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晩婚家庭に生まれて

働き方や生き方が多様になって、ある程度歳を重ねてから結婚する人も増えてきた。

実際、私はもういい年齢で、大学の同級生たちには「きみに結婚願望なんてあるの? 絶対ないでしょ」と笑われる。こういう選択肢を臆せず選べる時代になった恩恵に甘えて、徒らに日々を過ごしている。

人生訓を述べる資格はない。でも、「今後、子どもを持ちたいな」という人に向けて、ある記録を残しておこうと思う。

晩婚家庭に生まれた子どもは、どうやって大人になり、どんなことが起きるのか。その、ひとつのケースを。

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私の両親は晩婚だった。結婚した時、母は30歳、父は38歳。私が生まれたとき、父は42歳だった。書いていて思うが、今なら割と見る年齢だ。

幼稚園児のときから、自分の両親は友人の親より歳をとっていることを知っていた。あまり親の年齢を言いたくなかった。

歳をとってるから、早く死んじゃうんだろうな。覚悟はしないと。私が20歳になる頃、父は62歳。「おじいちゃん」の年齢だ。

両親が晩婚ということは、親戚も年齢を重ねていることを意味する。葬儀に出る度に「本」について考えた。

人生は一冊の本。本の厚さは、人生の長さ。じゃあ、私の本は何ページで構成されるのだろう? 隣にいる両親を見ながら「この人たちの残りのページ数はどれくらいなのだろう?」と思った。

要は、幼稚園児のときから、死を前提に物事を考える癖がついていた。

しかし、誤算があった。重い病を患ったのは、父ではなく母だった。過去に何度か書いているが、私が6歳のときに母は癌になり、入退院を繰り返すようになった。

「お母さんの病気が早く治りますように」と書いた短冊を、笹の葉に託したこともあった。毎週、教会に行っては祈りを捧げた。母は病床でクリスチャンになった。

でも、私が9歳になる春、彼女は静かに息を引き取った。神様はいないんだと知った。

絶対的なことは絶対にない。これが口癖になった。未来永劫、私のことを待っててくれると信じていた母ですら、死んでしまうのだから。

私が悪い子だから母は病気になったんだ。もう少しいい子だったら、母は長生きしたかもしれない。罪の意識は、長らく胸の底に居座っている。

この思考は、幼少期に親を亡くした子供にありがちなことらしい。姉はそんなことを考えているようには見えなかったので、私の精神が弱いのも原因かもしれない。

大人たちは本当に優しい言葉をくれた。「お母さんは心の中で生き続ける」。口を揃えて同じことを言う。でも、すべてがスルスルと通り過ぎていった。母の死は劇的だったと語る親戚すらいた。私の目には、死の瞬間は美しくもなんともなく、日常のひとコマとして映った。大人というのは、案外ロマンチックなのかもしれない。

心の中で生きてくれなくていい。私は頭を撫でてほしかった。

可哀想だと思われたくない一心で、明るく振る舞うようにした。元気で活発で優等生。これなら誰も同情しない。道を外しでもしたら、家庭のことを理由にされるかもしれない。それだけは絶対に避けなければいけなかった。

地元の中学には行かず、受験させてもらった。

近所の人たちは「唯ちゃんは偉いわねえ」と言った。こういうところから逃げたかった。

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父は男手ひとつで私たち姉妹を育て上げた。そして実はもう一人、支えてくれた人がいる。母の姉である伯母だ。

独身だった伯母は会社を辞め、私たちの面倒を見てくれるようになった。学習塾に持っていくお弁当を作ってくれ、家事全般もこなしてくれた。そう、私は贅沢なのだ。

たくさん愛情を注がれて、孤独を覚えることはなかった。「伯母は生きたい人生を歩めているのか? 父は、早く帰宅してくれるが、もっと仕事をしたいのでは?」と考えることはあったけれど。

なんて幸せ者なんだろう。いい子でいよう。私の生活は、いろんな人たちの犠牲で成り立っているのかもしれない。感謝しないと。

電灯に照らされる夜道を歩きながら、よく考えた。

高校になると大学受験のことを考え始める。ふと、思い至る。私が18になるとき、父は60だ。

定年なのでは?

学費はどこから捻出するの?バイトしてなんとかする? ともかく浪人はできないと思った。なんとしても現役で受からなければ。

余計なことを考えず、知識を頭に叩き込む。不安から逃げるように、思考の余白を勉強で埋めていった。高校の思い出は、ほとんどない。それほどに毎日勉強漬けだった。進学校の中で、ついていくのがやっとだった成績は、おもしろいように上がっていった。やればやるだけ上がる偏差値に安堵を覚えた。

知らぬ間に栄養失調に陥り、このとき鬱病にもなった。受験ノイローゼというやつだろう。

幸い父は、定年退職しなかった。正確にいうと、65まで働ける部署に異動になった。鬱病のきっかけになった強迫観念は、取り越し苦労だった。呆れた話だ。

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恵まれた環境で育ち、大学まで行かせてもらい、望んだ仕事にもつき、何不自由ない生活だ。でも、私の心にはずっと何かが欠けていた。他人とうまく関係が築けなかったのだ。

