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東大寺のお水取り

二月堂

お腹が空いて、ならまちあたりでのおしゃれなランチを断念し、東大寺の茶屋で親子丼と小うどんを食べる。美味しい。大仏でも見て行くか、と歩いていると三月堂と二月堂があった。お水取りのとこかぁ、と二月堂の上から生駒山と街を眺めた。

曇り空

大仏堂に向けて歩いていると、コーンで道が止められ、本格的なカメラを持った人が並んでいる。私もただ大きめのカメラを首から下げていただけなのに、女性に「ここがいいよ!」と列の前に入れてもらった。

「あの、入れて頂いて何なんですが、これは何でしょうか」

これ以上ないレベルの間抜けな質問にも、女性は穏やかに答えてくれる。ガイドさんなのだろう。

「レンギョウシュウのお食事を運んどるんですわ」

はあ、何か修行の時期なのね。

修二会(しゅにえ)

「そう言えばお水取りって、ありますよね」
「それが今なんよ」
「え!」

あんたそこから?と呆れるわけでなく、淡々と、かつ懇切丁寧に説明してくれる。知識のない通りすがりにも慣れているのだろう。

修二会は旧暦2月、3/1〜3/14までの期間、毎日行われる修行。その12日がお水取り。修行スケジュールのプリントまで出して見せてくれた。

強そうなおじさんたちがバケツに入ったお湯や、大きなお盆に乗せた食べ物らしいものを運んで行く。

福岡から来たという別の女性と一緒に、ガイドさんに色々と質問する。その方はさだまさしのファンで、東京に行き、さだまさしが松明を出すというので帰りに奈良に寄ったらしい。色々な推し方があることに感心した。

お湯みたいなのを運んでいます

「さっき持って行った輪っかみたいなのは何ですか?」
「うーん。実はねぇ、もうずっとやってるから何か分からない物もあるらしくてね、そういうもんじゃなかろか・・」

そのうち、ジキ作法というのがあるからと、促されるままに移動した。

生飯投げ

いいフォームで生飯を投げる練行衆の方々

修二会の修行の期間、練行衆の食事は一日一度。食事も修行のうちで、「食(ジキ)作法」と呼ばれる。その最後に、鳥獣たちへのほどこしのために取り分けておいた生飯を投げる「生飯投げ」があるそう。

お坊さんたちが一人ずつ出て来て、素晴らしいフォームでご飯を投げる。屋根に乗らなかった場合に待機している係の人もいるが、今回は必要なかったようだ。

せっかくなので私も撮影したが、待ちに待っていたカメラマンが競うようにシャッターを切ることの方が面白かった。東大寺の係の人が丁寧に説明しつつも、「あんたら毎年毎日来て、何をそんなに撮ることがあるんや」とあきれていたが、その通りだと思う。見せものでもないだろう。

隣の女性が、「厳しい修行の間のホッとできる時間なんやろうねぇ」とつぶやいて、「そうかも知れないな」と思う。練行衆にとっては一瞬外の世界に触れられる、また皆が注目する役割を担っていることを確認できる大切なひとときなのかも知れない。

夜19:00に来ると良い、写真を撮るならここ、などと教えてくださり、ガイドさんと分かれた。最後に聞いたらこの人はガイドさんではなく、ただ好きで毎年見に来ている人だったことにも驚いた。

さだまさしファンの女性が大仏堂まで連れて行ってくれた。
目当ての松明と写真を撮ってあげたり、咲いている花を見て「私は馬酔木が好きでねぇ」とか、話をしながら歩いた。

さ だ ま さ し
馬酔木

なにかとても、いい時間だった。

お松明

夜、教えてもらった時間ギリギリに来ると、すでにたくさんの人が集まっていた。ガイド(ではなかったが)の女性が教えてくれた芝生のあたりは当然もう、近寄れない。修学旅行生や海外からの観光客に交じってお松明を待った。

隣にいた、東大寺の係の人がものすごいカタカナではあるがしっかり伝わる英語で外国の人に説明している。日に焼けて年も取っていても、なかなか気持ちのいい男前だ。しっかり身体を動かしている人の美しさに魅惚れつつ、色々と質問して練行衆の選ばれ方など、理解を深めた。

19:00になるとあたりの街灯が消え、お松明が始まった。予想よりずっと大きい火の玉が階段を上っていく。二月堂の見晴らしのよい廊下を、偏りなく燃すためにぐるぐる回しながら走り、端っこに来ると大きく掲げて、火の粉を落とす。すごい迫力だ。正直どうしてこんなに人が集まるのか不思議だったが、これは見る価値があると思った。世の厄とともに、胸の内の厄も燃やしてくれそうだ。

この一連が上手な人とそうでもない人がおり、「この人うまいな」と下界の人々は好きなことを言っている。終盤に近づくほど、熟練者のように思えた。

うぉりゃあああああーーーと廊下を走り
はしっこでどーん

「これ、なんで燃えないんですか」
「火の粉が落ちたらすぐ消すんよ。でもなんで燃えないか、不思議よねぇ」
その言葉通り、よく見ると複数のお坊さんたちが欄干に落ちた火の粉を竹ぼうきで払っている。
こんな木と紙でできた建物が燃えないことの方が不思議。
江戸時代に一度だけ燃えたらしい。

コロナの時期に練行衆が罹患するのを防ぐため、観覧も制限していたそうで、本格的な観覧は今年からなのだそう。

ふたたび二月堂へ

お松明を見て帰ろうとすると、行列に並んでいる人たちがいた。並んでいる人に聞くと、二月堂にお参りできるらしい。昼間お参りしたからいいかな、と思ったが、「行った方がいいわよ」と強く言われ、疲れていたが並んだ。
修二会に来ている人たちは、皆親切で、情熱を持って教えてくれる。より多くの人にこの魅力を知って欲しいのだろう。

二月堂の中に、読経の声だけ聴くことができるというので入ってみた。ほんのりとシルエットでお坊さんが儀式の作法をしているのが見える。私たちの知らないところで、国の平安を祈って何百年も祈り続けている人たちがいることのありがたさを思った。

真っ暗な中、音の粒子の温泉に浸かっているようで、ずっとここにいたいと思ったが、京都への移動時間を考慮して、そのうち外に出た。

(2024.03.01)