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【小説】秀頼と家康の会見③

豊臣と徳川。天下を分けるその両家の代表が会見をする。この会見が実現した大きな理由の一つに彼がいた。豊臣の時代に台頭し、時代の趨勢の中、徳川の世の中を認めつつ、豊臣への深い愛情を微塵も失ってはいなかった。

加藤清正である。刀鍛冶の子として生まれ、戦国乱世の時代を生きぬき、秀吉の生母と遠縁であった関係から、秀吉の小姓として仕えることになった。武の道を歩むことになる、その最初の一歩であった。秀吉はこの若武者を可愛がり、多くの猪武者と交わらせ、一人前の武将として育てていった。

加藤清正はそれに感謝し、応えた。秀吉にとって大きな転機となったのが明智光秀を討った山崎の戦いと、織田家中で筆頭家老であった柴田勝家を討ち破った賤ヶ岳の戦いであった。この賤ヶ岳の戦いで加藤清正は大いに奮戦し、大将首を挙げ、「賤ヶ岳の七本槍」に1人に数えられる。

その後、肥後国(熊本)の領主を命ぜられた。熊本は長く領主が不在であり、領国経営は難しいとされたが、各地の国人勢力をよくまとめあげ、優れた治水事業や土木事業、殖産事業により領民の暮らしを豊かにした。加藤清正には武だけではなく、優れた統治能力があった。

その後、関ヶ原では石田三成との不和から、東軍に与し、徳川家康を支えた。その後、徳川の時代となりつつあり、豊臣は一大名となり下がってしまった。大恩ある豊臣に対する、清正の心中は決して穏やかなものではなかった。しかし、極めて有能な頭脳を持つだけに、徳川の時代が続くであろうこと、これを崩すことの困難ことが嫌でも理解が出来た。

最期に己にできることは、豊臣を守り、徳川の時代に有力大名の一つとして生きぬくことである。豊臣が存在することで徳川に対する睨みとなり、ゆくゆく徳川と豊臣が真実の友好を築ければ、その時は真の意味で日本国が安定するはずだ。

清正は自分の死期が近いことを知っていた。秀頼は若く聡明な男である。秀頼ももはや天下を望むのではなく、いかに豊臣を残すかを考えている。そういう男だ。母の淀君は何とかして説き伏せよう。

そう、独りごちながら、清正は二条城を目指した。完成して10年と経たない、この新しい城は、白づくりで新しい時代の息吹を感じさせた。新緑が輝く4月の日差しを受けながら、朝露のきらりと光る砂利道をしっかりとした足取りで各々二条城を目指した。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。