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〈蛇の星〉-1

[2017/8/27 改稿しました]

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 男は瓦礫を越えた。そして路地に入った。〈タケトミビル〉の裏手の錆びたドアを開けて、それを後ろ手に閉めた。発電機のスイッチを入れる。灯りはつかなかった。男は替えの電球の調達を忘れたことに気づき、舌打ちをしながら手探りでろうそくを見つけ出すと、それにマッチで火を付けた。給餌を待ちながら立ち尽くす〈アンテナびと〉たちの悲しげな顔の群れと、彼らの脳天からまっすぐに突き出た銀色の受信機がぼんやりと下階に浮かび上がる。男はコートを脱ぎずた袋の中身を作業台の上に放り出して缶詰の山を作り出し、それを順番にこじ開けにかかった。
 このような単純作業が男の脳裏に呼び起こすのは、決まってあの二年前の〈接触の日〉のことだった。たった二年でこれほどまでに世界が変わってしまうとは。男は缶詰のふたを次々に開いては、中身を脇においたアルミのボウルの中に種類を問わず黙々と放り投げていた。膨らんだイワシの缶詰から吹き出た汁が男の顔にかかった。
 男は階段を降りた。そしてボウルの中身を〈アンテナびと〉達へ順番にスプーンで食わせていった。〈アンテナびと〉。〈洗浄〉による世界白痴化の衝撃に精神が耐えられなかった、か弱き者達の成れの果て。
 長い時間をかけて給餌を終えた男は、再び階段を上がると、作業台の上のコンソールに電源を入れた。〈アンテナびと〉達のうちの気の早い者は目ざとくそれを察知して男の方を向く。それに気づいた男はにやりと笑うと、プログラムの起動を少しだけもったいぶった。男はこの時、いつもちょっとした加虐趣味もしくは被虐趣味に支配される。感情が死んだはずの〈アンテナびと〉達からの期待が、欲望が、男の全身に突き刺さってくるような気がするのだ。
 この時だけ〈アンテナびと〉達のことが本当にわかるような気がする。彼らはこの時のためだけに生きているのだ。男はそう思った。
 一瞬の間があった。
 そして男はコンソールで〈歓喜〉を起動させた。コンソールに接続された小型アンテナから放たれる信号が〈アンテナびと〉達の受信機を直撃し、快楽物質と電気信号の無慈悲な混合物が彼らの脳内を駆け巡った。〈アンテナびと〉達は一斉にびくりと痙攣し、彼らの目は見開かれ、そして咆哮!
 室内は一瞬にして狂騒に支配された。両腕を振り回しながら走りまわるもの。失禁しながら自らの糞尿の中をのたうち回るもの。よろこびの叫び声をあげながら自らの腕にかぶり付くもの。ひたすら自慰にふけるもの。 
 きっとこんなことを繰り返していれば彼らの脳は萎み、煮え、焼けただれ、使い物にならなくなってしまうことだろう。今この瞬間にも彼らの脳は死につつあるのだろう。
 だがその運命がわかっていながら、男にはこれを止めるつもりはなかった。自分だけが彼らに幸せを与えることが出来る。自分だけが彼らに再び世界を与えることが出来るのだ。ああ、おれこそが彼らのために生きているのだ。男はそう思った。
 そしてまた、この男には彼らしかもはや残されていなかったし、男にもそれがわかっていた。

 死んだ軌道リング〈天の橋〉がまっすぐに貫く空の下、街にはいつものあの行進の音が聞こえてきていた。
〈アンテナびと〉達の耐えうる限界まで〈歓喜〉を走らせたあと、彼らを一人ひとり抱きしめ、そして〈タケトミビル〉を出た男は歩道の脇に立ち、無数のゴミの山の間を這い進む〈宇宙カルト〉達の長い行列を見つめていた。
 男は考えていた。この崩壊した文明の中で、一体どのようにすれば人類の生存を維持していけるのだろうかと。社会に依存し、社会によって生かされていた人類は、それが失われてしまった今、何によって生きればよいのかと。
 男にはわからなかった。
〈洗浄〉による白痴化とその混乱の余波を生き延びたもののうち、いまだ正気を保っていた数少ない人々も、自らの精神をそれぞれが創り上げた儚い妄想で護り始めた。あたかも何事もなかったかのように生活を続けるもの(廃墟への出社、死体への朝礼)。自分の部屋のドアの外には何も存在しないと硬く信じて家屋の中に篭り続けるもの。獣に戻るもの。
 自ら死ぬことも出来ず、器用に妄想を発達させることも出来ず、ただ正気に苛まれるしかなかったものたちはどうすればいいのか。答えを求めた男は、ある古い精神外科手術に行き当たった。彼はその分野の専門家などではなかったが、その時の彼にはこれこそがまさにその答えに見えた。だから彼は実験を繰り返した。迷える人々を集めた。前頭葉の切除量を調整した。アンテナの挿入角度を調整した。電圧を調整した。プログラムを調整した。そして〈アンテナびと〉技術が完成した。
 男の元にはどこからか人々が集まり始めた。そして男はそれを拒むことなく次々に施術を行った。いくつかの失敗例はあったものの、〈アンテナびと〉の数は増え続けた。
 男はいつしか〈先生〉と呼ばれるようになった。

