにはまったく恐れ入る。たかだか二十年も生きていない、資格を取得して商売を始めたのでもないガキが、有難いことに雑誌で定期的な連載をもっている。薄気味悪い話だ。俺はいわゆる俺女であり、ふたりの女性を恋人にしていて、同棲していて、LGBTだの様々な話題に事欠かない世相で、性自認は、だの、男性に対し強い恐怖心や拒否反応が、だの、父性や母性を求め、云々、と言われやすい。どう答えることが正しいのか、今はまだわからない。普通の家庭で育ったから間違いだ、両親には不満がない、と言うものか。俺は被虐待児だ。殴られ蹴られ給食費をパチンコに使われ修学旅行に同級生が行っている間家で食パンをゆっくり食べたり何度も吐き戻していた子どもだ。腹が減ってがっついてしまったはいいものの両親が帰ってくるまでにきっとおしまいになるだろうから、歯の表面で軽く軽く、うっそりと噛み飲み込んで、鼠の頭蓋のように丸くなったパンを吐き戻してもう一度食べていた。両親には死ねと思っている。ながめちゃんとえなちゃんも死ねと思っている。愛に飢え人に優しく依存のケがある、そんなかわいいものじゃない。これを読んでいるアンタら全員、肉親や恋人をうぜえな死んじまえよ、と思った経験があるだろう。面倒くさい煩わしい奴ら全部、自殺してほしいよな。自分以外の人間なんて馬鹿だと思うよな。わかるよ。俺は本来特別なところなんてひとつもない。親、死んでくれないかなと思った初めの思いが、親が俺を殺そうとも思わずに殺そうとしたからだっただけにすぎない。あんなに困ったことはない。親、本当に、殺したいときは殺したいと思って殺してくれないか。そうでないと、俺は死にたくないと思えない。思う間もなく死にそうで、でもお父さんもお母さんも俺に死んでくれって思っているのかな、嫌だ、嫌じゃないじきに死ぬんだよ、といった気持ちをモールス信号のごとく自分でもわからないなりに感じ考え続けていたのだ。助けてくれた児童福祉士も近所のおばさんも学校の先生もやっと食べられる食事も全部全部死んじまえ、空気以外全部嫌いだ、全部死ね、形があるってのはつまり人間だろう。人間には形があり、この、頭があって髪の毛もあって肩もあって腕があって背中があって腹があって脚があるこの形、この形がとにかく気持ち悪くてこいつらはつまるところ丸とか棒とかそういったものの集合体で、細胞があって、電気信号があって、神経がある。細胞の形もまた科学的で、聞いたところでは、狂ってしまっても様式があって、犬や猫にも感情があって、魚は群れる。全部刻んだら土に還る。土は人間で、空気以外は全部人間だ。ただこの痛みを押し付けてやる、みたいな傾向を発露する相手を恋人と呼べばいいのはわかっている。親の他に本気で死ねと思うのはながめちゃんとえなちゃんだけにしておきたい。ぐちゃぐちゃに潰しながら甘えながら一緒にいたい人、アンタにもいるだろう。


大切でないものと丁重に接するということ

 銀行家が残した別邸に、年に一度、花を活ける催しが開かれる。邸宅は古い木造建築で、階段もあり、今の世に、到底人の暮らせる場所ではない。一帯は付近のそのような屋敷を手入れし公開している観光地だ。ほとんど人はいない。見晴らしの良い坂より見下ろす町並みが割れた氷のようにすっきりとして美しいことと、異人池、地獄極楽小路、と名前が風流であること以外に関心を引くものはない。年間を通して市内の住人ばかりが訪れる。それには随分と良い景色で、日差しで、文化的な建築群だ。玄関をそのまま使った受付でチケットを購入し、上がり框で靴を脱ぐ。白いビニール袋に入れて片手に提げ、正面へと進んだ。左手に階段、順路ではこちらが正しく、慎ましい香りの足音と囁き声がさらさらと降ってくる。階段は一段一段が高く、急だ。誰かとすれ違える筈もなく、互いの影と声で察して譲り合いをする。靴下でのぼる段差は身の縮む程にスリリングで、背筋が春の風のせいだけでなくぞっと寒くなる。俺は階段の上り下りが不得手なのだ。水の上を歩くごとく、身体中に穏やかな波が入用だ。古い家は今の人間に使いやすいよう気遣う設計が少なく、それでもただ、ひびのように這いまわる木目と静謐な壁の温度が愛しい。これを乗りこなしてみせる気持ちで歩き回る。物珍しく動く俺は正しく魚だ。家に鑑賞されている熱帯魚。
 生け花には興味がない。美術館の展示にも、博物館にも興味がない。見るけど。自身の内側より湧き出すそういった衝動や欲求はすべからく危険で、興味関心共感同調がなければ美や優しさがないとするならばその価値観を植え付けた歴史は馬鹿だと思う。桃色のチューリップだって、そのものが、そのものでなくとも、名前さえ、落ちた花弁や茎の一本さえ透き通った存在感だ。俺は人と話すことが好きだ。そこに在るものをじっと見つめていると、彼らと俺の間に半透明のクッションが生じ、不器用に交信しだす。俺の両腕いっぱいの大きさの皿に活けられたチューリップは、足元と左右に菜の花が散りばめられ、葉とともにノビルと纏められている。花の一輪が見事に大きく、甘い香りが花芯を蕩け出す様が見えるようだ。障子戸一枚を隔てて桜の枝が室内を圧倒し、二階は一面おどろおどろしい花の色だ。くすんだ壁の黒色と、低い天井の効果で、騙し絵に入り込んだ気分になる。描画されつつある滑稽に俺もまた含まれているのだ。対話は滑稽だ。おかしみであり、エスキースだった。俺は俺と対峙する時間の素が生成される喜びを知っている。フェロモンだ。花粉だ。台風だ。お話ししよう。チューリップの花はチューリップの花だ。桜は桜。今この瞬間の俺が初めて出会うその新鮮なピンク色、紅色、白色、滴り落ちる油のごとき放逸な香りについて話してほしい。そうして俺と半透明のクッションで枕を交わしてほしい。欲求は充足を遠ざける。俺は俺より花の存在の美しさを守ると約束する。約束した。小さく開いた窓を風が通り抜ける。


三人

 ながめちゃんに同窓会の知らせを伝えるはがきが届いた。彼女は勿論参加しないが、世間に何故同窓会が必要なのか非常に悩む。えなちゃんは同級生と久方ぶりに会い話をすることもまた楽しみのひとつだと言う。けれどながめちゃんにとっては違うし、俺としても級友と今後会わなければいけないだなんて寒気がする。これまで紹介していなかったが、ながめちゃんは専門学校で教鞭をとる教師で、性格は消極的な方だと本人は思っているだろうけれど、とても社会的で分別がある。俺がこんなことをいちいち取り沙汰すると彼女の品性や人格を馬鹿にしているように見えるのではないかと今まで書けなかった。彼女は車のタイヤ交換を自分で行い、高速道路を利用して遠出する、そういった大胆さがありながらも子ども連れの友人と幾度となく食事に行くような女性だ。却って、大切な子どもがいるとはいえ私の友人は母親ではなく学生時代よりの付き合いのある誰々なのだから、たまには子どものいない場で映画を観たりカラオケしたりした方がよいのではないだろうか、と気にする。彼女がメッセージアプリに課金して学生時代から毎年友達と映画を観に行っているからと名探偵コナンのスタンプを購入してると知った時、生真面目さに胸が締め付けられた。ただながめちゃんが同窓会に行きたくないと思う理由は真摯にある。なのでえなちゃんが同窓会に行きたい理由も深刻にある。
 えなちゃんは学生時代にアルバイトで家庭教師をしていた。生徒の母親が自宅でネイルサロンを開いていた先生で、彼女の人柄に魅力を感じて資格を取得した。えなちゃんは人好きのする明るく器用な性格だけれど、誰もが意外に思うほど対人関係にはものぐさだ。電話をかけたり、アプリでメッセージを交換するといったコミュニケーションが性に合わないのだ。約束は必ず守るから、人と会いさえすれば次の予定をとりつけて楽しみにしている。会う人の趣味や最近の好みに合わせて、アイドルのメンカラーのネイルをデザインしたり、動物や海外の名画やアメコミのキャラクターを精巧にチップに描いている。それを苦にもしない。にこにこしてザクとザクツーの違いを調べている。結果として非常に物知りだ。聡明だ。英理もながめもどうして同窓会に行きたくないの? なんて問いもしない。
 私は何故か沢山の人に好かれるというよりも友達の皆は私を見守っていてくれるという雰囲気でね。ながめちゃんはそう言う。きっと本当はもっと色々な角度から色々な角度で多くの人に大切にされているんだろうけれど、わからないの。なので、大勢の前に出ていくと緊張するの。大切にしてもらっていても勝手に傷ついた気分に陥るかもしれなくて怖いの。
 えなちゃんは言う。私、尽くすのが好き。頑張るのって安心する。その分返ってこなくても尽くすのが好き。俺にはどちらもない。友達はいない。その心のシンプルさだけがある。


