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「これだからゆとりは」で死ぬ場合もある

毎日テレビで見ていたアナウンサーが突然姿を消した。原因は「適応障害」。そんなニュースが頭にべっとりと張りついた。

私も「適応障害」だったからだ。

ときに、「新型うつ」と間違われるこの病気は、単なる「甘え」と批判されたり、私の世代だと「これだからゆとりは」で片付けられること多い。もちろん、そう見えるのも理解できる。しかし、このような揶揄が当事者を追いつめていくこともあるのだ。もしかしたら、あなただって「適応障害」かもしれない。

みんなはできるのに、どうして私はできないんだろう

厚生労働省は、適応障害を「ある生活の変化や出来事がその人にとって重大で、普段の生活がおくれないほど抑うつ気分、不安や心配が強く、それが明らかに正常の範囲を逸脱している状態」と定義している。

私の場合、大きな原因は就職だった。朝9時に出社、帰りは終電。月に2回ほどタクシーで帰り、週末は電話とメールがまぁまぁ来る程度、オフィスへ行くと必ず誰かがいた。悪い環境ではなかったと思う。ただ、どうしても社内の環境に馴染めなかった。

次第に太陽が怖くなった。「おはよう」の代わりに「死にたい」と言って目を覚ます。通勤電車に乗ると、異常なまでに汗がでる。生理は入社してから一度も来なかった。何が理由かはわからない。

つらい毎日から逃げてしまえればどれだけいいか。そんな思いが浮かんでは、すぐに消えた。体調の悪さもドクターストップになるほどではない。気分の問題だろう。世の中には、過酷な労働環境で努力している人は多い。この程度で休みたいと思う自分に失望した。

もっと働きたいのに、どうしてできないんだろう? 課長に、先輩に、チームに申し訳ない。自分のキャリアを棒に振るの? これまで頑張ってきたのに?

仕事ができない人だと思われるのが怖かった。

今思うと、私はメンタルの不調に悩む人を心のどこかで差別していたのだろう。甘えているな、そっち側に行きたくないな、と。だからこそ、身体の不協和音を無視し続けた。

意外と普通のことなの?

しばらくすると重度の気管支炎になり、声が出なくなった。話せない営業はただのゴミ。焦りはさらに大きくなった。

血圧は下がり続け、頭を鈍器で殴られたような感覚が続いた。体に発疹が出るようにもなった。それでもドクターストップには至らない。

ある日、「あと一歩踏み出したら私の体はバラバラに崩れていく」と直感し、心療内科に飛び込んだ。ほとんどの病院は予約制のため、3件断られた。藁にもすがる思いで電話すると4件目にして「いいですよ」と言われた。

病院に行くと、淡々と質問された。「どうしました?」

言葉が出なかった。働いてからの1年半が走馬灯のように頭を駆け巡る。どれくらいの間、呆然としていたのかわからない。悪いのは自分。これをどう伝えればいいのだろうか。告げ口している気持ちになった。最低だ。でも、一言発した瞬間に、堰を切ったように言葉と涙が溢れだした。そして同時に、どういうわけかこう思った。

「生きられる」

やっぱり死にたくなかったのだ。

あとで、同じ職場でも休職した先輩がいたことや、服薬している友人がいることを知った。心が折れることは思っていたよりも普通のことだった。

厚生労働省が発表している患者調査によると、2014年の「適応障害患者」は6万7000人にのぼる。患者数(外来・入院)が急増していることは、一目でわかるだろう。

※総務省 e-stat 患者調査を参照

理由は、社会的な抑圧の増大に加え、啓発によって自覚する人が増えた。これが大きいらしい。

「甘えてる」と言われる方が、死ぬよりマシ

適応障害がうつ病と異なる点は、ストレスから離れると症状が改善する傾向があることだ。仕事が原因だった場合、勤務中は激しい不安感とそれに伴う体調の変化が起きる一方、オフのときは元気さや明るさが戻る。そのため、「適応障害」の症状を「甘え」だと感じる人は多い。「ゆとりが会社辞めたんだがw」という投稿を見るたびに、背筋が凍る。

実際、患者自身も「自分はワガママだ」と思ってしまい、治療をしないまま、重症化するケースが多々あるという。最悪、死に至る。だからこそ、啓発が重要になってくる。

さて、話を戻そう。最終出社の帰りに大学の同級生たちと飲んだ。「これが休職するやつの顔かよー。クッソ楽しそう」と笑いあった。仕事から逃げ、友人と賑やかに過ごす姿は最低に見えるだろう。でも、彼・彼女らの言葉が救いだった。慰めの言葉より、バカみたいな明るさが必要だった。

私の療養は、週に一度のカウンセリングだけ。うつ病の傾向も見られたため、抗鬱剤を勧められたが断った。かわりに、友人に腹を割って話すことを覚えた。その際「1人で生きていこうとするなんて、不遜だ」と言われ、ハッとした。氷が溶けていくようだった。

会社の最寄駅にはどうしても降りられなかったが、身体の不調は消えていった。

休職から6カ月後、運良く転職先が見つかり、初日からフルタイムで働いた。少しでもレールから外れると「あちら側」に戻れなくなる不安はあったものの、社会復帰は驚くほど容易かった。それから3年の月日が流れたが、今日も元気に働いている。

23歳の私には、あの環境に適応する才能がなかった。それだけのこと。今はもう汐留駅にも降りられる。

Top image: Matthew Vazquez / Creative Commons / Flickr

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