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エモい文章の作り方

エモい。この不明瞭な形容詞が定着するなんて思わなかった。

エモさとは何なのか? Wikipediaには「感情が動かされた状態」、「感情が高まって強く訴えかける心の動きなどを意味する日本語の形容詞」と書いてあるけれど、いまいちよくわからない。

一方で、私の文章は、「エモい」と評価をもらうことが多い。謎めいた形容詞で言い表される文章とは一体どういうことなのか?

こんなことを書きながらも、自分自身、「あ、これはエモい」と思う作品に出合うことは多い。切なくて、妙に共感して、胸がざわつくあの感じ。単に甘美な言葉を羅列しただけでは、こんなに胸は動かされない。

私は、ひとつ仮説を持っている。

決して同じ体験をしたわけではないけれど、映像が頭に浮かび、追体験したような気分になる。この時、人は文章にエモさを感じるのではないか?

それは「固有名詞」×日常性で作れる。

『ボクたちはみんな大人になれなかった』は、なぜエモいのか?

2017年にヒットした小説『ボクたちはみんな大人になれなかった』はエモいと評判だ。この小説にはクラクラするほど多くの固有名詞が並ぶ。

例えば冒頭は、こんな描写からはじまる。

枕元の有線で宇多田ヒカルの『Automatic』が流れ始めた。「ねえ、懐かしくない? 」きっとまだ子どもだった頃の曲なのに、彼女は小さく鼻歌を口ずさみながらブラジャ ーのホックを外している 。

普通、長く広く読まれようとするならば、宇多田ヒカルも『Automatic』という曲名も入れない方がいいだろう。

意味が伝わらなくなる可能性があるからだ。私は、ラジオが火付け役となって1998年に大ヒットしたこの曲を小さい頃に聴いていて、感情移入ができる。なぜ、有線でこの曲が流れるとエモいのかもわかる。けれども今の高校生には通じないかもしれない。もちろん、10代に向けた物語ではないだろうが、「読み手が絞られてしまう」リスクがある。

でも、『Automatic』の1曲で、ボクと彼女の距離感の粒度が細かくなり、なんとなく、息が合わない2人の姿が頭に浮かぶ。

そしてこの舞台は「六本木通りから一本入ったデザイナーズマンションのようなホテルの一室」。

2人の男女の距離感と切なさを感じ取れる。業界っぽい、華やかな、でも空虚な、そしておそらく一夜の、というような。

単なる「ホテル」ではダメだし、有線から流れるのは「20年前に流行った曲」だと、エモくない。

円山町にある、錆びた看板に 「宿泊5800円」と描いてあるラブホテルだと、意味の違うエモさが生まれる。固有名詞には、頭に浮かぶイメージのコントラストを強くする効果があるのだろう。

『なんクリ』はなんとなく、エモくない

固有名詞がキーとなる小説は、1980年の『なんとなく、クリスタル』が有名だ。当時の若者たちのリアルな生活を描いていると注目を集め、100万部を超えるベストセラーになった。

この作品には、固有名詞があまりに多く登場するため、442個もの注釈がついている。六本木について触れられるのは、こんな描写だ。

特別な日にはフランス料理を食べに行く。六本木なら、古株のイル・ド・フランスや新しくできたオー・シ・ザアーブル。私のバースデーなら天現寺橋のプティ・ポワンまで行って、デザートにおいしいケーキを二つ食べてしまうのもいい。聖心や女学館の横を散歩しながらコーポラスまで帰って来れば、おなかのへこみ具合もちょうどいい。

この作品は文藝賞を受賞するほど、評価の高い作品ではあるけれど、エモくはない。

理由は2点ある。固有名詞が微細すぎる点と、日常感のなさだ。

冒頭で説明した通り、「映像が思い浮かび、追体験したような気持ちになる」とエモくなる。固有名詞が細かすぎると、文脈を想像できない。

それを逆手にとっているからこそ、この作品には注釈がつき、面白さがある。ただ、この注釈によって読み手は文脈を理解できるけれども、なんクリにはやっぱりエモさがない。

それは、固有名詞に日常感がないからだろう。もっと言うとアッパーすぎるのだ。なんクリにはバブル期ならではの華やかさがある。右肩上がりの光には、エモさが宿らない。

「中央線沿いはエモいけれど、代官山はエモくない」。こんな話を聞いた。

なぜか?