始めの箱、始めの布団

 編集の方に、内容に不足があると連絡を受けた。この連載は十九歳の蒐集箱作家が女性ふたりと同時に交際し同棲しているということを前提に進めているので、そろそろ恋愛観に関して語っても問題ないそうだ。恋愛観は特にない為、三人のプロフィールや生活を改めて書く。まず俺だ。年齢は十九歳、今年で二十歳だ。蒐集箱作家という肩書で仕事を請け負っているが、そのような職業は日本にはない。蒐集箱でインターネットを検索すると、個人のブログや成人向けのゲームのタイトルが表示される。俺が仕事として依頼を受け製作しているものは、以前にも少し書いたように標本が含まれる。個人が収集した嗜好品を加工、陳列し、箱の中にデザインする。蒐集箱と銘打っているので件数としては多くないが、アイドルのブロマイドの整理収納も行っている。依頼者の家に置く際にそれはどういった場合に見るのか、普段は仕舞うのか、あるいは飾るのか、テーマはあるか、全体のデザインを提案して進めていく。複数の品を標本にしてほしい、という依頼では標本にして箱に詰める。
 専門学校は出ていない。高等学校を卒業し、現在これだけを仕事にしている。蒐集箱作りにも標本作りにも免許の取得制度はない。トライアンドエラーと先駆者の講習で習得した。押し花やドライフラワーだって標本だ。先人の知恵は残っている。
 仕事の開始時期は、十六歳の春だ。物がよく捨てられる家庭だった。少しでも残しておくには箱に詰めて整理すると具合が良かった。当時の友達が家族旅行でポストカードをいつも買ってきており、それをホスピスに入所する祖母に見せたいと話していた。ホスピスの居室の状況を聞き、壁に掛けるタイプと、手製の本に仕立てた。ひどく喜ばれたからインスタグラムに投稿して自慢した。作家を名乗った。当時はインスタグラムの利用者はさほどではなく、私物で構成した作品を投稿しても反応は少なかったが、年々利用者は増えいわゆる「インスタ映え」が言われるようになるにつれて依頼が増加した。現在は複数のSNSアカウントを所持して運営している。一年前脱税を疑われ、その時に職業として確立すべく実家をでて作業部屋を借りた。ながめちゃんとえなちゃんと出会ってすぐだ。つまり一度引っ越したし、一緒に住もうよと提案された。ながめちゃんに。ふたりは俺の知らないところでも度々会って手を繋いだりしていたらしい。ながめちゃんの暮らすマンションにえなちゃんが同居している、といつだったかの集会で言われ、いいなあ、俺も行こうかなあ、と言って荷物や衣服を持ち込んで寝起きするようになり、ある日ながめちゃんとふたりで出かけて帰るとえなちゃんにアパート、解約の話しておいたから残った荷物とか取りにいきなよ、なんて声をかけられた。抵抗はした。それでもながめちゃんの家で風呂を上がったらお布団あるよと客用布団を並べられたことに寂しくなり、布団を取りに帰りそこを職場として道具を置いた。


善良でありたい眠り

 俺はながめちゃんやえなちゃんと同室で寝ても大丈夫なので、彼女たちの母親になりたい。
 あまり表立って言葉にすれば誤解を招きそうな事象であるので、センセーショナルなセリフで誤魔化してしまうけれど、俺が両親に虐待された理由は、すぐ癇癪を起すからだと思う。一応自分でも世間に親と自称し他称される人々の悩みを調べた。自分の時間を自由に使えず、毎日懸命に作った食事を拒否され、お菓子ばかり食べる。給料で買った綺麗な服を汚す。俺が昔気に入っていたおもちゃに「マイケル」という名前の猫のぬいぐるみがあって、この子をどこかにやると泣き喚くので、父親が公衆トイレの和式便器を漁らせてくれと市に頭を下げた出来事があった。俺がトイレに落とし、結局マイケルは返ってこなかったので、ひどく不機嫌になり父と母に泣いて怒りをぶつけた記憶がある。マイケルがとても大切だからよく覚えているだけで、おそらくそういったことは日常茶飯事だったのだろう。しかし、その記憶を境にして、アンパンマンのお菓子や菓子パンが主食になった。歯も磨かなかったし、風呂にも滅多に入らなくなった。それはそれで快適だったのだが、保育園で汚いと人に言われた。それを泣いて両親に言うと、主食は食パンになった。俺は心から両親を憎んでいる。いかなる理由があったとしても俺は大事にされてしかるべきだった。間違いない。あんな奴ら死んでしまえと今でさえ時に涙が出る。きっと彼らの大切なものの範疇を抜け出た瞬間、一息に彼らの自傷行為の対象となったのだ。俺を大切にしなくなったのはリストカットやオーバードーズと同じ種類の悪だ。そうしなければ生きていけなかったのか、秋の夜の恋心のように冷えて醒めたのかはわからない。でも俺は自棄の悪だったと思いたい。そうでなければ自分が惨めで、ちょっとした光にさえ蕁麻疹ができそうだ。
 雨の音を聞き、ふっと目が覚める。怖くてたまらなくなる。両親には直接暴言を吐かれた覚えはそうない。ただ頭の中で声が聞こえる気がする。早く風呂に入れとか、入らなくてもいいだとか、面倒くさいから食事は食パンでいいとか、いや一汁三菜食べろとか、誰かに言われている気がして、徐々に息苦しくなってくる。風呂に入っても、おかずを三品作っても、それができた、と安心するどころではなく、死んじまえ、死んじまえと声が喚いている。
 俺たちの住む家には「皆で眠る用の布団」がある。夏用の布団で、日当たりの良い部屋に敷き、思い思いの格好をして川の字になって眠る。寒い。日差しを浴びまぶたの裏を青くしながら人の呼吸を聞く喜びは水仙の香りのように胸に沁みる。甘い匂いがする。旅行先で買い取ったホテルの浴衣を身体に巻き、手を繋いだり、繋がなかったり様々に触れ合う。子どもと同室で眠る親は、十分な休息も安息もとれず、切ない思いをするらしい。俺は大丈夫なので、何があっても眠り、ふたりを守るので、彼女たちと臍の緒で繋がりたい。


経緯などなど

 改めて順序だてふたりのプロフィールを書き直そうとして、あまり書けることがないと気付いた。ふたりの名前がフィクションだと言い出せば、俺の挙動の不審さから三人で同居している事実を疑われかねない。俺は本名だし、ふたりの名前も本名、職業も事実だ。当然の帰結として、俺にこのエッセイのお鉢が回ってきたのには理由があり、そのひとつはながめちゃんが未成年の女性と淫行している教師だとインターネットで炎上したことが切っ掛けだ。彼女は顔と名前を出しているフェイスブックでえなちゃんとのキス写真を投稿した。背後に俺が写っていた。俺は街中で目立つくらい小柄だ。顔が鮮明でなかったこともあり、中学生ではと叩かれた。対応がまずかったとはわかっていたがいわゆる火消しとしてアカウントを削除し、余計に炎上した。その後更なる火消しでながめちゃんの勤める専門学校のホームページに俺の年齢、職業と、えなちゃんの年齢と、三人が同居している旨が記載される事態になり、それはそれで職員の私生活を職場が暴露するのはどうなんだと一時炎上が加速し、速やかに鎮静化した。俺もフェミニストの方のアカウントで様々に言及され、俺の一人称が「俺」で就職をせず生活している点、また被虐待児童であった点でたまに何事か断定されている。
 連載の話をいただいたのはこの「カスタム」誌が平成最後に三カ月の期限をもって配信する恋愛をテーマにした気まぐれな連載を求めていて、紙版の雑誌の初期テーマが「自己改造」だったりしたこと、現在はウェブ、紙共に読者の趣味投稿欄の流れから模型、手芸を扱う趣味雑誌となったことを考慮し前述の件も踏まえ打診をもらった。一週間以上の間を空けなければ三カ月間に何回でも原稿を渡していい決まりになっている。お気楽な話で、ここにいたるまでの期間は三週間だ。流石に他の連載陣に悪い気がする。今後は控える。
 ながめちゃんとえなちゃんのプロフィール。彼女たちに問題のない範囲で書くと、えなちゃんは生まれながらの(生まれながらという言葉が性の傾向に当てはまるかはわからない。俺は生まれながらの女だし、えなちゃんも女だが、恋愛は生まれてからするものだ)レズビアンで、ながめちゃんは男性への嫌悪より発生したレズビアンだ(この書き方もおかしい、食べ物の好みは年齢によって変わるのだから、ながめちゃんだって年齢順当に成長してきて女性を選んだだけじゃないのか)。えなちゃんは今年で二十五歳、ながめちゃんは三十六歳だ。ながめちゃんは炎上の頃と同じ専門学校に勤め続けているし、えなちゃんは家庭教師先のホームサロンの先生には袖にされてしまい、系列会社の多いサロンの一支店で働いている。ながめちゃんの好物は松前漬けと伊達巻。だから彼女はお正月が滅法好きで、趣味も掃除なので、年末から楽しみにしている。えなちゃんは料理や掃除や風呂、生活にはさほど頓着しない、キャベツ太郎やミルクケーキといった駄菓子ばかり食べる。ながめちゃんがいないと。
喜びの粋

