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ローマ人の物語 6

第14巻
コンスタンティヌス大帝(在位337-361)。キリスト教を公認したので大帝と言われる。
残された3人の実子と4人の甥。大帝の葬儀に出席した肉親は、二人の子供の甥(一人はその後殺され、一人は皇帝になる)以外すべて殺される。次男コンスタンティウスの策謀と目される。3人の大帝の実子による帝国の分割支配も、最終的には、次男の統治一本になってゆく。
次男による三男との内戦でガリア地域の軍事力は大きく弱体化、蛮族の侵入を許してゆく。
313年6月の大帝による「ミラノ勅令」→宗教の自由を名目にキリスト教の公認と保護。
大帝はすでにキリスト教信者でもあった。特に東方ローマにおいてはキリスト教の普及は広範に及ぶ。他方、その内部では三位一体説をめぐる信者間の対立も深刻化していた。ユリウス(ユリアヌス)(在位361-363)の登場はそんな時代背景にあった。東方ローマがアジア化する現象の中で特記すべきは、宦官の登場とその皇帝側近としての権限拡大である。
ササン朝ペルシアとのメソポタミアをめぐる戦争の再開。正帝コンスタンティウスの、副帝ユリウスへの配下軍隊の動員命令。兵士たちの抵抗とユリウス担ぎ出し。遂に皇帝の称号をユリウスは受けるが、分割統治を認めるように正帝に依頼するも黙殺。内戦覚悟して東方への進撃を開始するユリウス。突然コンスタンティウスが病死する。
皇帝としてのユリウスの政策は、東方の宮廷のように奢侈に流れているすべての分野での大リストラと、すべての信仰を認めるローマ原点への回帰、更には、キリスト教徒への優遇制度の撤回とギリシャ・ローマ宗教の再興などであった。元来がギリシア哲学の学徒として生涯を送るはずであったその人が、改革の鉈を振り始める。反発する既得権者(宦官などの宮廷官僚やキリスト関係者、一般市民の信者)。401年、キリスト教の勝利確定。
ペルシア進撃の先頭に立つユリウス。別軍との合流がかなわず撤収するローマ軍を襲うペルシア。撤退の中で突然ユリウスは槍で刺され結局死去する。犯人は不明なるも、親衛隊兵士とのうわさも。いずれにしろキリスト教信者の広がった世界でのユリウスの孤立。
フン族の登場。ゴート族を圧迫。ゴート族はドナウ河南岸(ローマ領)へ逃れ定着する。


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