晩婚家庭に生まれて

働き方や生き方が多様になって、ある程度歳を重ねてから結婚する人も増えてきた。

実際、私はもういい年齢で、大学の同級生たちには「きみに結婚願望なんてあるの? 絶対ないでしょ」と笑われる。こういう選択肢を臆せず選べる時代になった恩恵に甘えて、徒らに日々を過ごしている。

人生訓を述べる資格はない。でも、「今後、子どもを持ちたいな」という人に向けて、ある記録を残しておこうと思う。

晩婚家庭に生まれた子どもは、どうやって大人になり、どんなことが起きるのか。その、ひとつのケースを。

***

私の両親は晩婚だった。結婚した時、母は30歳、父は38歳。私が生まれたとき、父は42歳だった。書いていて思うが、今なら割と見る年齢だ。

幼稚園児のときから、自分の両親は友人の親より歳をとっていることを知っていた。あまり親の年齢を言いたくなかった。

歳をとってるから、早く死んじゃうんだろうな。覚悟はしないと。私が20歳になる頃、父は62歳。「おじいちゃん」の年齢だ。

両親が晩婚ということは、親戚も年齢を重ねていることを意味する。葬儀に出る度に「本」について考えた。

人生は一冊の本。本の厚さは、人生の長さ。じゃあ、私の本は何ページで構成されるのだろう? 隣にいる両親を見ながら「この人たちの残りのページ数はどれくらいなのだろう?」と思った。

要は、幼稚園児のときから、死を前提に物事を考える癖がついていた。

しかし、誤算があった。重い病を患ったのは、父ではなく母だった。過去に何度か書いているが、私が6歳のときに母は癌になり、入退院を繰り返すようになった。

「お母さんの病気が早く治りますように」と書いた短冊を、笹の葉に託したこともあった。毎週、教会に行っては祈りを捧げた。母は病床でクリスチャンになった。

でも、私が9歳になる春、彼女は静かに息を引き取った。神様はいないんだと知った。

絶対的なことは絶対にない。これが口癖になった。未来永劫、私のことを待っててくれると信じていた母ですら、死んでしまうのだから。

私が悪い子だから母は病気になったんだ。もう少しいい子だったら、母は長生きしたかもしれない。罪の意識は、長らく胸の底に居座っている。

この思考は、幼少期に親を亡くした子供にありがちなことらしい。姉はそんなことを考えているようには見えなかったので、私の精神が弱いのも原因かもしれない。

大人たちは本当に優しい言葉をくれた。「お母さんは心の中で生き続ける」。口を揃えて同じことを言う。でも、すべてがスルスルと通り過ぎていった。母の死は劇的だったと語る親戚すらいた。私の目には、死の瞬間は美しくもなんともなく、日常のひとコマとして映った。大人というのは、案外ロマンチックなのかもしれない。

心の中で生きてくれなくていい。私は頭を撫でてほしかった。

可哀想だと思われたくない一心で、明るく振る舞うようにした。元気で活発で優等生。これなら誰も同情しない。道を外しでもしたら、家庭のことを理由にされるかもしれない。それだけは絶対に避けなければいけなかった。

地元の中学には行かず、受験させてもらった。

近所の人たちは「唯ちゃんは偉いわねえ」と言った。こういうところから逃げたかった。

***

父は男手ひとつで私たち姉妹を育て上げた。そして実はもう一人、支えてくれた人がいる。母の姉である伯母だ。

独身だった伯母は会社を辞め、私たちの面倒を見てくれるようになった。学習塾に持っていくお弁当を作ってくれ、家事全般もこなしてくれた。そう、私は贅沢なのだ。

たくさん愛情を注がれて、孤独を覚えることはなかった。「伯母は生きたい人生を歩めているのか? 父は、早く帰宅してくれるが、もっと仕事をしたいのでは?」と考えることはあったけれど。

なんて幸せ者なんだろう。いい子でいよう。私の生活は、いろんな人たちの犠牲で成り立っているのかもしれない。感謝しないと。

電灯に照らされる夜道を歩きながら、よく考えた。

高校になると大学受験のことを考え始める。ふと、思い至る。私が18になるとき、父は60だ。

定年なのでは?

学費はどこから捻出するの?バイトしてなんとかする? ともかく浪人はできないと思った。なんとしても現役で受からなければ。

余計なことを考えず、知識を頭に叩き込む。不安から逃げるように、思考の余白を勉強で埋めていった。高校の思い出は、ほとんどない。それほどに毎日勉強漬けだった。進学校の中で、ついていくのがやっとだった成績は、おもしろいように上がっていった。やればやるだけ上がる偏差値に安堵を覚えた。

知らぬ間に栄養失調に陥り、このとき鬱病にもなった。受験ノイローゼというやつだろう。

幸い父は、定年退職しなかった。正確にいうと、65まで働ける部署に異動になった。鬱病のきっかけになった強迫観念は、取り越し苦労だった。呆れた話だ。

***

恵まれた環境で育ち、大学まで行かせてもらい、望んだ仕事にもつき、何不自由ない生活だ。でも、私の心にはずっと何かが欠けていた。他人とうまく関係が築けなかったのだ。

例えば、恋愛感情が長らく芽生えなかった。幼い時から死についてばかり考えていたので、愛だとか恋だとかに全く心が動かなかったのだ。なんていうか、よくわからなかった。優しくされると逃げたくなる。ある日突然消える子。それが私だった。

何かを生み出す源泉が「愛」だとしたら、何かを失う「死」は、その対義語になるだろう。身近な人が他界していくのを幼少期から見ていたので、失う方が私にとってずっとリアルだった。何かを与えられたりするのが、まやかしのようで怖かった。信じた所で、いきなり消えてしまいそうで。