 家族にハムスターが増えた。ジャンガリアンのスノーホワイトハムスターだ。真っ白な被毛で、掌に載せると小さな冬が生きているようだ。仄かに温かく、ちまちまと動くところが特に良い。二月の終わりより始まる、春の脈動を多分に含んだ情緒的な冬だ。名前は「たゃ」という。俺の好物がたこ焼きとたい焼きで、ふたつに共通する文字をとった。古いがネットスラングで「ちゃん」も意味するというのでそれも参考にした。とってもとってもかわいい。人によく懐く性格をしている。そして筋トレが好きで、頻繁にケージを上っている。
 エッセイを書く、なんて大それたことをしていると忘れがちだが、当たり前に、俺の生活には程々の煌めきが日々舞い降りている。俺は他人を馬鹿にしがちな性格をしており、職業からして他人と同じではないので意識しないとわからないが、俺の感性は非常にありふれたものであり、他者はすべからく尊重されるべきだ。というのも、俺のこれまでの連載でレスポンスが著しく少なかった回が虐待に関する回で、最も多くあった回がながめちゃんとえなちゃんとの出会いについて綴った回だったと編集の方に聞いたのだ。ながめちゃんとえなちゃんへ送る言葉はどれも俺の中にある最上のものでありたい。上等で、気品に溢れ、ぱちぱちとアルコールを含んだ気泡を立たせる金色の流れであるよう心掛けたい。俺はふたりに恋愛の良い部分の香りを嗅がせてもらっている気がする。沸き立つ心持というか。桜並木の下を歩く。通りは海の近くで、潮風が桜の花弁を揺らす。その時の桜色の、あまりに遥かな広がりといったら! ほんの小さな花弁が、まだ寒さを含む空気を呼吸し、熱色の光を通す眩さといったら! 
 実は俺は、ほんの些細なことで充足を感じる。安心安全。満足。とても幸福。そういった感覚を、たっぷりと、アイスクリームを舐めるみたいに味わっている。例えば、えなちゃんとながめちゃんは愛し合っているので、手を繋ぐにも目を見つめるにもキスをするにも、涙が溢れるくらいに切実に、真剣に痛そうな顔をして行っている。けれど俺は、彼女たちのどちらとどの行為をしても、胸の奥がぱあっと明るくなって、澄んだ温かい水が湧き出す気持ちになる。そう言うと、ふたりは俺を幸福な仙女ででもあるごとくに慎重に尊ぶ。この喜びの源泉がわかる。俺には長い間、人と比較する幸福がなかったのだ。
 桜の色の眩しさが嬉しい。何故って、実家にいた頃は桜を見上げはしなかったのだ。多少の友達はいたが、恋人は作らなかった。恋人のいる幸福を、愛しい相手のいる幸福を、俺は自分自身の過去の思いと比較しないで済むのだ。純粋で透明な初恋を、初恋のまま慈しむ時間が現在なのだ。初恋とはこんなにも無垢で喜びに満ちたものなのだ。何度もまた会おうと呼ばれて嬉しくて、触れれば喜んでもらえて、笑ってもらえる。強い恋をしている。


誕生日前の静けさ

 コンクリートの打ちっぱなしになった八畳の洋室に、ロングサイズのクイーンベッドと、シングルベッドを並べている。五畳の洋室はえなちゃんの部屋、六畳の和室はながめちゃんの部屋、俺の持ち物の大半は俺が契約しているアパートに置き、衣類や少しの本はながめちゃんの部屋に間借りさせてもらっている。十二畳のLDKの前にはバルコニー。窓は南向きだ。俺の育てる多肉植物の鉢と、プランターに植えられたハーブが間隔をとって置かれている。種類を増やして寄せ植えしたらどうかと提案されたが、今はする気がない。コノフィツム属のブルゲリという植物だ。暑い日はベランダから場所を移るが、今のところ日陰で様子を見ている。一度枯らしてしまった。翡翠色の球体で、水の粒に似た親しみやすさをもっている。宝石はさほど好きではないが、生きている植物が美しいのは良い。宝石だって、地中に眠るものや、採掘されたばかりの武骨な形状のものは良い。見るからに匂い立つ色気が感じられる。鉱物が地中に咲く花だとするなら、香りはきっと土と月と古い果物のに近いだろう。昼間に漂う何とも言い難い温かいオレンジのような香りは太陽の香りで、それは夏に向かっていくにつれ腐食し渇き凍っていく。月の香りはアロエの葉を湿らせ風に曝した香りだ。冬に向かうにつれて、雪と同じになる。コンクリートは年がら年中べたべたしている。夏も冬もいつも冷たく、室温を冷やしてくれてほっとする。昨年はよくここに立ち寄った。心の中に真っ白な小石が落ちる心地があり、小さな波紋を立てて水音も立てず沈んでいく。安心なのだが、一時的で非常に小さな安心で、それがあるからといって何にもならない。却って間食の冷たさに驚いて焦りが生じさえする。「ほっとする」の「ほっ」の部分が大変な速度でトンネルを通る風情だ。下降している。捕まえる意味はない。墜落してくれてありがとう。
 毎朝六時に起床する。卵をよくかき混ぜ、黄身と白身を均一にする。豆腐を切り、納豆のパックを各席に座らせ、週一度作り置きしている常備菜をジップロックコンテナより取り出す。醤油と砂糖を加えた卵液を焼き、形を整え、皿に盛る。セブンプレミアムの大根おろしを添えれば完璧だ。味噌汁と茶碗と柄の不ぞろいの器を組み合わせ、理想的な食卓を作り上げる。手を洗い、たゃの食事のペレットを足し、水を入れ替えた。ながめちゃんとえなちゃんは七時過ぎに目覚める。六時五十分より始まる占いの間に玄米茶を飲んだ。子どもの頃は、早朝、新聞配達の車がかける音楽を聴くことが好きだった。睡眠が怖かった。両親は理解できないのでどうでもいい、しかしおよそ人の起きている時間帯の眠りが怖かった。それでも眠るのならば昼中が良かった。誰しもが忙しく立ち働く世界では、俺が眠っていても無視してくれる。世界に忘れられたかった。原初に消えてしまいたかった。熱帯雨林くらい俺の生活と離れた場所ならやっと安心できる。そんな風だった俺もそろそろ二十歳になる。


誕生日

 誕生日にはちらし寿司を食べるものだと思っていた。テレビのCMで見た覚えがあったし、まだ親に大事にされていた頃にはきっと食べたのだと考えている。仕事場でヤエヤマサソリの樹脂標本の作業を終え、帰宅すると、そこはピューロランドだった。リビングのソファには淡い水色のカバーがかけられ、カーテン留めは新調されている。風船に毛糸を巻き付け球状にした飾りがテレビ台の横に置かれ、「お誕生日おめでとう」と書かれた厚紙が頭上にかかっていた。えなちゃんとながめちゃんが拍手をする。腕を取られ導かれた先に寿司ケーキがあり、中央でサーモンが薔薇の形をとっていた。驚くべきか、驚かないべきか迷い、何も言わず食卓に着く。心はまったくびっくりしてはいないのだけれど、頭がぼうっと痺れる感覚があった。誕生日プレゼントは切子グラスだ。三人分、いつもの食器棚の内側からひょっこりと現れて、白ワインを注がれていく。もう飲むのか、と思った。二十歳の誕生日の定番行事なわけだ。それなら煙草も吸いたかった。俺もいずれ酒を生活の興味と癒しの一環として嗜み、パチンコ屋でハンドルを固定したりするのだ。その想像は不安であると同時に楽しかった。ながめちゃんが寿司ケーキを切り分ける。動画に保存した。断面にはきゅうりと海老が重なっている。
 揃いの皿には、金箔の振りかけられたチョコレートミルフィーユが一切れ佇んでいた。夜空の濃紺色と白い星に、ケーキの色合いがよく似合う。夜空の一端が「甘い」という言葉を覚えて地上で固まったかのような風情があった。言葉を覚える風景がある。四月に降る牡丹雪は悲しい寒いと話すが、十二月の雪は寂しいと話す。俺が目に何かを写し取る時、眼球が涼しく呼吸をする錯覚が起こり、その後に、俺に染みついている声が色彩の一つ一つより滴り落ちる。ケージの中のたゃはトイレを荒らしており、ブルゲリは可愛らしい声で怖い、と震えていた。ケーキが甘い、怖い、恐ろしいと一音ずつなぞる。このような幻覚を丁寧に理性で捏ね上げる。軽やかな音楽のかかる室内で、大好きな恋人たちに囲まれて、俺は初めて苦しみを味わった。嬉しいのだ。たまらなく。俺の嬉しいと喜ぶ感情が身が縮む程明け透けで、こんなにも飾り気のない喜びが吹き出る事実に打ちのめされる。俺はもう嬉しいと言えば嬉しいだけの人間で、悲しいと言えば悲しいだけの人間で、思いが胸に切り立っている。こんな気持ち、誰にも共感されないまま激しく波打ち消えるのだ。わかってもらえようもない結晶なのだ。彼女たちの愛の苦しみと同じく強い苦しみを、俺はただ、自分の単純な喜びで発生させている。こんなに貧しい人間があるか。赤裸々な人間がいるか。ひたすらに恥ずかしく、ふたりにあやされて泣いた。二十歳の誕生日、白ワインは蕩ける香気で喉を滑り、食道を酔わせ、俺の嗚咽を撫でていた。