例えば、恋愛感情が長らく芽生えなかった。幼い時から死についてばかり考えていたので、愛だとか恋だとかに全く心が動かなかったのだ。なんていうか、よくわからなかった。優しくされると逃げたくなる。ある日突然消える子。それが私だった。

何かを生み出す源泉が「愛」だとしたら、何かを失う「死」は、その対義語になるだろう。身近な人が他界していくのを幼少期から見ていたので、失う方が私にとってずっとリアルだった。何かを与えられたりするのが、まやかしのようで怖かった。信じた所で、いきなり消えてしまいそうで。

思えば、母が病にかかったときから、安心して眠りについたことなど一度もなかった。朝起きると、大切な何かがなくなっているかもしれない。不安がいつも横たわっていた。

誰も信じられないし、いい子でもないし、加えて鬱病だ。一人で生きていくしかないと諦めていた。学生の頃からの友人が「結婚願望がなさそう」と冗談めかすのは、他人をはねのけてしまう性格を知っているからだろう。

そんな私も、社会人になって他者とのつながりを覚えていった。仕事は偉大で、人間が弱く、もろく、他者に頼りながら生きていかなければならない、ということを教えてくれた。長らく味わってきた無力感とは別に、抗えない寂しさや逃げられない孤独があることを知った。その時に、手を差し伸べてくれる他者がいることも、社会に出てからようやくわかった。

別の経験もあった。父方の伯母が統合失調症になったのだ。長らく祖母の介護をしていたものの、死を見送って以降、一人で暮らしていた。

私が24歳の時、徘徊するようになった伯母が、夜中に我が家を訪ねてきて、抑えてきた本音を吐露した。兄弟である父ではなく、私に。

「誰にも迷惑をかけずに生きてきた。それなのに、結婚していないというだけで、どうして誰も認めてくれないの?」

人は、一人では生きられない。孤独は人を狂わせる。それを目の当たりにした。この言葉が、私の人生観を大きく揺るがしたのは言うまでもない。

悲観的な話を綴っているものの、結構幸せな人生を送ってきた。周りに恵まれ、努力をして、それが認められる環境に身をおいているのだから。友人も恋人もでき、信頼する関係性も築けるようになったと思う。

酒に溺れたり、笑ったり、なんだかんだ自分の人生が好きだ。不幸だとも思わない。こう思えるようになったのは、つい最近のことだけれど。

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私が大人になったということは、父も歳を重ねたことを意味する。

姉は随分前に突然結婚して家を出た。伯母も我が家に訪ねてくることはもうない。今、家にいるのは父と私の2人だけだ。

自分勝手な私は、しばし自殺の衝動にかられる。しかしいつもその手を止めるのは、父の存在だった。私が死んだら父が独りになってしまう。

じゃあ、父が死んだら?

私の家族はいなくなる。

かつて、このまま結婚するのかなと思ったこともある。しかし、うまくいかなかった。孤独から逃れるために家族が欲しいなんて、傲慢だったのだ。相手もそこに気がついていたのだろう。丁寧に築き上げてきた関係は、まるでそんな現実など初めからなかったかのように消えた。いや、最初からなかったのかもしれない。

久しぶりに実家に帰ると、父は随分老けこんでいた。

65で定年退職してから7年が経つ。今、父は脳疾患を患っている。介護が必要なレベルではないが、改善の余地はない。

カレンダーに向かってペンを持ちながら佇む父に「なぜ予定を書かないの?」と聞いた。すると、温厚だった父が「書けないんだよ!」と怒鳴った。脳に異常をきたすというのは、「これまでできていた普通のこと」ができなくなることを指す。それ故に、本人も苛立ちや無力感に包まれることがある。鬱病を併発するケースも多い。寡黙な父が声を荒げる姿はほとんど見たことがなかったので、ショックだった。でも一番悲しいのは、彼自身だろう。

得意だった料理も作らなくなった。大好きだったゴルフも行かなくなっていた。

日に日に手足が動かなくなっていくのを、私はじっと眺めている。

最近また一層体が動かなくなった。一日中横になって、ギリギリ家の中を歩けるくらい。このままどんどん悪くなり、最終的に心臓が止まる。もっと病気が進行して介護が必要になったら、私は仕事をやめて家にいるべきなんだろうか?

どうしたらいいのかわからない。

「死」、それ自体は怖れていても仕方がない。

でも、体の自由がなくなっていく過程に覚える孤独感を、どうやって埋めればいいのだろう?

例えばそれが、寄り添う家族の姿なのかもしれない。だったら父には、幸福を感じながら死んで欲しい。企業戦士として身を粉にして働き、妻を失った後、愚痴も弱音も吐かずに娘を育て続けた。私は親孝行の一つもできていない。父には、せめて「いい人生だった」と思いながら死んでほしい。最期に眺める景色が、殺風景な天井だとしたら、物悲しいではないか。

その日は近いうちにやってくる。見送る側としては、正直、逃げたい現実だ。

父が死んだ時、家に残るのは私一人。その時に「本」を続ける意味はあるのだろうか? 私が目を閉じる瞬間、そこには何が映るのか?

「何もない」

今のところ、これしか答えが出てこない。

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