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【中世】平清盛(1118年〜1181年)

武士として初めて太政大臣に就任した平清盛は比較的有名であると思う。彼が太政大臣に就任したのは1167年、49歳の時であった。かつて大河ドラマでも平清盛は主人公になったことがある。覚えていらっしゃるであろうか?主演を松山ケンイチさんが演じていた。

清盛がいかにして、平氏政権と呼ばれる一時代を築き得たのか、そして平家が後の世に残していったものは何だったのか、考えていきたい。

平氏は桓武天皇の流れを組む、桓武平氏から始まる。平将門を倒した平貞盛の子が伊勢に土着したことから伊勢平氏の流れが生まれる。この伊勢平氏の流れを汲んだのが清盛であった。清盛の祖父にあたる正盛は、白河上皇の院近臣であり、北面の武士として信任を受け、清盛の父である忠盛は鳥羽上皇の信任を得た。また忠盛は瀬戸内海の海賊を討伐し、これを従えることで瀬戸内海航路を整えるとともに、九州にある荘園の管理を行うことで、中国宋との貿易も進めていった。これによって、平氏は貿易による大きな経済基盤を得ることになる。

清盛が武士という、当時でいうと昇殿も許されない貴族の番犬扱いであった身分から太政大臣にまで出世できたのは、実は当時最高権力者であった白河法皇の落とし胤であったという噂もあった。

いずれにしても、清盛は忠盛の子として、平家の嫡男、武家の棟梁として、武芸も鍛錬しつつ成長していく。1156年、1159年の保元・平治の乱に勝利した清盛は、後白河院政で院近臣として中心的な人物となっていく。そして1167年に、内大臣から太政大臣へと太政官のトップに躍り出るのだ。

その後、1169年に後白河上皇は出家し、法皇となり、高倉天皇を即位させ、この高倉天皇には清盛の娘である徳子が入内しており、法皇は平家との協調関係を築いたのだ。平家は全国に500を超える荘園を有し、全国の半数の知行国、日宋貿易の利益など、莫大な経済力を手にする。

また、西国を中心に、荘園に家人を地頭として派遣し、武家政権としてとしての体裁もとっている。この頃、清盛の妻の兄弟である、平時忠は「平家にあらずんば人にあらず」といわしめ、平家は全盛期を迎えた。ちなみに、日宋貿易を重視し、音戸の瀬戸の開削や大輪田泊の修築を行い、厳島神社に平家納経を納めたのも平家であった。厳島神社は宮島にあり、フェリーで行ける島である。

しかし、栄枯盛衰の言葉通り、平家の時代は長く続かなかった。1177年には、平家打倒の陰謀計画が発覚する。さらに黒幕として、後白河法皇の存在が明らかになると、清盛は1179年、後白河法皇を幽閉し、院政を停止させた。

ここに至り、反平氏で渦巻く機運は一気に盛り上がり、治承・寿永の乱と言われる源平合戦が始まっていく。

その筆頭になったのが、かつて平治の乱で敗死した義朝の子、頼朝であった。頼朝はその時処刑されるはずであったが、清盛の母の計らいで一等減じて、伊豆に流罪となっていた。この頼朝が、1180年、ついに反平氏の筆頭として挙兵したのだ。

頼朝は破竹の勢いで勢力を拡大し、富士川の戦いで平家を敗走させる。そして、頼朝の弟である範頼と義経の軍が、平家を追い詰めていく。

そんな中、清盛は1181年、平家の行く末を案じながら、息をひきとるのだ。享年64歳であった。彼が最期に放った言葉は「葬儀は無用、頼朝の首を我が墓前に備えよ」だった。平家がどうなってしまうのか、気がかりだった清盛の焦りがこの言葉に象徴されている。

そして、この先はご存知の通り、1185年に壇ノ浦にて平家は滅亡する。清盛の孫にあたる安徳天皇は、入水し、平氏の時代は終わりを告げる。一方で、関東の地方政権としてスタートした鎌倉幕府は、源氏将軍が3代で途絶えてしまうが、幕府としては、承久の乱や元寇を通して、支配領域が全国に拡大し、朝廷を凌駕する権力を手にしていく。平家の栄枯盛衰に関しては、「平家物語」を琵琶法師によって平曲で語られ、人々の語り草となった。

平清盛を代表とする平氏の栄華はわずかであったが、彼が築いたのものが、武家政権へつながっていったことは間違いない。武士が朝廷とどう渡り合うか、そのモデルケースとなり、後世の人々の道しるべになったのだろうと思う。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。