優しい子どもたちのための

 俺は何故二十歳なのだろう。編集の方とエッセイに関する打合せをしている際に、ふと考える瞬間がある。何故二十歳なのかって、二十歳だからなのだが、俺が二十歳になることと、平成が終わることにはこれといった因果関係がない、独立した事実である。雑誌を読んでいると、若い世代の優秀な文化人や競技の選手にばかりインタビューをするコーナーがあったりする。俺がここで書かせていただいているのもその内の一種類なのだと思う。だが俺の話を聞いて誰が何を思うのだろう。若い同性愛者でふたり恋人がいる女の話を、世の中の人はどう受け止めるのだ。何か期待されているのか。新しい風とか、そういうものを。そういった、俺よりも年が上の人々の頭の中にある、価値観を煌めかせるような真新しく美しい言葉と概念で、俺は話さなければいけないのだろうか。
 編集部の方とお話する機会があり、食卓を囲んだ。率直に言って、おじさん、子どもみたいだなと思った。おじさんを喜ばせる発言くらいは一応できる。自営業をしているのだから。マニュアルがあるだなんておこがましいことは流石に言わないけれど、おじさんになっても自分に興味を持ってほしいとか、優しくしてほしいとか、今言ってほしい言葉わかるでしょ、言って、みたいに思う気持ちは当然あるし、言ってあげれば明らかに喜んでいる。本当に、世間の人は頑張って生きていて、すごいですねとか頑張ってるんですねとか、惨めにならない程度に声をかけてほしいのだ。仕事で預かった品でアイドルアニメのホログラム加工を施されたドレスのカードがあって、それは機械に差し込んでアイドルに着せて楽しむらしいのだが、つくづく、こういうキラキラしたものって皆好きなんだなぁと思ってディスプレイしている。子どもの間は紙に印刷されたホログラムのキラキラで満足していて、大人になったら別のキラキラに走るのかもしれない。アイドルそのものや、音楽や、競馬やパチンコの興奮。パチンコは父親が好きだったので一回打ちに行こうと思う。天井の高いホールで、全員が台に向かいハンドルを触っている。玉は銀色で、確変したら演出のライトが光ったりする。音楽もかかる。完全に異空間で、現実ではないアトラクションだ。その上勝てば金が手に入る。好きな人もそれはいる。
 このエッセイを読む人々が、価値観を煌めかせる真新しく美しい言葉と概念を求めているとしたら、俺は応えることができる。でもそれができるのは、エッセイを読む人がとても疲れていて、癒しを求めていて、自分を古い人間だと思っているからだ。そして古い人間は自分を古い人間とは思っていないので、俺の言葉にそれらを見出せる人は、疲れていて、癒しを求めていて、自分を古い人間だと思って俺の言葉に耳を傾けてくれる優しい子どもだ。けれど俺はそんな人たちを癒すために若くて新しいのではない。疲れる前の子どもなだけだ。


反省と展開

 前回中身のないことを書いた自覚があった。所詮俺は人間の気持ちを上辺だけでしか捉えられていないのだと感じる。そう考えて本を開くと「それは被虐待児だからだよ」みたいな記述が深刻にさらっと涙の出るような良い話と続けて書いてあり、成育歴、本当に存在していたのかと驚く。虐待には様々な種類があり、根幹となるのは母親による子どもへの無関心、愛着形成の不足である、等と書かれていて、世の中の母親へのプレッシャーが並々ならぬもので俺はやはり虐待を受けても仕方がなかったのだと悟りが開ける。普通に無理じゃないだろうか。頻繁に癇癪を起して気に入りのぬいぐるみを便器に落として泣く子どもを殴りもせずにぬくぬくと育てる。母親が大変で気を張っている空間で、そんなこと気にもとめずに子どもをあやす。俺が俺の母親だったのならば殺していたかもしれない。
 恋心の寿命は三年。小説の中にそんな台詞があった。父親は母親への恋愛に醒めていたのだと思う。母親もまた同様に醒めていた。気づいたのだ。職業が職業だった。大切に大切に箱に詰めて飾った宝物、結局ゴミにならないか。ゴミだ。俺が昔自分のために拵えた蒐集箱もゴミになった。ながめちゃんやえなちゃんに知られると気を遣われるので作業部屋で纏めて処分している。小学生の頃や中学生の頃に親の目をかいくぐろうと綺麗に洗い整理し箱に詰めた俺の大好きな宝物、俺はもう全然好きじゃなかった。汚いなという感じ。そのことに対してショックは受けなかった。仕方がない。それだけ。その思いがひゅっと触手を伸ばし、俺の視界に網を張った。粘液を迸らせる。眼前が塞がれた感覚と、職種に別の気付きが絡まって朝顔の花のように育つ感覚があった。もしかして悲しく感じられた方がまっとうたっだのではないか。俺は間違ったのだろうか。被虐待児だからだろうか。どうしよう、やっぱり俺は、死んじまえ、まともにはなれないのだろうか、皆ずっと大切にできている気がする、不安だ、生きている価値がないのでは、生きている価値なんて概念はおかしいのではないだろうか、生きている事実と価値の概念は同時には存在しな、い、死んじまえ、生きるとか死ぬとかこんなにこだわって生きていることが俺の生の障碍なのではないだろうか。まともな人はこんなに、死ぬことも生きることも怖くて生きるとか死ぬとか考えたりするのか。
 わからない。
 本格的に混乱する前に匙を投げておいた。考えないでおこう。すると次々と思い浮かぶのだ。まともな人も犬とか猫とかうさぎとか勝手に家族にしておいて捨てたりするな。俺はたゃを捨てたりしないけど。大きくなって可愛くなくなったと捨てたりする。良かった。じゃあ俺もまともな部類の仲間にいれてもらえる、きっと。親も俺が可愛くなくなったのでいじめた、前は可愛かった、これを支えに生きよう、大袈裟すぎるかな。確認が怖い。


愛しているからね

 でもしなければいけない。前回の続きだ。この連載、時に無茶をする。了承願いたい。親に確認をしても意味がないとわかっている。俺は納得したいし、それにはまず俺にわかりやすい言葉を丁寧な速度で話してくれる相手が必要なのだ。嫌いな人間に何を言われても、理屈としては正しいとしか理解しない。ジョジョの奇妙な冒険で読んだ、納得とは誇りだ。俺の誇りは誰かの気まぐれな返事で保障されはしない。他者の反応を伺った言葉で人を納得させてはいけない。
 俺もわかっていることとして、人は人の考え方を左右したい場合にバイアスがかかる。ひどく良い、名言のような発言を望んだり、無暗に過激な言葉を使って恫喝する。それは修飾であってそもそも存在の意味もさほどない。文章が美しい、という時、それは結構形容詞の使い方に優れている、あるいは人を良い気分にさせる結論を用意している、といった意味だったりする。楽しい、嬉しいだけではなく悲しみや切なさは心の豊かさを刺激したと錯覚させる。俺も決着がほしい。決着から納得し人生が発展していけるのなら幸せだと思う。でもそういった幸せは稀有だ。だからその幸せを栽培する。
 まともな人、感情に流される罪悪感に、「自分は狂っているのか」の苦しみは付きまとっても、「自分は狂っているから」の前提はつかないかもしれない問題。狂気の感覚に鈍いのじゃないだろうか。俺の場合、狂気は触手の形状をしており、粘液が侵食性でしかも俺の自我から発生している。くるっと唐突に意地悪なことを思いつき、衝動が張り裂け、触手が一帯を食い荒らす。紛れもなく俺の自我に狂いはあり、自我と同じ立ち位置から気分で襲い掛かってくる。恐怖を感じる。身が竦む。強烈にスーパーエゴのハーブを効かせてシットダウンさせている。普段は。まともな人とはハーブの使用量が違う。彼らより抑制できているだろうし、ハーブをキメすぎてぐるぐるにスーパーエゴに依存している。ちょっと悪いことしただけでスーパーエゴが効かなかったと自分を責め、同時にもっと自制をかけようと必要のない制限をかけてお守りを大量に持ったり理解不能な習慣をつけたり彼氏彼女を沢山作って自分を罰する目を増やそうとする。甘やかしてくれる目とか。それぞれにそれなりに理由も意味もある行為だ。安心できる。日常は自分の狂いが不安なのだ。「自分の狂いが今顔を出したらどうしよう」、その不安を、恐怖だけで心が出力する。世の中は皆狂っているのだから別にいいだろ、とは思わない。俺の感じる狂いはその実単なる世界における「魔が差した」の「魔」だ。わかっていても瞬時に判断がつかない。俺は自他の境界が曖昧だ。なので、大きな言葉の括りに入りたがる。人間。世の中。世界。そこまで広げれば「俺」と「他」の関係は消える。そうして距離をとって、愛する人を俺から守っている。愛しているから。


