二年前の日記 1/5

2018/01/05

 埼玉県は今月1日より、山で遭難した人をヘリで救助した場合、5分につき5000円の費用の徴収を開始した。とは言ってもすべての山で徴収するのではなく、ヘリで救助を行うにあたって、危険度の高い山に限ってということなので、非常に良心的であると思う。

 もちろん不満の声も出るだろう。しかし不満であるなら、山に登らなければ良い。それだけだ。それをどうしても山に登りたいというのであれば、十二分に安全重視の準備を整え、無理のない登山コースを選定し、その上でヘリに救助された場合のことを考えて貯金をする、そこまでやれる者だけが山に登れば良いと思う。金は払いたくないし準備はなるべく軽い方が楽だしコースはその日の思いつきで行きたい、とか思ってるヤツは迷惑なのでとっとと死ねば良いのではないか。

 今回のこの埼玉県の取り組みが、全国に広がってくれると良いのだけれど。


 4日、兵庫県西宮市の市長が読売新聞の記者に対して「殺すぞ」と発言したことが問題になっている。まあ確かに穏当な発言ではない。だが本当に「殺すぞ」と言ったのだろうか。「うっさいわ殺っそボケ」ではなかったのか。もし後者なら関西では挨拶程度の罵倒である。なおそれに対しては「ええー、殺すんは勘弁してくださいよ」と返すと、「ほんなら殺さへんわ。死ね」と会話が続く。心温まる光景である。

 それはともかく、市長という公の存在が個人を罵倒するような言葉を発するのは褒められたことではない。非難されてしかるべきだろう。ただ、別にこの市長をかばうわけではないが、どうせ読売新聞の記者も「殺すぞ」と言われるようなことをしてたんじゃないの、と思うのは自分だけか。何もせず、たた立っていただけの者に「殺すぞ」と言ったのなら、それは単なるキチガイである。市長としてどうとかいう以前の問題だ。すぐに病院に連れて行く必要がある。だがそうではなかろう。

 この市長は4日の年始の挨拶で、次の選挙に出馬しないことを明言した。読売の記者は壇を降りた市長に事実を確認しようとした。そこで「殺すぞ」である。その瞬間か、そのときより以前のことかは不明だが、何かがあって市長がぶち切れてしまった可能性は高い。

 何度も繰り返しになるが、それでも市長の職にあるものが「殺すぞ」は許されるものではない。しかし読売の記者の側にも、「自分の取材には答えてもらえるのが当たり前」という思い違いのようなものはなかったか。各マスコミは一斉に一方的に市長を非難しているが、何だかそれが気に入らない。

 普段は他人を容赦なく攻撃するくせに、自分たちが攻撃される側に回ると右も左も寄り集まって、過剰なまでに横一線で相手を叩く。異論は許されない。まさに第4の権力。権力を見張るのがマスコミの役目だというのなら、マスコミを監視する立場の存在が必要となろう。BPOのような中途半端なものではなく、テレビや新聞を一括で監視する組織の必要性が高まっているのではないか。

 もちろんそれを国が主導して作れば、また「戦前回帰」だ何だと言われてしまうのだろうけれど、マスコミの行動を公の立場で批判する存在がないのは国民にとって大きな不利益である。何とかならんものだろうか。


 安倍首相は4日、三重県伊勢市で年頭に当たって記者会見をし、「戌年の今年こそ新しい時代への希望を生み出すような憲法のあるべき姿を国民に提示し、改正に向けた国民的な議論を一層深めていく」と述べた。戌年は何か関係あるのか。

 まあ実際に憲法を改正するかどうかは別として、議論を深めるのは必要であろう。自分は改憲派であるが、議論の末に改正しないというのなら、それはそれで受け入れる余地は充分ある。改憲した方が良いとは思っているが、改憲以外の手段が一切ないと信じている訳ではないからだ。

 自分の頭の外にも知識はたくさんある。もっと優れた解決方法があるのなら、そちらを選ぶ方が良いに決まっている。しかし議論さえ許さないという一部の考え方は絶対に認められない。憲法は宗教の経典ではない。国民全体のためにあるべき便利な道具を、勝手に侵すべからざる有り難いものに祭り上げられては困るのだ。

 民主主義国家にはいかなるタブーも存在すべきではない。例えば皇室についても、もっとオープンで自由な議論がなされるべきだと思う。いわんや憲法をや。現代的だとか中世的だとか、先進国だとか発展途上国だとか、そういうのはどうでもいい。話し合うべきものがあるのなら、話し合うべきなのだ。

 もしかしたら護憲派の一部の人々は「話し合ったら負け」とでも思っているのかも知れないが、そういう問題ではなかろう。自由闊達に議論すれば良いのだ。もちろん議論に参加できない者もいるだろう。参加しない方が良い者もいる。自分だって専門家が議論している中に混ぜろとは思わない。しかし誰一人議論ができないなどということはないはずだ。

 改憲派にだっていろんな主張がある。護憲派にだってあるだろう。ならばそれぞれの主張をしている人々の中でトップクラスに頭の良い者が代表者として集まり、どのようにすべきかを議論すればいい。国会の参考人という形でも構わない。とにかく話し合うことだ。

 と言っても別に話し合えば正しい答えが出るなどとは思っていない。だが話し合い、意見を出し合わなければ未来の可能性が見つけられない。ただ意味もなく停滞しているだけというのは時間の無駄である。それは国民にとっても損失だ。

 北朝鮮と話し合えという人々はまず日本人同士で話し合うことを考えるべきだろう。多様性を守るということと、問題を放置することは話が違うはずだ。何も日本全体でガチガチの一枚岩になれと言っている訳ではない。ただ相手側の言いたいことを憶測や決めつけやレッテル貼りで理解したつもりになっているのはお互いに無益なのだということに気づいて欲しい。右にも左にも言えることであるが。

 なお、自分は北朝鮮とは話し合っても無意味だと思っている。いまの北朝鮮にとって話し合う意味があるのはアメリカと中国とロシアくらいだ。日本にできることがない以上、話し合う余地などもうない。まあ日本が核兵器でも持てば話は変わってくるのだろうが。


※ 安倍首相はかけ声は立派なのですが、肝心の改憲議論はまったく深まる様子を見せません。安倍さんが総理大臣の間は改憲できないのでは、と思っています。日本を取り巻く情勢は日々変わって行きます。いままで大丈夫だったからという理由だけで、改憲にまつわる議論すら許さないというのは異常です。ちゃんと改憲議論のできるリーダーが求められているのではないでしょうか。

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