祈りのパワー

みなさんこんにちは。インストラクターのゆざきよです。
新年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

先ほどFacebookを見ていて、友人の鷺谷さんがご友人が闘病をされていて、祈りのパワーで病気に勝ちたい。祈ってもらえないかという投稿をシェアされていた。祈りのパワーをとても信じている私ももちろんシェアをしました。


祈りを送られる人にも、祈るという行為を行う人にも、祈りはよい効果をもたらす
https://diamond.jp/articles/-/98488

そのときに思い出したのが、幼いころの家族のことだ。

我が家は外食や他人と食事を囲むとき以外は、食事の際に必ずお祈りをしていた。いつも誰か順番が回ってきて、5人家族のうち1人が祈りをささげるのだ。
指を組み、目を瞑り、首を垂れ、その祈りを必死に聞く。
だいたい定型文は決まっていたが、その祈りを聞くのは私は好きだった。

「天の神さま、いつも美味しい食事をありがとうございます。今日はこんなことやあんなことがありました。なのでこんなことを思いました。すべてのことに感謝します。ありがとうございます。
世界の恵まれない人たちが美味しいごはんを食べれますように。健康で幸せに暮らせますように。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン」

ふと思い出した。内容は人によっては変わるが、毎日毎日感謝をすることを両親から周りから、当たり前のように、食事や寝る前、休日に祈ることを義務付けられていた。
それが自然だったが、両親の仕事が遅くなり、部活など休日も家族全員で食卓を囲むことがほぼなくなってきたのと同時に祈ることも生活から離れていった。
あんなに当たり前だったことが、いまは遠く昔のことで違和感さえ感じる。
祈ることとご飯を食べることで体と心がリセットされていたように感じる。
そしてこうやって世界中の人が、自分のために祈るのではなく、人の幸せのために祈っているということに安心感を覚えた。

思春期から20代はたまの祈りは自分のためにする行為になっていた。
当時ロンドンに住む姉に、数年前に「最近祈っている?寝る前に祈るととても気持ちが落ち着くよ」と言われた。わたしたちにとって祈りは当時は精神安定のような子守唄のようなものでもあったのだろう。
家族の幸せのためにいつも海外から祈る姉や、だまって見守る家族。
去年一年間、必死にもがく私を周りで励ましてくれた仲間たち、毎朝のライブ配信で温かいパワーのあるメッセージをくれる人たち。
言葉はさまざまだけど沢山の「祈り」のパワーをもらった。

たぶんそれがなかったら私は本当に自分を見失って、自分自身の底なし沼から出てこれなかっただろう。

私自身の祈るということは、難しくなくて頭の中をからっぽにして、ただ、みんなが元気でハッピーだったらそれでいいな!
良くなりたいって思ってる人の役に立ちたい。そう思う原動力が私の祈りなのだ。

毎日祈ることで、自分が望んでいること。自分の感じたこと。そしてそれが自分のこと以上に子供たちや家族、友人、環境、地球のことだと気が付くこともある。祈ったあとに悲観的な気持ちや薄れ、心が軽くなる。神社やお寺で手を合わせるときも同じ。

「アーメン」という言葉は「その通り。真実です。」という意味を持つ。
祈りは真実なのだ。なので欲深いことやエゴに関しては救われず、自分にとっての真実が届く。

自分にとっての真実探しはやっと始まったばかりだ。
祈ることで自分の真実を見つける糸口になりエネルギーになり、豊かになっていく。アーメンと言わなくても自分の祈りを書いたり声にすることで何か変化があるかもしれない。

ということで、今年コロナで増えた5㎏を戻します。アーメン。

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