可愛い人

 三人で恋愛。これは妥協点であり究極だ。大好きな人を守ってあげられる。愛するあなたを守ってあげたい。誰よりも何よりも俺からだよ。愛する人が自分の全てであったり、心の重要な関心事であるアンタ、聴いてるか、アンタだよ。アンタは醜い悪だよ。根源的な悪だ。彼女を自身からもぎ取られる痛みが痛むように自身を調教した罪だ。愛する人の望むアンタを自分で勝手に作り変えてしまって、それで目覚めてしまって、一切構わないんだろう。両想いになった時点でふたりは別の人間に変わるんだよ。始まるんだ、悪辣が。別に恋人同士になったってアンタはアンタの恋人を傷つけないと思っただろう。そうだと思う。でも俺は違う。俺は怖いんだ。恋人に俺の「魔」も俺のスーパーエゴもお守させたくない。それらで俺の機嫌をとるような行為を、例え恋人が良しとしても良しとしたくない。恋人の求める俺の形をきちんと把握して、俺にこう言われたらどんなに嬉しいだろう、ということだけ話してあげたい。だってそれが出来る人、いる。俺は嬉しがりだから、実家を離れて会話した人たち皆が俺を大切にしてくれて、俺の喜ぶことばかり話しかけてくれてびっくりした。そういう人の想定する俺はきっとこんな俺だろう、という俺は土台から彼女のお守をしていない。俺もアンタも恋の奴隷の形に恋人への変態をしなくていいのだ。
 つまりどうするとより良いのか。恋の奴隷にならないよう、自分を律するのだ。けれどそれではまた狂人に逆戻りだ。恋人を複数作ればいい。作れるものなら。ふたりの人間を同時に愛する。可能なのか。不可能だと思う方がおかしい。誰かを好きになって、他の誰かも同じくらい良いと思う場合がある。人は多面体なんだし、各面で別の相手を好きになっても良い。俺はながめちゃんとえなちゃんの母親になりたい。特にながめちゃんにはその欲求が強い。彼女はとにかく生真面目で、友達のために「おかあさんといっしょ」のキャラクターの名前だって覚えている。そうして、俺に対してもお母さん風の態度をとることがある。人の幸せに真剣になりがち。彼女のお母さんになれたら俺は嬉しい。ながめちゃんがずぼらになれる瞬間を見守って、時に叱れたら嬉しい。そのくらい、ながめちゃん自身の幸せに無頓着でいられる幸せをあげてみたい。俺も救われる気がする。
 しかし、そんな欲求をながめちゃんに向けているだなんて、ながめちゃんが可哀想だから、ながめちゃんの大好きなえなちゃんに愛されて面倒をみてもらいたい。えなちゃんが好きだ。俺を雑に甘やかしてくれるし、何でも知っている。彼女は俺を舐め切っているが、それでも尊重しようとする思いはあり、ながめちゃんのお母さん風の態度を律する。ながめちゃんはえなちゃんの可愛い恋人なので、こんなに可愛い人が可愛い英理を尊重しないなんておかしいよね。と言葉にさえする。えなちゃんはとてもとても凶器のように可愛らしい。


わかばの灰

 ながめちゃんとえなちゃんは愛し合っている。ふたりは愛し合う恋人同士のすることを全部俺の目の前で行っている。舌を絡め合う深いキスも、汗ばんだ手を重ね合い指を絡ませて貝を作ることも、首筋にきつく唇を落として鬱血を作ることも、柔らかな乳房を探り合って肋骨をくすぐり合うセックスも、びしょ濡れの性器を擦り合わせるセックスも、疑似的にペニスを股間につけて胎内の奥深くに傷を作るセックスも。全部している。記念日の喧嘩、俺には言わない秘密、ふたりきりのデート、俺がいなければもっと互いに深く気ままに愛し合えるのじゃないかと思っていると知っている。でもふたりには俺が必要みたいなのだ。作業部屋に泊まり込み、アオダイショウの骨格標本を作っている晩だった。ピンセットと鋏を使って皮を剥ぎ、頭部を外す。肉を除く作業は手で行う。使い捨てのゴム手袋を二重にはめ、マスクを二枚つける。袖のない服とぴったりとしたパンツの上から、割烹着を着た。脊椎が見えるくらいまでを取り除くことが目標だ。青魚よりも野性味のある血の匂いが立ち上る。作業用の深いバットを取り換え、アオダイショウを大型の水槽に移す。次亜塩素酸ナトリウム入りの漂白剤を希釈した液体を注ぎ、肉を溶かしていく。溶液は薄めに作り、数回の段階を踏んで最終的に二倍希釈のものを注ぐようにする。室内の換気が必要だ。作業部屋の床には吸水性の高いシートを張り、その上に作業スペースにのみ板を敷いている。換気扇を回し、窓を開けた。月が見えた。骨の色をしている。手袋を捨て、インスタントコーヒーを淹れた。煙草をポケットより取り出す。わかばだ。割烹着を洗濯機に放り込み、ベランダに出た。コーヒーを飲み干す。カップは足元に置いた。火を点ける。
 スマートフォンが鳴った。
 えなちゃんだった。
「仕事してる? ながめがエッチのあと呼吸してないで寝てるんだけど」
「どうも。ながめちゃん元々無呼吸で寝てる時があるよ。知らないんだ? えなちゃんも寝言言ってるのに。どっちかというとそっちのが心配になるよ。毎日だもん」
「なんて言ってる? 英理がそう言うならながめは心配しないことにする」
「唸ってる。俺一番最後に寝付くからわかる」
 少し話した。えなちゃんが唐突に、英理、好きだ、と零す。英理はエッチしてもトんじゃったりしなくて安心できる。ながめのすぐ気持ちよくなってトんじゃうところ、好きだけど、置き去りにされてるみたいで終わった後すごく悲しく疲れる。抱きしめられると安心するのはながめだけど、英理はいつまでも起きててくれて黒猫みたいで好き。ながめとの愛の全てを慰めてくれる。そういう愛がたまらなくなる。私もながめも。わかばの灰が落ちる。


強く在る利便性

「慰めのために俺を傍に置いてるなら苦しいからやめてほしいんだけど、たぶんそういうことじゃないのはわかる。ながめちゃんに抱きしめられると不安になるんだ。この安心がすぐなくなる不安がある。だから抱きしめてくれない安心があると心強いんでしょ」
 月が燃えている。背後で、アオダイショウがゆっくりと骨だけになっていく。星が白い。空には星があり、月があり、太陽があり、人は愛する相手を星や月や太陽に例える。花でさえ、君は俺の人生を彩る大切な花だよ、なんて台詞に使われれば、所詮は添え物の趣がある。見上げられるものが尊い。憧れられるものが美しい。その通りだ。でも花の一輪を贈られて、明日も元気でいようと、勇気づけてもらえるのに、何故花は星になりえないのだ。きっと俺たちは遠くを見上げ、美しさに疲れたいのだ。切なさや悲しさに摩耗したいのだ。自分が綺麗なものに消費されると、有意義な存在になれたと感じるのだ。意味のある存在として使い切られたい欲求がある。けれどそれは、なんと恐ろしい愛だろう。
「俺、えなちゃんを抱きしめてないんじゃないよ。えなちゃん俺を子どもだと思ってるからそんなに安心できるんだよ。ながめちゃんもそうだと思う。俺の愛が子どもの愛と思ってるから楽なんだよ。恋にはね、子どもの愛が必要な人もいるし、子どもの愛しか持てない人もいる。それが俺だよ。俺はそんな愛を持ちたいと思っている。えなちゃんとながめちゃんを楽に出来ているんなら、俺はすごくすごく嬉しいよ」
 煙草の火を消した。
「俺に勇気づけられてくれてありがとう」
 こう言う時、俺だって消費されている。俺の情報や属性がえなちゃんの思う俺の全てに昇華されている。ただ俺は情報を含んだ総合的な俺であり、生き物だ。情報の部分だけを掠め取られたって、情報そのものも減りはしない。心を傾けている。彼女の方に注がれている。その心に含まれる愛情だってえなちゃんとながめちゃんによって満ちたものなので、中身が入れ替わり、新たに補充されるのみで、全然平気なのだ。俺はふたりを許すし、ふたりに許されたい。俺を構成する情報を勝手に消費しても許すし、ながめちゃんを構成する情報をもとに俺の思うながめちゃんの像を作り愛しても許されたい。俺は全然損なわれない。えなちゃんも全然損なわれない。そう思い、心を決めて、互いの愛情を勝手に糧にしたり不満に思ったり好き好きに反応して様々な気持ちの喚起に変えて、それを悪びれず還元だと言い切れる許しがほしい。俺の恋愛は、この感情は、彼女たちを規定し直し、俺の思いを好きな分だけ愛だと言い切るから強い。その無造作さを愛だと許されているから強い。この強さは何故入用なのか。人は誰しも強いので、互いに強いと認め合った方が共に幸福でいられるのだ。


