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「ナイーブ」と「魯鈍」

「ナイーブ」というカタカナ語ほど、もとの英語の意味から大きくかけ離れた言葉もあまりないかもしれない。

作家の辺見庸さんは、『水の透視画法』というエッセイ集のなかで、こう書いている。

プラハ演説でどきりとさせられたのは、核なき世界への努力についてオバマ氏がにわかに厳しい顔になって述べたI’m not naive(私はナイーブではない)というしごく簡明なせりふだ。日本語の「ナイーブ」は「繊細」とか「感じやすい」とかなにやらよい意味あいでつかわれたりするけれど、ラテン語nativus(生まれながらの)に由来する英語では逆に「世間知らず」「魯鈍」といった侮蔑的で皮肉めいたひびきになる。
辺見庸 『水の透視画法』「B.オバマとは何者か?」163p (共同通信社)

魯鈍。まさに。

英語で「naive」といえば、<常識として当然知っているはずのことも知らず、それゆえに騙されやすい、シンプルでちょろい人>というような意味になる。
決して褒め言葉にはならない。

日本語の「ナイーブ」は、オンラインのGoo辞書では


「[形動]飾りけがなく、素直であるさま。また、純粋で傷つきやすいさま。単純で未熟なさま。「ナイーブな感性」「ナイーブな性格」

…と説明されている。

植物性成分をうたう「ナイーブ」という商品名の石鹸もある。これも日本語の「ナイーブ」が意味するところの、「純粋で混じりけのない」というイメージから命名されたのだろう。

英語圏の人がみたら「えっ?」と思うことは必至のネーミングだ。

それにしてもどうして、日本では「ナイーブ」がポジティブな意味合いに反転していったのだろう。戦後のことなのか、戦前から使われていたのか。きちんと調べたわけではなくて勝手な推測だけれど、戦後まもなく、昭和30年代くらいに流通しはじめたのではないかという気がする。

興味深いのは、「純粋」「純朴」で「なにも知らない」「傷つきやすい」ことに価値を見出す、その感性だ。純粋さ、混じりけのなさ、世間を知らないこと、「ケガレを知らない」「汚れていない」「ピュア」な属性に、日本人は特別に心を惹かれるのではないか。

そういった「ナイーブ」な属性と正反対の属性は、世故長けている、世間知に通じている、といったところ。そういう立ち回りがうまく目先のきく人物を胡散臭いと感じて警戒し、純朴な人を歓迎する感性が、日本の文化には特に強くはたらいているのだと思う。


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