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かそけきものの旅路

春分の日に、内田輝さんのクラヴィコードのコンサートに行った。14世紀頃の、聴衆のためではなく、神に捧げられる音のための楽器。内在する神との対話ができるよう、音は限りなく小さくされたのだろう。

バッハからはじまり、シルクロードを超え、屋久島の雨音まで。はじめはその微かすぎる響きに驚くが、暗闇に目が慣れるように、やがて耳が開いて、そこにあるのに気づかなかった、空調や遠くの車の音、空間自体の発する響きが急に耳に流れ込んでくる。

隣にいた女性が「今ここで鳴っているんじゃなくて、遠い昔から聴こえて来る音みたい」と仰ったが、その通りだとおもった。終演後、客全員で作り上げた完全な沈黙が解けた後、鍵盤を押させてもらってもその音は聞こえなかった。

派手で分かりやすい物が横行する現代では、クラヴィコードの音楽など、あっと言う間にかき消されてしまう。しかしそうしたかそけき存在は、何故か内田さんのような数少ない人々に守られて、細々と、しかし確実に、受け継がれて来たのだ。

内田さんは、クラヴィコードをおおむね、1年に1台作れるとおっしゃった。その声のうちに、この人生のうちにあと何台、どのレベルの物を作れるようになるか、そしてそれを誰に渡せば次の担い手に繋げていくことができるかという計算を反芻している気配が感じられた。

色々な分野で同じような担い手がいる。その様子を見ていると、担い手が役割を選んだようで、実はかそけき存在の方が彼らを選んだのではないか、と感じられることがある。

その感覚を得た担い手の人生は、言いようのない安心感と、同時に厳しさと隣合わせになるだろう。与えられる縁もお金も、そして才能さえも、借り受けているだけに過ぎず、役割を離れた途端全てが失われることも、想像がつくようになるからだ。

そうした流れの下で、個の存在は世代感を繋ぐ役割に過ぎず、死は小節線くらいの意味合いになり、その命は流れ続けるメロディと一体となり溶けてゆく。

クラシック音楽という分野の、もう一つ内側にも、かそけき本質の担い手がいると感じられることがある。おおむねそうした担い手は、分かりやすいスタープレイヤーを隠れ蓑にするように、さほど目立つ場所に居続けない。しかし必要なだけの、寡黙で真剣な支援者に支えられていることが多いように思う。そしてその演奏を通じて聴き手を、師弟関係を通じて次の担い手を選び取り、次の世代に確実に繋げて行くことに集中している。おとりを前線で闘わせ、その隙に別の道で生き延びるしたたかな兵士のようでもある。

お茶も、書も、音楽も、同じ構造だ。大事なことはいつも、小さな声で語られる。クラヴィコードの音色に耳を澄ませたように、私はそのかそけき声に耳を傾けている。