「ニコライの日記」(2)

中巻
・    明治25年から34年まで
・    日本国民は、仏教、儒教、神道という3人の宗教的養育者ともう一人の 
  教師である厳格な日本政府によって、この世に生きるための称賛に値す
  る良いしつけを身に着けた。このしつけは、東京、盛岡、鹿児島等外国 
  のものを喜んで取り入れている地方では崩れている。
・    三国干渉の余波として「異教徒が正教徒に攻撃を仕掛けている」との記
  述。(明治28年5月)
・    明治28年6月、日本全国で22,271人の正教信徒数
・    異教徒の邪魔として仏教徒側の正教信徒の葬式(形式と墓地)への苦情
  や抵抗、教会用地の買収への邪魔などが挙げられている。
・    明治30年6月の記載。「天皇は神」という教えへの批判。この時点で天
  皇が「神」という表現が日本社会に既にあったという事実。
・    日本に根付かない他のロシア人宣教師。心の悩みが日記に表白されてい
  る。
・    明治32年3月 ロシア海軍提督がニコライ訪問。ロシアにとって朝鮮の
  必要性を主張。ニコライの考えは記載なし。
・    同年7月6日 治外法権が撤廃された旨の記載
・    義和団の乱の記述と共に、日露戦は必至の情勢などの記述
・    中巻全体に流れるのは、喜びと失望。具体的にはロシア神学校卒業日本
  人の裏切り、信徒の素行、教会維持のための資金問題、伝道者という強
  い意識と現実の日本の状況、時に絶望感もある中で再びの喜びも。かな
  り率直に自己の感情を述べている。

   「ニコライの日記」下巻を読みだす。
35年間、ロシアからの後任者の派遣のない事実への嘆き(何人かは来たがすぐに帰国)。仏教徒の迫害と日露戦争による一般民衆からの攻撃と身の危険。
日本人の宗教的義務感と祖国への愛国心。ロシア人捕虜収容所への司祭派遣。ロシア本土からの捕虜への慰問金。それらの寄付行為に対して、必ず収支報告をする生真面目さ。ロシア講和後の国内の革命運動の勃発への心配と嫌悪。日本国内の講和への反対暴動。

 ニコライの悲鳴声→孤独、資金がない、ロシアとの戦争が近づいている。「ロシアから切り離され、日本から締め出されて苦しい」(1904年6月5日)
  サハリンでの日本軍の残虐事件(1905年11月21日)→サハリン軍管区総督の訪問時の話として記載されている。一般的には、欧米の眼を意識して日露戦争時の日本軍は規律がとれていたという評価(司馬遼太郎等)が多い中で注目に値する記載である。

以上

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