実感のないまま存在する人生の一部とほとんど

 結局わかばは馴染めなかった。一度タイミングを逃してしまうとずるずると面倒くさくなってしまうもので、口に咥え火を点ける都度に、呼吸しないで眠るながめちゃんの姿や、珍しく聡明さを失ったえなちゃんの姿が浮かび数口でやめた。エッセイとはいえ赤裸々に書きすぎた気持ちはあるが、俺の言葉に癒しを求める人々にはこういった刺激もまた当然の権利として流されるのだろう。年齢の異なる女三人で暮らしていて、邪推される機会もままある。外連味で済まされる範囲であるなら過激さや露悪趣味で自分を守ってもいい。俺はそこそこ「痛い女」と言われるし、ながめちゃんは「ババア」と言われ、えなちゃんは「女より男の方が良いって知らない」と言われる。女からも男からも言われるので性差の話にはさほど興味がない。南方熊楠関連の話で刺激的な性行為について「女がペニスを模した張り型で男を突くのが一番エロいよね」みたいな言及があったというのをどこかで読んだ覚えがあるが、俺も今後人生を歩んでいくに連れて異性に関心を抱いたとして、きっとあるんだろうな、女には抱かれたいけど男は抱く方がいいなとかそういった好み。他人からすると消費の対象なんだろうがその時に俺の好きになった相手をブスとかババアとか異性の良さを知らない無知な奴とか言われたくないな。愛する相手でも消費せずにはいられないというのは人間は物質的に交わることの出来ない生き物なので避けられないのだろうけれど、すれ違いざまに意味もなく殴っていくなよ。俺と真剣に関わる気がないならいちいち俺の自尊心まで損なおうと思うなよな。仕方ないんだろうが。自分の言動で誰かに影響与えられたらスーパーヒーローだし、良い影響与えても悪い影響与えてもそんなにわからないし変わらないし、誰かを傷つけた分だけスペシャルなスーパーヒーローだよ。それはそれで愛しい。
 わかばの話だ。味。これが辛いと表現される味なのか、と素直に驚いた。嫌いじゃない。けれど期待していたものは得られなかった。俺は煙草ってのは吸うと落ち着いたり頭がすっきりするものだとばかり思い込んでいた。しなかったのだ。初めてのどきどきが勝ったのかもしれない。想像していたより良くも悪くもない。それが良くなかった。思っていたよりも煙草、普通だったのだ。親は父の方がすぱすぱやっていて、母の方も一時期たまに貰って吸っていた。なので煙草にはパチンコと並んで殿堂入りのクソさを感じていたのだ。俺をいじめる傍らすぱすぱやってしまうくらいとんでもない代物なんだろうと。違った。かなり普通の嗜好品だしこれそのものは良くもなく悪くもなくすこぶるどうでもいい。親がこれを好んでいた性格の部分もおそらく他者とさほど変わりなくどうでもいい普通の気持ちなのだろう。だから俺は嫌いになった。徐々に嫌いになっていくのだろう。こうして俺の新たな部分が作られていく。生きている実感のない部分の人生だ。そんなものが多すぎるよ。


春満ちて破れる

 散り際の桜の枝につく、葉の淡い緑色が美しい。葉脈は黄土色を帯びたその緑の透明感と質感を際立たせる。アルコールの味のようだ。通りには桜の花弁が吹き寄せられてそこだけアクリル絵の具を溜めたみたいだ。花弁の集まった様には波の趣がある。ほのほのと陰影が灯りある筈のない鮮やかな赤色や青色を幻視する。アスファルトの青みもより白さが重なって、今歩く道が、視線を向けた道が端から素晴らしい陶器やガラスに変化したかのように思われる。花の香りもまたきつく、靴に踏まれて漏らしただろう生の発露の芳醇な甘さが風にぐっと濃く混じる。吸い込み、頭を抜けると目を醒ます爽やかさと陶然とした心地が鼻を目を中心に攪拌される。ちょっと混乱するほどに華々しい。透かされた葉の影が肌の上を転々と歩く楽しささえ感じられる。春は幻覚の楽しさ。雪解けの厳しい切なさを始まって、あらゆる言葉の枕に春、春といちいちつく賑やかさ。花筏を横切る水鳥ののどかな直線上を毎日、毎日見つめるごとき快さで酒を飲み、桜の終わりにその一連を思い起こし再度つのる楽しさ。あの切なさも、厳しさものどかさも快さも、すべからく散った花弁に転写されて、梅雨にいたるまでを眩惑する。それらが積もり積もって、年が過ぎるごと春は楽しい。楽しいを呼吸している。春は眩惑の楽しさ。
 春は眩惑の楽しさ。
 大切な事を見逃しそうになり、足を止める痛さ。可愛い、と恋人に言われ、恋人に言って気づく感情がある。自転車をこぎ、パチンコ屋のドアをくぐってみた。体育館めいたドーム型の天井の下、室内はけれど暗かった。持ち合わせがなかったので適当に打った。真実訳もわからなかった。インターネットであらかじめ勉強していた。全然わからなかったのだが。雰囲気は面白い。意外と年配の人が長く台の前に座っていたりして、白髪頭のお爺さんが俺と同じで自転車で来たんだろうなといった足腰の強さだった。俺のつぎ込んだ金額はあっと言う間にいなくなり、顔に手をあてて隣のそのお爺さんを見たりハンドルに触れる時間が長かった。とにかくスピードがすごい。ぎらぎらっと玉や台が輝いてから穴のような箇所に吸い込まれるまでの時間がはやすぎる。今の時代、アニメやドラマをモチーフにした台が沢山出ている。シナリオがわかるほどに勝てる経験がまず面白いだろうと分析した。異次元なのだ。眩暈がする。ハンドルを握る手の震えと、緊張感が玉の射出の様子を目で追わせる。穴が小さいところ、玉がつかまってぐるぐるぐるっと回るコーナーがあったりするところが非常な賢さで、いけないものを覗いている気分が味わえる。なるほどと頷く動作が先で、驚きのあまり煙草と同じ嫌悪はまるでなかった。台を離れ、遠くより眺める。見慣れた後ろ姿があった。ながめちゃんだ。


流れる体

「あっ……! ああっ、やだ、いたの……?」
 英理ちゃん、と呼ぶ口にはチュッパチャップスが突っ込まれていた。煙草より安いから。四十円だ。ながめちゃんは文章化しにくい言語を続けざまに幾つか話し、再度台に集中した。彼女の背後には山と玉の積まれたケースが三つ重なっていた。ながめちゃんは勿論いつも通りに綺麗に化粧をしている。髪も丁寧に櫛を入れ、三つ編みにしてサイドに寄せていた。彼女の周囲にだけ、光が流線型の、目に見える形状で降り注いでいる印象があった。口の中にある飴玉は小さい。片手をハンドルに添えたまま、がりがりと噛んで、棒を摘まんだ。
「えなちゃんとよく打ってるんだよね……。私強いの」
「なんで打ってるの。俺これ嫌いなんだけど。あ、いや、嫌いじゃない、けど」
 ながめちゃんは真剣な顔をして俺を見る。呼び出しボタンを押した。店員が玉を計測する。カードを受け取り、カウンターへと持っていく。特殊景品と呼ぶチップを景品交換所で現金に替えた。明らかに躊躇って袖を引かれた。棒は捨てた。ながめちゃんは俺の両親の件は知っている。知りすぎている、と俺が思うほどには感情移入していた。そうして俺は白けてしまう。俺が煙草を嫌いになっていくことも、パチンコが案外と嫌いじゃないことも、彼女には大した問題じゃないのだろう。俺の心からはまったく独立して、ながめちゃんは俺を大切にしているのだ。有難いとも辛いとも感じなかった。これまでは。でも何事かを感じるべきなのだろう。ほらまたスーパーエゴがべきとか言ったぞ。パチンコ、嫌いじゃないのに俺は嫌いだと今口にした。嫌いだと言ってあげたかった。ここまで自分の子どもの頃に無体を働ける神経をしているとは思ってななくて困惑している。俺は俺が怖い。恋人に対して「言ってあげたい」だなんて被虐待児としての思い上がりのレベルが高い。笑ってしまう。全然笑えない。別に煙草は普通に嫌いだしパチンコは普通にこれから好きになれる。この感情は全然怖くない。俺が怖いのはながめちゃんの期待を裏切ることなのだろうか。それが心の全部ではない。とりあえず俺の話をするべきではない。ながめちゃんの次の言葉を待たないと。
「……わかろうと努力したんだけど、たぶん少ししかその努力をする気もなかったんだと、わかった。あ、あのね、英理ちゃん、愛してるよっ」
 駐輪場に桜が降っていた。「秒速5センチメートル」というタイトルの映画があったな。
「私、パチンコ興味ないっ! あ、でも、えなちゃんよりはパチンコちゃんとやってます……。そんな、そんな中毒等ではなくて、暇潰すのに田舎、パチンコしかないからっ。でも英理ちゃんのこと思ったらパチンコなんて打てないんだけどっ、暇なとき、ホント暇で暇で、ずっと掃除する自分が嫌なのっ。なので打ってました! 私自分が嫌……」


