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2022旅行記 Part.1 日本の揺り籠「大和王朝」を訪ねる

皆様、新年おめでとうございます。2022年初のエントリとなります。新年の挨拶代わりの文章はInstagramにて不躾ながら投稿させて頂きました。本日まで農場の方は休みを頂いておりますので、以前から計画していた奈良・京都へと旅行して参りました。誰が望んでいる訳でもなく、独善的極まりありませんが記録として残そうとエントリをポストしようと思い立って、二日間の行程の内、一日目をここに記したいと考えました。

京都にも行きましたが、奈良を中心に回りました。なぜ奈良を中心に回ったのかというと今現在、僕自身10年前のものとなりますが、こちらのドラマを観て、加えてコテンラジオにて今現在フィーチャーされている武則天の生きた時代である隋唐帝国期とその二大王朝から多大に影響を受けた日本の文化を間近で感じたいと思ったからです。

人口6000万人にも及んだ世界帝国である唐王朝。そしてその基盤を作った隋王朝。太祖・李淵の次男である中国史屈指の名君の一人と名高い李世民。そして、その基盤を更にアップデートした武則天、より領土を拡張させた若き日の李隆基(玄宗)。名君を次々と輩出した、そのような巨大な王朝が間近にある中で必死に呑み込まれないよう、追い付けるよう、我々日本人の先祖たちがもがきながらも立ち向かった痕跡をより近くで感じることができたように感じています。

1:興福寺

鏡女王が夫である藤原鎌足の治癒を願って建立した寺で、そして、藤原家の権力を表すための仏教への傾倒。藤原鎌足という人物は教科書でもおなじみの「大化の改新」を起こした筆頭格の人物の一人です。蘇我一族が実権を握り続けていることに苛立っただけでなく、今の政権では外敵であった突厥までも飲み込んで遊牧民族の王である「天可汗」の称号まで得ている名君・李世民が治める唐王朝に呑み込まれるだけだという焦りから一族郎党を抹殺したクーデターで、そのような事情で殺害した者たちの怨念を払おうと鎮護国家の概念として考えた結果の建立なのだと推測できます。当時の民衆に恨まれても、現在においては文化財として残っていることに歴史の皮肉も感じた次第です。ただ、中にある十二神将の仏像は見事なものでした。

2:春日大社

中臣・藤原両家を祀る宗廟としての役割を持つと言われております。興福寺を抜けてここにたどり着くまでの道はとにかく長かった。35分近くは歩き倒したように思います。辿り着いた時にはもはや足はパンパンでした。思っていた以上に「小さいな」というのが正直な感想でしたが、唐王朝の盛唐末期の遣唐使船の難破に加えて、「安史の乱」によって帰国が出来なくなった阿倍仲麻呂の天の原 ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に 出でし月かもとう詩が残っているように、長安から遠い故郷を想った詩を詠んだ哀愁漂う姿を想像しながら登りましたら、「魂だけは日本に戻れたはず」と想像を巡らせたりもしました。

3:東大寺

言わずと知れた奈良の東大寺の盧遮那仏。一番見てみたかった代物です。作られた原因は疫病退散のためではありますが、その疫病の原因は新羅からの使者が持ち込んだ天然痘によるものと言われています。もっと根本を遡れば唐王朝の中枢の人間たちが口にしたシルクロードに生息しているラクダの肉に天然痘のウイルスが含まれていたことによるところが大きいことは推測できます。美容にいいと言われていて、楊貴妃が好んで食べていたと記録にあります。

その結果として、人口の1/4が死滅したとされる状況下で鎮護国家としての役割を果たそうとした聖武天皇の決意を感じますし、当時の民衆に隋王朝の煬帝同様に怨恨の極みの中にいると思われても作り上げたものが日本の始まりの地としての意味をもたらしているところに大いなる意味を感じさせられます。しかし、教科書で見る以上に盧遮那仏は巨大でした。感想はずばり見れて良かったという一言に尽きます。正倉院も見たかったのですが、4日まで休みだということで止む無く断念致しました。

4:法隆寺

聖徳太子と蘇我馬子の力の象徴と言っても過言ではない法隆寺。教科書でおなじみの仏教建設物でもあります。なぜ蘇我一族が仏教を推し進めたかと言うと日本にも春秋戦国時代からの流れからか渡来人が数多く渡ってきていたため、日本古来の宗教では彼らを含めて全土をまとめきれなかったためだろうと推測します。

その課題は規模こそ大きく違えど、彼らが手本とした中国王朝も抱えていて、隋唐王朝の揺り籠と呼ばれた中国南北朝時代・北魏王朝の三代目皇帝である拓跋燾(太武帝)から朝貢に訪れた日本の使者が「源」の名字に加えて仏教とその寺院を建設する技術を伝授された結果、北魏様式の法隆寺を完成させることが出来たのだろうと感じました。つまり、北魏王朝の太武帝の存在なしでは僕らは法隆寺を始めとした建造物を見れていなかったことになります。

聖徳太子は豪族たちが幅を利かせている状態から天皇一極集中の日本を作ろうと試みたものの、完成させることは出来なかった結果から無念を感じつつも、鎮護国家を目指そうとしたその意思が今の観光資源としての価値を高め、世界遺産の登録へと繋がったように感じられます。ただ、そうした歴史を子孫たちは知っていたからこそ、古事記や日本書紀といった歴史書の編纂に繋がって、日本統一のための基盤を作っていったことは知られている話でもあります。結果として統一は徳川家康の登場を待たなければならないわけですが、それでも日本が産声を上げた場所としての意義と大きさを探索しながら全身で感じた次第です。

旅行記の一日目は時間的にここで終わりです。続きはまた明日以降に記したいと考えております。法隆寺で挙げた北魏の物語はこちらのドラマで垣間見ることが出来ます。

愛する夫である拓跋濬(文成帝)を亡くした後に、皇帝を殺してでも権力を維持し、均田制と租庸調の制度を作り上げた女傑・馮太后の物語ですが、日本においても日野富子のような人物が出てきていることからも歴史は繰り返す者なのかもしれないとつくづく思わされます。

教科書や動画で見る奈良と、実際に自分の目で見た観光資源の宝庫かつ、文化の集積地である奈良の力強さと歴史に裏打ちされた街並みに圧倒され続けた一日目でした。足は棒になり、鹿にはずっと付いて来られたりで色々とありましたが、充実した一日目だったと帰宅した今となっては心から思います。

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