理想の(コンテンツのある)世界_03

書店、SNS、広場、note、雑誌、検索エンジン、市場。

これらに共通するものはなんでしょう?人の行き交うところ?暇つぶし?はたまた、ひと気?

当然、これらはつなげる「場所」だということです。

何と何をか?売る人と買う人?はたと寄った人と出会いを求める人?はたまた、孤独を感じる人々同士を?

当然、それらは、コンテンツを作る人コンテンツコンテンツを読む人をです。

全てのコンテンツは、数多くの場所を通過して、作る人と、読む人の間を旅して行きます。その旅をする道筋を明らかにすること、それが、このコンテンツ群の目的です。そして、今回導入する「場所」こそ、その旅路そのものを決定するものです。

あなたの人生の最も深く深く爪痕を残した物語は、どのような旅を経て、あなたの意識にたどり着いたのでしょうか。

目指すこと、つなぐこと

コンテンツの"流通"における最小単位は前回述べたように、コンテンツを作る人、コンテンツを読む人、そしてコンテンツそのものの、3つです。そして、この最小単位での問題点は、「広める」という行為を、現象を再現できないことでした。

そして今回、最小単位の中に追加登場した「場所」というものは、コンテンツを広めるために存在しているということです。

つまり、「場所」とは、”コンテンツ”を、”コンテンツを作る人”から、”コンテンツを読む人”へ運ぶという結果を目指すものです。そしてそのために、場所は、コンテンツだったり、コンテンツを作る人の「情報」を読む人へ運ぶことで、コンテンツを作る人・コンテンツと、コンテンツを読む人を繋げているのです。

ここで気をつけなければいけないのは、場所というものは、必ずしもコンテンツの置き場所である必要は”ない”ということです。すなわち、場所に最も求められる役割は、知らせることである、ということです。

コミックマーケットという場

実は、この夏、初めてコミックマーケットに参加してまいりました。

というのもnoteでものを書き始め、コンテンツを売るとはどういうことなのだろうと、それを最も”空気”として感じられるのは「どこ」なのだろうと考えることが多くなったからです。そして、それは、コミックマーケットだろうと考えたからです。

理由はとてもシンプルで、先ほどのコンテンツ流通の最小単位を、物理的な存在として感じられるからです。作る人、コンテンツ、読む人が、同じ「場所」にいます。ちなみに私は読む人の立場での参加でした。

さて、コミケに参加しようと思ったのは二日目の午前11時でした。ふと、タイムラインを眺めていると、コミケという単語が流れてきたのです。その日の用事は、映画を観に行こうかなと考えているにもかかわらずチケットを取っていない程度、要するにほぼノープランな状況でした。私は微温いシャワーを浴びて汗を流し、とりあえず外には出れる格好に着替えると、スマホと、財布だけ持って出かけたのです。

つまり、ほぼ前情報なしという「コンテンツ」も「コンテンツを作る人」も知らない状態で出かけたのです。

コミケ会場:ビックサイトに到着すると、私は本当に驚きました。そのあまりの人の多さに。とはいえ、コミケのそういった感想的なレポートが目的ではなく、例としてのコミケですので、そういったコミケの、ここがすごい!や驚いた!といったような内容は一旦置いておいて先に進めましょう。

どういった出店があるか全く予備知識を仕入れず、会場にいたので、当然買いたいものも決まっておらず、私はとりあえず、会場全てを見て回ることにしました。つまり、できるだけ全ての「作る人」と「作られたコンテンツ」に触れて見ようと考えたのです。西から周り、東のサークルの出店を見て回りました。

とはいえ、全て見て回るといっても、全てのコンテンツを一つ一つ手にとって眺めていたわけではありません。当然、長蛇の列ができていたり、そもそも売り切れていたりと、不可能だったものもありますが、私は、なんとなく表紙や、その周辺のコンテンツから、何を描いたものなのかを感じ取っていました。例えば、旅行記系のコンテンツを扱っているエリアでは、旅行記であること、その旅行記の中での旅行先(台湾や、日本各地など)を確認し、何について書かれたものなのかをさっと頭に入れていったのです。

ここまでの私の行動はつまりは、こうです。コンテンツそのものではなく、どういったコンテンツがあるのかという「情報」を収集していたのです。

当然ただ表紙を眺めて終わりではもったいないと感じたので、ふと目に止まった廃墟の写真集を手に取り、代金をお渡しし、そして購入しました。廃墟の写真は、鉄腕バーディの第1話を読んでから、興味があったのです。(ちなみにフルカラーの写真集にしては、そしてこれほど好みの写真が多く入っているにしては、リーズナブルすぎやしないか?と感じるほどでした)

ついにコンテンツが作るひとから、読む人へ渡った瞬間です。さて、この瞬間、私は、コンテンツの「情報」から欲しいと思ったものを購入し、直接印刷された「コンテンツ」を購入しました。ここで重要なのは「情報」と「コンテンツの置き場所」は完全に別物であり、それらは、たまたまコミケという「場所」において同居しているため、それらのつなぎ目が見えにくいだけなのです。

もし、この場で情報とコンテンツの置き場所が完全に離れている場合を考えて見ましょう。

それは、実際にコンテンツを購入可能なのは、会場外のショップで扱っている場合です。(まあそんなことはないのですが。)例えば、欲しいと思った書籍=廃墟本をコミケで見つけ、それを購入可能な書店を見つけ、その書店に購入しに移動するということです。

つまり、情報とコンテンツの置き場所が、完全に分離しているコミケを想定すれば、コミケ=広告と全く同じ意味になるのです。

コストを考える

ここまで、場所の機能について原始的に考えてみました。つまり、情報と、置き場所です。これらが、シームレスにつながったコミケで考えて見ました。これで、一応、広めることが表現できています。

しかし、当然抜けている考え方があります。

それは、コストです。

探すコスト、作るコスト、場所を維持するコスト。

私はコミケにおいて、できるだけ全てを見て回るということを目標に掲げていましたので、コンテンツの多くを全数検索しました。しかし、普通に考えれば、夏の暑い日に、歩き回って欲しい「かもしれない」ものを探すというのは大変な労力が必要ですし、探す側からだけではなく、作る側も、コンテンツを作るには多大な労力が必要ですので、作りたいものを全て作るのは、不可能に近いです。

さらに言えば、場所、つまりコミケの会場にも限りがあり、参加希望者を全員参加させるためには、会場を拡大する=より借りるために大きな費用がかかるということです。

要するに、作ること、届けること、読むことには本来限界があるはずであり、その限界を規定する「コスト」という考え方が抜けているのです。

次回からはこの、限界を規定する「コスト」という新しい登場人物を加え、物語を紡いでいきたいと思います。







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