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「いい質問」とは何か

いい質問をしたい。きっとこう思うのは私だけではないはずだ。

どうしてなんだろう? 質問とは、本来「わからないことを問いただす」という意味で、ロマンも何もない。むしろ自分の無知さを露呈する可能性だってある。

それでも「いい質問をしたい」と思うのは、この行為にもっと別の意味や可能性があると思っているからだろう。

教授の告白

月曜の4限、「南アメリカにおける黒人差別」というシリアスな講義をとっていた。怠惰な学生だった私は、5限までの時間を埋めるために、ぼんやりと出席していた。

不勉強にして、この講義をとるまでKKKという白人至上主義団体の存在を知らなかった。白装束を纏った姿が有名な彼らは、南北戦争後に結成したとされ、現在も活動している団体だ。今でこそ目立った非白人排斥活動はしていないが、かつて第一次世界大戦後には暴徒化。政治家たちも賛同し、白人による殺人や暴力行為を是としていた歴史を持つ。

The Ku Klux Klan: A Hooded Brotherhood (Journey to Freedom)

罪もない無抵抗の市民が、「肌が黒い」というだけで、十字架に括られ火あぶりにされる。夜中に馬に乗りながら攻撃をしかけるKKKと、逃げまどい泣き叫ぶ黒人たち。理不尽な彼らに異を唱えた白人までもが拷問される…殴られ血を吐き、いたぶられて涙を流す。そんなショッキングな映像が流れる中で、教授は淡々と講義を進めていた。

私は単位目当てに出席を重ねて、つつがなくすべてを終えようとしていた。忘れてしまった、多くの講義と同じように。 

期末テストの最後に「質問を書いてください」という設問があった。アンケートのようなものだろう。

「授業の内容に沿った質問にした方が印象が良さそうだな」と考えながら、ショッキングな映像を思い出したりしていた。

テスト終了後、いくつかの質問が紹介された。授業の内容とリンクしたものや、正義感溢れる言葉が並ぶ。教授は一息つき、「最後に紹介するのは…いい質問ですね…」と、ある生徒からの「問」を読み上げた。

「先生は白人なのに、どうしてこのような授業をしているのですか?」

教授は「白人」だったのだ。

彼はひとつひとつ丁寧に言葉を選びながら、きれいな日本語で語り出した。

「今まで本当にいろいろな差別の歴史を紹介して来ました。その中の1つの州で私は生まれ育ちました。父は、この土地の政治家だったのです。多くの黒人差別に加担していました」

「私はその背中を見て育ちました。父には尊敬する部分もありますが、恥を覚える部分もあります。その中でこれ以上、同じ過ちを犯す人を増やしてはいけないと思いました。だから、私は白人でありながら、黒人差別の研究をし、今ここで教鞭を執っているのです」

正確には憶えていないが、そんな内容だった。教授の解答は静かで偽りのないものだった。「懺悔」とは、こういうことなのかもしれない。

陽射しが窓から注ぐ昼下がり、教室から見える木々の葉は、キラキラと光っていた。

質問が濁っていく

Image : kylethale / Flickr / Creative Commons**

この質問が、他と違ったのは何なのだろう?

それは「自分をよく見せたい」という気持ちの無さだろう。

例えば「私はこれだけ知識を持っています」、「私はこういった正義感を持っています」という自意識の発露が、この質問には感じられない。もちろん知識は質問の大前提ではある。けれども、無意識のうちに表出してしまう誇示は、質問を濁らせてしまう。

私たちは誰かと対峙する際、さまざまな固定観念を持ち、忖度してしまう。年齢、社会的立場、性別といった表層的なラベリングや「こう言ったらこう思うだろう」という予測もそうだ。

「白人なのになぜ黒人差別に関する授業をするのか」という質問は、心に宿るノイズを感じなかった。それは教授の回答にも言えることだった。

「こんな質問をしたらバカだと思われるのではないか?」
「私は『わかってる』側なことを、アピールしたい」
「こんなことあの人に聞いたら怒られるかもしれない」

自意識過剰な私は、そんな感情に支配されがちだ。でもこれは全然真摯じゃない。だってこれらの考えは、眼差しが自分に向いているのだから。

「相手を思いやることが大事」などと陳腐なことを言いたいわけではない。気軽に発した疑問が、思いもよらず相手を動かしてしまうことだってあるだろう。要は、「問」に対する真摯さってやつが、すごく大事な気がするのだ。

「きみは強がりだね」では心なんて動かない

「問を立てられた時点で物事の8割は解決している」

昔、こんな話を聞いた。研究やビジネスは課題解決が目的ではあるものの、「問」が最も大事だという話だ。「問」さえ立てられれば、あとは手を動かせばいい。しかし、この「問の設定」こそが、難しいという。なぜなら、「問」によって、到達できる答えの高さが決まるからだ。

研究や仕事のほとんどは、自分で「問」を設定して、より高次元な課題を解決していく作業だろう。一方で、個々人のコミュニケーションでは、他者からの質問によって、自分の中に眠る「問」を発見することも多い。

誰かから投げられる、濁りない質問は尊い。自分を、より高みに連れていってくれる。

Photo credit: failing_angel / Flickr / Creative Commons

なぜこんな当たり前のことをぐるぐると考えたのかというと、最近こんな質問をされたからだ。

「どうしてそんなに強がるの?」

意表を突かれてしまった。私はすぐ泣くし弱音も吐くので、強がっているなんて思いもしなかった。でも、自分では見て見ぬふりをしていた歪みが露わになった。

「強がりだね」では、きっと何も感じなかった。是か非しかない。「問」の発見がないのだ。

これだけではない。かつて自分に転職の決心をせしめたのは、初対面の女性からの「仕事が辛いと言うのに、どうして踏み出さないの?」という質問だった。

どんな気持ちでこれらの質問が発せられたのか、私は知らない。聞いた本人は、その事実すら忘れているかもしれない。それでいい。「問」が立てられた時点で、潜在的な悩みの8割は解決してしまうのだから。

ただ、「問」われると「自己否定」と感じる人もいるだろう。世の中には「詰問」という相手を責め立てるやり方もあるからだ。でも、詰問とピュアな質問は全然違う。何かを聞かれてぐらついた時に、「問」への真摯さに目を向けると、何かが違って見えるはずだ。案外、足元にある大事なものが見つかるかもしれない。

改めて、「いい質問」とは何か。きっと、この文章を読まなくとも、タイトルをクリックした時点で、自分の中でなんとなく答えは見つかっていたはずだ。

なんてね。

Top Image : Me2 (Me Too) / Flickr / Creative Commons
Edit : Haruka Tsuboi

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