おそらく、代官山という街には日常性をあまり感じられないからだ。

ハイセンスなアパレルショップが並び、蔦屋書店が鎮座する。山手通りは綺麗に区画され、街を歩くのはモデルのような人たちだ。

ヒルズがそびえ立ち、ネオン輝く六本木だって、本来はエモくない街だ。

でも、「ホテル」という言葉があるだけで、グッとエモくなる。ここで、舞台がザ・リッツ・カールトンやグランドハイアットだったら「華やかだな」で終わる。心は動かされない。でも、「六本木通りから一本入った」、「有線が流れるホテル」だと、エモくなる。大事なのは、華やかさと日常感のバランスだ。

では、代官山の描写をエモくするには、どうすればいいか?

例えば、駅前のファミマにフォーカスすると少しエモくなる。都心のコンビニはエモい。

ローソンのエモさ

待ち合わせはローソンで。おにぎりを2つ買って家

こんな歌詞からはじまるのは、2010年に発売されたYUKIの『2人のストーリー』だ。

批評家の佐々木敦先生が、「衝撃を受けた。コンビニの名前が歌詞に使われる時代になったのか」と大学の授業で話していた。

固有名詞が独特の物語を持つことを、消費社会に生きる私たちはよく知っている。田中康夫やキャンベルのスープ缶を描いたアンディー・ウォーホルのように、1980年代から固有名詞を表現する作家はいた。でも、彼らが使うものと、YUKIや『ボクたちは大人になれなかった』で出てくる固有名詞は意味が違う。

かつて、固有名詞は洗練されたアクセサリーのような存在として使われることが多かった。選ばれた者の証だったのだ(ウォーホルはそんなつもりで描いたわけではないだろうけれど、日本ではキャンベルのスープを飲む人は少なそうだ)。

でも、バブルが崩壊した後に生まれた、右肩上がりの時代を知らない世代は、日常性やネガティブ性だったり、日陰的な存在にも積極的に魅力を見つけ出す。むしろ、気取っている方が「意識高い」と揶揄されるぐらいだ。

映画『モテキ』で、失恋した麻生久美子は、高級ホテルのマクロビ朝食ではなく、吉野家の牛丼を食べなくてはいけなかった。この作品が、80年代に公開されたものならば、間違いなく前者を選んでいただろう。

エモさの計算

偉そうにエモさについて語ってきた私は、どういうことを考えながら、文章を書いているのか? 解説していこう。

こんなnoteを書いた。

これは、大人になることを描く抽象的な話に、お酒の具体名を置くと、エモくなるという計算のもと作った。ただ、この場合、ハイボールは個々の思い出を想起させる具体性と抽象性のバランスを見た。

通り沿いの雑多な居酒屋で、夜風に吹かれながら飲むハイボールは最高だ。

冒頭はこう始め、文中では氷が溶けたり、ジョッキを鳴らしたり、何度かハイボールを彷彿とさせる表現を置いている。

「お酒」という言葉だけではエモが足りない。ワインも違うし、カルアミルクでもなく、選ぶべきはハイボールなのだ。

ここで「角ハイボール」や「トリスのハイボール」といった商品名をいれてもよかった。でも、居酒屋で注文する時、商品名は気にしないし、微細で余韻が残らない。名詞が持つパイにあわせて、ピントを調節していくように言葉を選ぶ。すると、なんとなくエモさが生まれる。

これら文章をエモいと判断するかしないかは、結局のところ読み手に委ねられるので、「これが絶対的な方法です」とは言えない。そして、「”固有名詞”×日常感」というやり方も、エモさを生むひとつの手段でしかない。違うやり方もある。

ただ、エモさとは、沈むことがデフォルトな世界で、それでも結構幸せに生きている若者たちの心情を表す側面を持つのだと思う。

2010年代もそろそろ終わる。今のところ、東京オリンピックは新しい形容詞を持ってきてはくれなさそうだけれど、これからどんな時代感が生まれるのだろう? 「7回目のベルで受話器をとる」ことに注釈がつくようになる日も近いのだから。


Edit:Haruka Tsuboi


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