〈先生〉の前に夜ごと夢となって現れるのは、ある一匹の〈蛇〉であった。彼が物心ついたころから、緑色の肌に赤い斑点を持つその〈蛇〉とは毎晩出会うようになった。〈先生〉と〈蛇〉は夢が続く限り会話を重ねたが、〈蛇〉は決まって最後にこう言うのだった。


「我々には何でも出来る。我々の前には何億もの道が拓けている。我々には無限の可能性がある。不可能なことは一つだけ。それは勝利することだ。我々は勝利にたどり着くことだけは決して絶対にないだろう。幾度かの小さな勝利は勝ち得ても、最後にはきっと決定的な敗北と巡り合うのだろう。我々はそのように生まれたのだから。それが〈宇宙の定め〉なのだから。それが世界であり、そして我々はその一部なのだから」


 その意味を尋ねても、〈蛇〉は決して答えてはくれなかった。そのうちに〈先生〉は、それをただ単純に夢の目覚めの合図として受け取るようになった。
 だが今夜の夢はこの合図を待たずして消え去った。施錠したはずのドアが開いていた。汚いマットレスの上に眠る〈先生〉の前には、ろうそくを持ったひとりの〈宇宙カルト〉の男の姿があった。ローブを羽織った〈カルト〉の男は〈先生〉を揺り起こすと彼に言った。


「夜分遅く失礼致します、〈先生〉」
「なんだね、君は……。施術は昼間にしかやらないよ」
「今日お伺いしたのはそのご用事ではありません」
「ではなんだね……私としては、できれば何も言わずに帰ってくれるとありがたいんだがね。もちろん鍵を直してからね」
「少しお話をしたいことがあるのです」
「話。話かい」
「ええ」
「帰る気は無いようだね」
「ええ」


 これは少し付き合ってやらないと帰ってくれそうにない。そう判断した〈先生〉は、ため息をついて身を起こすと〈カルト〉の男に向き合った。ローブの袖から見える男の肘はすり減っていて、骨がむき出しになっていた。男は言った。


「〈先生〉は、宇宙に行くためには何が必要かと思いますか」
「そりゃあ、まず宇宙船……それにそれを発射するための諸々だね」
「あとはその操縦士ですね」
「もちろんだ」
「〈先生〉、私は〈洗浄〉の前には空港で管制官をやっていたんです。ともかくそのように、ぼんやりとですが覚えています。もともとは宇宙港で働きたかったんですが、そちらには落ちてしまって。宇宙に興味があったんですよ」
「……」
「特に好きな宇宙船は、エリック立花船長のアームストロング号。世の中には彼らが宇宙に行きさえしなければ、地球がこんなことになることは無かったという人もいますが、とんでもない……。彼らは偉業を成し遂げたんですよ」
「悪いが、もう帰ってくれないか」
「その乗組員の顔も、仕草もよく覚えています……。〈先生〉、あなた、エリック立花ですよね」


〈先生〉は立ち上がるとカルトの男をドアのほうへ押しやりながら言った。


「迷惑だから帰ってくれ」
「顔を変えてもわかるんですよ、〈先生〉……。いいですか。私達には宇宙船があるんです、私達はやっとのことで作り上げたんですよ。それを操縦するなら、あなたしか……」
「帰ってくれ!」


〈先生〉は男を叩き出すとドアを閉めた。しばらくはドアを叩く音と気の狂ったような〈カルト〉の男の声が続いていた。
〈先生〉はドアの前にしゃがみこみ、頭を抱えながら泣いていた。一人の〈アンテナびと〉がそれをじっと見つめていた。〈カルト〉の男が注意深く見ていれば、それもあのアームストロング号の乗組員の一人だということに気づいただろう。

 エリック立花は、今は〈先生〉と名乗っているこの男は、自分が原因で地球は破滅してしまったのだと信じていたし、それは事実だった。これが彼の物語だった。

<つづく>

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