春光ながめ

「きっとこれが私の心にずっと流れているテーマみたいなものなのだけれど、私自分が嫌で自分を性的に消費する男性から離れて結果的に女性に恋をするようになったし、私のこと好きになってほしいのにまともに相手してほしくないから、えなちゃんと英理ちゃんと三人で恋愛しているのだと思う。これが全部ではなくてふたりともきちんと好きだけど、あまり自覚ないなりにそれが切っ掛けだったと思う。でもきちんとしてる人がとても好きなので、英理ちゃんにはきちんとしてる私の友達を見せてあげたかった」
 正直に書くと、ながめちゃんのこの辺りの発言はどうでもいい。というか今までのエッセイでもえなちゃんやながめちゃんの言葉はすごくあやふやな記憶で書いている。よほど短いフレーズだったら場面も合わせて正確に記述可能なくらいに覚えているが、これは長すぎて覚えてないし、小さい「つ」の入れ方や句読点の感じを察して彼女の様子を記録しておくことに注力している。自分と恋人の気持ちの部分に関しては、きっと、おそらくという言葉の多いエッセイだねと思う人も多いだろう。申し訳ない。どうしてもそうなる。更に身も蓋もないことを書くとながめちゃんのこの辺りの発言はどうでもいいがそんなにどうでもよくない。恋人の真剣な言葉を真剣に捉えない無作法を俺はしない。だから心を傾けて聴いた。でも人と人は理解し合えないだとか俺には彼女の気持ちは理解できないとか格好いい気持ちを感得する以前に本当にこれ俺には関係ないやつだ。だって俺ながめちゃんのこと好きなので関係ないぞ。その断絶が悲しい、切ないと思わなくもない。どうやったって好きな相手と交わることは出来ない。彼女の求める理解を理解しようとしたところで、俺の定義するながめちゃんは実体のながめちゃんと異なっている。俺の架空のながめちゃんが無価値だとはまったく思わない。ではどうすればいいのか。こんなにも俺にとって関係ない後悔を続ける恋人、尊重してあげるってどうすればいい。世間的には抱きしめてキスしたりするのだろう。ひどく単純だ。俺はしたくない。優しい言葉をかけるなんて出来ない。人の心に寄り添うって大変なのだ。結果的に完璧に心に寄り添えたと後々の情報をもとに客観で判断できるのみだ。嫌だ俺はながめちゃんを抱きしめたくない。抱きしめるべきだ。べきとすぐ言うスーパーエゴは楽でいいな。辛い、辛い、辛い。
 俺はこの場でながめちゃんを抱きしめる判断をする俺が嫌いだ。もっと独創的でありたかったのに俺が貧しいから。被虐待児で感情の発露にも理解にも疎いからこうする。嫌だしたくない。これは果てしなく正解なのかもしれない。正解だとしても嫌だ。こんな、だってやっぱり。ながめちゃんは。おそらくえなちゃんも。
 俺とは別人だよ。愛しても愛した分だけ満たされるってことはない。抱きしめた。


木崎英理

 同性を好きになっても異性を好きになっても、相手を理解する日は絶対に来ないし、しんどいだけだ。同性を好きになると、生産性がないって意見が必ず出てくる。じゃあながめちゃんが俺に会わせたいと思った子どもさんとかは親の生産物かよ。違うでしょ。愛し合ってセックスしてたら自然と子どもが出来る、なんてお花畑みたいなこと言わないよ。子どもちゃんとビジネスでもないのに調べて育てて愛情もとうと努力してるだろ。大方は。大方はさ。俺だって一応わかってるつもりではいたんだよ。俺の親が異常なんだろ。わかってるよ。おかしいんだよ。しんどくて子ども殴っちゃう親はいるよ。自分がしんどい時に子どもに八つ当たりする親もいるよ。でもずっと子どもほったらかしてパチンコ行けたり、継続的に殴るのが癖になっちゃった親はおかしいんだよ。そこまでいったら俺が癇癪持ちだったなんて事実半分くらいは大目に見てもらえるよ。俺悪くないんだよ。俺悪くないのに、親が俺を虐待する以外はきっと普通の人だっただろうから、俺が悪いことにしておいた方が全然楽だった。そんなことばっかりだよ。ながめちゃんを理解できないって思うとしんどくてしんどくて泣きそうだ。もう我慢できなくて泣いちゃったし。彼女は俺を理解してなくて俺にとってどうでもいいことを蔑ろにしようかどうしようか迷って、いいや! とさっぱり蔑ろにして、そんなの本当にどうでもいいのにこんな自分は嫌い、と思って苦しんでいる。のだと思う。だってそもそもながめちゃんは自分が嫌いなんだろうから。行動の原理が「自分が嫌い」になっているのかもしれない。そんな人にどうやったら寄り添えるの。こんなの愛で救える話じゃないじゃん。俺を好きになってくれたのは「自分を嫌いな春光ながめ」なのに。
 なんにもなんにも意味ないってわかってるのに人を好きでいなければいけないのって辛いだろうが! 意味がないってことがそんなにダメなの? 意味がなければ人を好きになってはいけないのとか言いたくなる人はとりあえず黙って聞いてほしい。相手に伝わらないまま続いていく自分の献身とか愛情って本当に愛情で献身なのかわからなくないか? 空回りなんだけど? 自分の愛情が愛情なのかちゃんと自信持てるの? 何故それは愛情なんだ? 気持ちいいから? 柔らかくて温かな気持ちだから? 温かな愛情しか知らないのか? 厳しい冷たい身を律するような愛情だってあってもいいだろう。どんなに厳しくても構わなかった、この人は俺を愛してくれているから、と俺が思えるのは、その人のくれた愛情が俺に希望を与えてくれるからだ。意味ない愛情があるってこともわかってるよ。好きなフィギュアスケーターの怪我が治りますようにとそんな気分で毎日身体に良いスムージー作って飲んでしまうなんてのも立派な愛情だよ。祈りだよ。だけどだけど恋人相手に毎日祈り捧げるって俺の好きな愛情じゃないし俺の注ぎたい愛情じゃない。恋人ってなんなんだ。


木崎英理2

「……抱きしめてくれてありがとう。キスしていい? 英理ちゃんを喜ばせてあげたい」
 でも喜ばないだろうね。いつもそんな風に葛藤するの、とながめちゃんは言った。彼女の長い腕が俺の腰に回され、顔が顔を覆い、長い髪が俺の肩の上でさらさらと揺れた。暗い小部屋に閉じ込められ、その中から外の光を覗く心地だった。ながめちゃんの唇は震え、遠慮がちにこちらの唇の上を滑り、一拍置いて舌が差し出された。彼女は伏し目から黒曜石のような溺れるばかりの輝きをこぼし、哀れにもぴたりと停止した。可哀そうで美しいものを見る時、俺は小動物や子どもの存在を意識し、よくそれらに例える。たゃを掌にのせると、小さくて震えていてたまらない気持ちになる。沸き上がる波涛に似た涼やかな流れに身を浸す。ながめちゃんの舌に舌を絡めた。彼女の唾液を啜った。
「私、英理ちゃんのこと子どもとしか思えない。えなちゃんも格好いいなあ素敵だなあとばかり思ってる。こんな非人情はない。この非人情を忘れさせてくれる可愛さを英理ちゃんに見てる。自分のそこは大好き。英理ちゃん大好き。英理ちゃん私を好きになってくれてありがとう。英理ちゃんにはいつも沢山ありがとうって思ってる。私英理ちゃんを好きでいると私の好きな自分のダメさを見てられる。だから英理ちゃんを救ってあげたい」
「英理ちゃんって確かにいい子だったんだよ。前は。でも最近そこそこダメな大人。そこも好き。なんでかわからないけど好き」
 彼女が俺に頬ずりする。
「今私を抱きしめようとかキスしてあげようとか思った心の部分って、英理ちゃんのずるい部分だね。そこ好き。私をいなしやがって。そんな男みたいに。でもたぶんそれが恋人として正しいと判断したんだろうね。そうです。すごく嬉しかったよ。強張った顔してたね。好きだよ。私こんなこと言いたくない。ああでも、好きだ……」
 ながめちゃんは力が強い。ぎゅっと抱きしめられれば苦しくなる。非常に苦しい。苦しかった。この文章は後になって思い出して書いているので色々とわかろうと努力している。ながめちゃんは俺を救いたいと思っていた。俺はいい子であろうとしているし、いい子だったが、大人っぽくダメな部分もあって、彼女の望む存在ではなくなろうとしている。ながめちゃんはそれが心底嫌なのだろうが、彼女は俺に大人だよとどうしても伝えたかった。もう虐待児じゃないんだよ。そんな意味なんだと思う。けれど俺に素直にそう言っても無駄だと思った。俺は虐待児のままでいたいだろうから? きっとそうだ。で、俺が虐待児のままでいたいと思っているのは俺のずるい大人の部分だ。俺はまともな人か?
「英理ちゃんを好きだなんて悔しくて死んじゃいたい……」