思えば、母が病にかかったときから、安心して眠りについたことなど一度もなかった。朝起きると、大切な何かがなくなっているかもしれない。不安がいつも横たわっていた。

誰も信じられないし、いい子でもないし、加えて鬱病だ。一人で生きていくしかないと諦めていた。学生の頃からの友人が「結婚願望がなさそう」と冗談めかすのは、他人をはねのけてしまう性格を知っているからだろう。

そんな私も、社会人になって他者とのつながりを覚えていった。仕事は偉大で、人間が弱く、もろく、他者に頼りながら生きていかなければならない、ということを教えてくれた。長らく味わってきた無力感とは別に、抗えない寂しさや逃げられない孤独があることを知った。その時に、手を差し伸べてくれる他者がいることも、社会に出てからようやくわかった。

別の経験もあった。父方の伯母が統合失調症になったのだ。長らく祖母の介護をしていたものの、死を見送って以降、一人で暮らしていた。

私が24歳の時、徘徊するようになった伯母が、夜中に我が家を訪ねてきて、抑えてきた本音を吐露した。兄弟である父ではなく、私に。

「誰にも迷惑をかけずに生きてきた。それなのに、結婚していないというだけで、どうして誰も認めてくれないの?」

人は、一人では生きられない。孤独は人を狂わせる。それを目の当たりにした。この言葉が、私の人生観を大きく揺るがしたのは言うまでもない。

悲観的な話を綴っているものの、結構幸せな人生を送ってきた。周りに恵まれ、努力をして、それが認められる環境に身をおいているのだから。友人も恋人もでき、信頼する関係性も築けるようになったと思う。

酒に溺れたり、笑ったり、なんだかんだ自分の人生が好きだ。不幸だとも思わない。こう思えるようになったのは、つい最近のことだけれど。

***

私が大人になったということは、父も歳を重ねたことを意味する。

姉は随分前に突然結婚して家を出た。伯母も我が家に訪ねてくることはもうない。今、家にいるのは父と私の2人だけだ。

自分勝手な私は、しばし自殺の衝動にかられる。しかしいつもその手を止めるのは、父の存在だった。私が死んだら父が独りになってしまう。

じゃあ、父が死んだら?

私の家族はいなくなる。

かつて、このまま結婚するのかなと思ったこともある。しかし、うまくいかなかった。孤独から逃れるために家族が欲しいなんて、傲慢だったのだ。相手もそこに気がついていたのだろう。丁寧に築き上げてきた関係は、まるでそんな現実など初めからなかったかのように消えた。いや、最初からなかったのかもしれない。

久しぶりに実家に帰ると、父は随分老けこんでいた。

65で定年退職してから7年が経つ。今、父は脳疾患を患っている。介護が必要なレベルではないが、改善の余地はない。

カレンダーに向かってペンを持ちながら佇む父に「なぜ予定を書かないの?」と聞いた。すると、温厚だった父が「書けないんだよ!」と怒鳴った。脳に異常をきたすというのは、「これまでできていた普通のこと」ができなくなることを指す。それ故に、本人も苛立ちや無力感に包まれることがある。鬱病を併発するケースも多い。寡黙な父が声を荒げる姿はほとんど見たことがなかったので、ショックだった。でも一番悲しいのは、彼自身だろう。

得意だった料理も作らなくなった。大好きだったゴルフも行かなくなっていた。

日に日に手足が動かなくなっていくのを、私はじっと眺めている。

最近また一層体が動かなくなった。一日中横になって、ギリギリ家の中を歩けるくらい。このままどんどん悪くなり、最終的に心臓が止まる。もっと病気が進行して介護が必要になったら、私は仕事をやめて家にいるべきなんだろうか?

どうしたらいいのかわからない。

「死」、それ自体は怖れていても仕方がない。

でも、体の自由がなくなっていく過程に覚える孤独感を、どうやって埋めればいいのだろう?

例えばそれが、寄り添う家族の姿なのかもしれない。だったら父には、幸福を感じながら死んで欲しい。企業戦士として身を粉にして働き、妻を失った後、愚痴も弱音も吐かずに娘を育て続けた。私は親孝行の一つもできていない。父には、せめて「いい人生だった」と思いながら死んでほしい。最期に眺める景色が、殺風景な天井だとしたら、物悲しいではないか。

その日は近いうちにやってくる。見送る側としては、正直、逃げたい現実だ。

父が死んだ時、家に残るのは私一人。その時に「本」を続ける意味はあるのだろうか? 私が目を閉じる瞬間、そこには何が映るのか?

「何もない」

今のところ、これしか答えが出てこない。

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嘉島唯

刺さったノートたち

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コメント6件

泣いてしまいました。ステキな言葉がたくさんでした。
私の娘も六歳で父親を亡くし
人との関係が築けず今年、中3です。どうしてなんだろう?もっと器用に立ち回れないのか…疑問でした。私よりずっと美人だしスタイルもいいし勉強もそこそこできて羨ましいのに…。でも、コラムを読ませて頂き初めて娘側から少し考えられました。
私は娘に対して負担になりたくない!そう想ってます。娘にも老後は老人ホームに入ると言ってあります。お父様がどうお考えかは解りませんが、親とは子の人生を第一に考えるはず
長々とすみません
参考になるコラムありがとうございます。
私は全てを捨てて逃げることを選びました。こうなることが目に見えてたんで。親の面倒を見る一生は私には重すぎます。
うちも晩婚でしたから、子供の頃嫌だなって気にしてました。
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