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『本物』とはなにか

前回のnote冒頭『速さが正義』なら、そのための行為はすべて正しいということなのでしょうか。

正義という大義名分は、ときに人を鬼にかえてしまいます。

その最たる例が戦争行為などなのでしょうが、テーマが壮大過ぎて一スポーツ選手である私が公の場で語ることはできません。

ここではスポーツの現場を例に正義の弊害について話していきましょう。

人のなかの正義

『私はこう思う』と意見を言うことと『あなたはこうあるべき』と言うことは表裏一体のように思います。

スポーツの現場では、成功者が歩んだ道のりを後人も辿るべきという議論が後を絶えません。

そもそも、スポーツにおける成功とは一体なんでしょう。

ある大会に勝つことでしょうか。それとも、ライバルを打ち負かすことにありますか。

でなければ、お金を得ることでしょうか。

金銭やリザルトというのは、スポーツ選手にとって最もわかりやすい評価基準ではあります。

人それぞれがもつ成功の定義は、その人の為人と正義を表しているように思います。

形ばかりが正義ではない

自分のなかの正義を貫き生きることが、目の前に大きな壁となって立ちはだかることもあります。

それはさながら、種々な正義のぶつかりあいの様にもみえます。

形式的な正義が他人を、ときに自らを喰らう鬼を生み出してしまうこともあるでしょう。

正義のかたちは様々あってよいかと思います。

ただし、競技愛を汚すような行いや言動、平たく言うと『自転車が嫌いになる』ような行為を正しいとは思いませんが。

最終的な勝者になる

現実的にプロ選手として生きるならば、然るべきリザルトと対価は必要です。

ですが、私の場合それらはモチベーションの源泉とはなりませんでした。

すべての人間が形だけの『ほんもの』を頼るとは限らないのです。

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