松前江奈

「英理はそんなにダメじゃないと思うよ。ずるくもないよ。ながめが面倒くさく考えてるだけ。でも私はそういう面倒くさいながめもながめの発言をまともにとって私に訊きにくる英理も好き。ふたりともそういうところが子どもっぽいというか。たゃちゃんみたいな小動物ぽさあってたまんないね。可愛いね」
 玉子焼き機に入れたと溶き卵をフライ返しで端に寄せる。弱火で、時間をかけて作業していた。えなちゃんは珍しく俺より早く起きており、重箱を出していなり寿司を詰めていた。買ってきた柴漬け、塩コショウで焼いただけのウインナー、昨晩の残りの煮物と、電子レンジでチンした唐揚げ。水筒に熱湯を注ぎ、フリーズドライの味噌汁の包みを手拭いで包む。朝ご飯だよと器に盛られた。どれもおいしかった。彼女は葉桜を描いたネイルチップで指を飾っていた。薄く化粧した中で口紅の色が濃い。俺のルージュだ。借りたよ。いい色だね。
「ただこういうこと思ってるのながめは嫌だと思う。面倒くさがるのと人の言うことをまともに取らないのは違うと思うんだけど、どっちかわかんないもんね。それは理解できるんだけどやっぱりまあ……ムカつくな。いや可愛いって言葉で黙らせようとする私が性格悪いんだわそうなんだよ。でもやっぱムカつくから可愛いって言っとかないとね。あのババア」
 たゃがゲージを上る。重力の法則が狂っている。ひくひく動く鼻を上にして逆さまの世界を楽しんでいる。食卓の上にはながめちゃんが買ってきた桜がまだ見事な花をつけている。室内の灯りで見る花も素晴らしい。大きな木に咲く花の見事さは脳天よりまるごと艶な色に染めてくる雰囲気で賑やかに催眠術めいているが、小さな枝についた花の震えは可憐な悲しさだ。ながめちゃんをババアと呼ぶえなちゃんは嫌いだった。ので嫌いだと口にした。えなちゃんはコンロの火を止め、目を瞑って長く呻いた。卵焼きを切る。
「ごめん、英理。でも英理のこともちゃんとガキって思ってるから許してね。英理やっぱいい子だね。英理といるとちょっと安心する。私はながめのこと、可愛いけど、好きだけど、英理と出会ったあのネイルチップのことを介して会ってなかったら興味なかったし好きにならなかったよ。だからながめが英理を不安にさせていたらと思うとすごく嫉妬する」
 えなちゃんは俺に対してほとんどいつも優しい。俺はそれが物足りない。ときもある。ながめちゃんをババアと言うように俺をガキだと思ってるならこのガキ、と言ってほしいし、そんな彼女に俺も俺のことバカにしてんじゃねえよと泣いてみたい。けれど、えなちゃんはそうしたいと望んでいないと思う。どうせ俺も本心で望んでないと思う。いや、望んでいる。どちらにせよしないだろう。たまに惨めだと思う。えなちゃんは葉桜を観に友達と出かける。
「私、英理とながめのこと好きだって気づいた時、嬉しかったよ」


四月二十九日

 今。四月二十九日だ。一週間以上間を空けなければ何回でも文章を送り付けていいが、お気づきの方へ、お気づきの通り一日のうちに何回も文章を送ってはいけないという決まりだった。更新頻度がわやくちゃなエッセイで申し訳ない。明日最後の記事を配信し、この「ロードラブチップス」は終了する。いい感じにタイトルを回収する内容にしたかったが、できないので説明する。というか初回のエッセイの件も説明していく。あれ俺の家の話じゃないからな。タイトルにも書いてるけど。過去回想というものでもない。半分くらいは事実の話で、あとは創作した。スカしたかったのだ。家のモデルはある。ながめちゃんの実家だ。彼女も俺と同じように現在実家や両親との付き合いを一切断っている。ただ思うところあり、三人でまだ同棲せず付き合っていた頃にこっそり庭に侵入した。それがあの家と庭だ。ながめちゃんの両親は本人曰くちゃんとした人なんだそうだが、一時期彼女が職場で性的な嫌がらせを受けた際に「お前に隙があるから」云々、と言ったという。ながめちゃんはそれまで両親のことを非常に尊敬し愛してきた。けれどその言葉を切っ掛けにふとした際に家族に苛立ちが募るようになった。両親は良い人間だと思っている。でも生涯根に持ってしまうだろうと感じた。ゆえに縁を切った。ついでにその後、今までヘテロセクシャルだったことが嘘だったかのように女性に惹かれるようになり、女性と交際してみた。そこで「私、女の人が好きだ」と理解した。本当に「理解した」といった感覚だったらしい。接続されていなかった箇所にパーツが嵌り、思考が流れ出した。その部分は、昔は繋がっていたのだ、と彼女は言う。経年劣化なのか進化なのか成長なのか、知らないけど外れちゃってたの。
 本当に家族や両親が憎いのではないのだ。穏便に縁切りの手紙を置いていきたかった。手紙と鍵を添えて、生菓子の包みとおこわの入った重箱を風呂敷に包み、人のいない時間帯を狙って訪ねた。紫陽花の咲く、初夏の終わりだった。荒れた庭だ、とえなちゃんが草を毟った。彼女は真っ赤なマニキュアと自分の爪に直接塗っていた。
 曇った空だった。薄い灰色を含んだ白色の雲が、薄さを保ちながら重なり、こぶを作り、折りたたまれていた。風は湿気を帯びて冷たく、紫陽花の生々しい植物の香りが立ち込めていた。濾過した雨に似た香りだ。庭には紫陽花だけでなく、松の木とともに地に植えられ孤独に立ちすくむ椿の姿があった。砂利の敷かれたスペースを、鈴蘭の鉢が囲んでいる。ながめちゃんが玄関の鍵を開ける。俺は庭の端で立ち竦んでいた。横から雨が降ってきた。隣家の人が花に水をやっている。えなちゃんの爪が泥に汚れる。
「私、お父さんとお母さんとは別の素敵なものを作っていきます」とながめちゃんは手紙にしたためた。恋人のふたりはその良いものの先っちょです。


建築

 たゃがおがくずやペーパーサンドを寝床に持ち込み、住環境を整えている。ハムスター用の可愛いベッドや、砂風呂を自力で動かして、ケージの中を好みの空間にデザインしている。様子を見て、二、三日置きに中の物を取り出して掃除しているが、位置はそのままにして戻している。ベッドの中に宝物だろう向日葵の種を隠していた。汚れのみ取り除く。ハムスターは巣作りに関して我儘で、天賦の才がある。蒐集の才だ。
 今、四月三十日で、俺たちは平成最後の日にどこかに行こうと準備している。つまり行き先をまったく設定しておらず、行き当たりばったりでバスに乗る。こういった場合、往々にして今住んでいる旧繁華街を出て市内の中心部を一周し、現繁華街の映画館に行ったりする。駅のバスターミナルを始まり市内を走るバスは重要文化財である橋の上を通り、海と川の混じり合う水の色を乗客に見せて鳩の喉のようにタイヤを鳴らす。あるいは海沿いの道をひた走り波止場を越え、港を臨む病院の前で停車する。あるいは分水路を抜けて中学校の前へ。あるいは水族館へ。あるいは……。俺の住む街は大きな川に区切られ、孤島の趣で地図に横たわっている。病院や学校は決まってバスの停留所として選ばれている。俺の住む街は田舎で、子どもが少なく、老人が多くて、夢を叶えにここに住もうと決める人は誰もいない街だ。
 けれど、俺はここに住んでいる。夢とか、人並みにはあるし、人並みに、夢に対し不真面目だ。とりあえず健康で、えなちゃんとながめちゃんがいて、何もない場所を何もないと楽しみ諦める気安さで生活している。俺はあまりに単純だから。親に虐待されていたことが関係しているのかいないのか、人の気持ちがわからず、その割にこう言えば喜んでもらえるみたいな悟りはあり、でもやっぱり人の気持ちがわからなくてながめちゃんもえなちゃんも俺を理解してはくれず、俺も、ながめちゃんの気持ちがわからずえなちゃんの気持ちもよくわからず、とにかくそれは大変気味が悪いのだけれどそれに正面から取り組んでもいいんじゃないかなみたいな気味の悪い積極性をどうにか飼いならそうとしている。本当にわからない。信じられないようなことも尽きない昨今、どうやって生きていけばなんてそんな大きく捉えて他人行儀に他人にも自分にも向き合わないと疲れ切ってしまう。そして俺は一応その大人らしい疲れの存在を最近ようやくわかり、それだけで疲れてしまって、この意味のない疲れって報われるのかと自分で更に疲れてみたのだ。そして思った。これが報いなのか知らない。でも、バスの中から見るビルやアパートや家や病院や水族館、美しい。建築物たち。綺麗だ。新しくても、古くても。自然の美しさとは違う、俺の心の乱れから生じる懐かしい美しさがある。自然じゃない物や、関係も、汚くても、臭くても綺麗な桜にしていいんじゃないかな。そう願うし、そう思うよ。皆これからも頑張ろう。それでは新しい時代へ。さよなら。

さよなら

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