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【中世】足利義輝(1536年~1565年)

征夷大将軍足利義輝は生涯で二つ、極めたものがあります。一つは剣術です。彼は剣の達人でした。当時(室町時代後期)剣豪として名を馳せていた塚原卜伝から奥義「一之太刀」を伝授されたと言われています。もう一つは、剣の収集でした。彼は全国各地の名刀を集めていました。彼は史上最強の征夷大将軍ではないかと個人的には思っています。笑

1536年、足利義輝は12代将軍・足利義晴の嫡男として生まれました。下克上の時代、将軍の権威はすでに地に落ちており、当時、父である義晴は将軍補佐である管領の細川晴元と互いに争いを繰り返していました。

1547年、将軍と管領の和睦が成立するとわずか11歳で足利義輝が将軍となります。ところが、細川晴元の家臣三好長慶が晴元を裏切ったことで将軍足利義輝は、京都から近江へ追われました。

1552年、足利義輝は三好長慶と和睦し、京に戻ります。ただし将軍とは有名無実で、長慶とその家臣・松永久秀による飾り物の将軍となってしまいました。1553年に管領細川晴元と協力して長慶との戦端を開くも敗退し、再び近江へ逃れ、以降5年間をこの地で過ごします。

しかし、将軍義輝は幕府権力と将軍権威の復活を決して諦めませんでした。三好長慶との和睦に成功するとようやく京に戻り、将軍親政を始めます。征夷大将軍として諸国の大名との関係改善を図っています。武田と上杉、島津と大友、徳川と今川、毛利と大友など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行い武家の棟梁として威厳を示そうとしました。

しかし、お飾りとしての将軍を擁立しようとする松永久秀は、将軍義輝は邪魔な存在でした。 久秀の長男・松永久通は足利義栄(義輝の従兄弟)を新将軍にするため1565年5月19日、松永久通は約1万の軍勢を率い二条御所に押し寄せます。足利義輝はもはやこれまでと最期を悟ります

将軍義輝は己の人生をかえりみ、最期に一矢報いたい、自分の運命と闘おうと決心します。

義輝は家臣や女・子供を皆逃がし、たった一人になります。そして、彼が集めた全国の名刀を畳に刺し、その中心で敵が迫ってくるのを待ちます。そして敵は一斉に襲いかかってきました。その時、秘剣「一之太刀」が炸裂します。義輝が畳に刺した剣を抜き、一振り、そしてもう一振り「ヒュンヒュン」と音がしたかと思うと、敵は体を切られ崩れていくのです。目にもとまらぬ早さでした。そして血がついて刃こぼれするたびに新しい刀を畳から抜き取り、寄せ手の兵と戦いました。倒した敵の数は数十人を数えます。四方八方から襲いかかってきているにも関わらず、これだけの敵を討ち取ったのです。

しかし、衆寡敵せず、敵の槍刀で地面に伏せられたところを一斉に襲い掛られて最期を迎えます。享年30歳でした。 

辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」

将軍という運命に翻弄されながらも懸命に生きた若者の、心の叫びのように私には感じます。 そんな、足利義輝が私は好きです。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。