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短編-聖なる炎

 百番通路の天井に女の死体が吊るされていた。首には看板、『恥知らず』。腫れ上がった顔、鬱血する程に縛られた手足を見れば、それが私刑であることは疑いようもなかった。
 区画整理の轟音と共に、切れかけた照明が瞬いた。
 シンロは女の死体を背負うと、通路を先へと進んでいった。

 人々が屋外に出ることを諦めたのはいつの頃だろうか。少なくとも、シンロの親は進んでそれを口にすることはなかったし、シンロもそれを二度と聞くことはなかった。一度目の質問で返ってきた両親の凍りつくような目線は、外界に興味を覚え始めたばかりの幼子の口をつぐませるのには十分足りていた。
 彼らの肌は生白く(それは陽の光を浴びることがなくなったからであった)、そして彼らの瞳は原猿のように大きかった(それは薄暗いこの世界で生きるためであった)。自己改造・自己拡張する〈ゆりかご〉の中での二千年の暮らしは、中で生きる人々の有り様を変えるには十分であった。


「現在第・ご・せん・さん・ひゃく・じゅう・よん・回の区画整理実施中です、皆様には、ご迷惑おかけいたします」


 轟音に混じってアナウンスが鳴り響く。


「白線の内側までお下がりください」

 区画と区画の境界には蓄光塗料により警告表示がなされている。これを〈ゆりかご〉のアナウンスは白線と呼んでいた。
 シンロは白線の上に立ち、暫くの間一歩先の暗い闇のことを見つめていた。そしてそこへ女の死体を投げ入れた。 

「いらっしゃいませ、お客様」

 シンロは軽妙な室内楽が流れるダイナーへ足を踏み入れた。カウンターへ座ると自動提供された再利用水を一口飲む。そして振り返って部屋を見渡した。誰もが皆シンロのことを見つめていた。その目には殺意があった。
 シンロは自分の姉を殺したのが単なる発狂異常者の衝動などではなく、同じ区画の居住者全員の正気の総意であったことを、ここで悟った。


「恥知らず」


 そんな声が聞こえた気がした。シンロは苦笑して立ち上がると、ダイナーを後にした。

 シンロとその姉が関係をもったのはつい最近のことであった。それは彼らのもともと住んでいた居住区では当然のように行われていたことであり、年頃になった彼らもそれに習っただけのことであったが、それは彼らの迷い込んだ先の居住区では到底許されぬ禁忌であった。
 ダイナーを出たシンロは、元の居住区へ戻ろうと一人で旅を始めた。しかし三十年の時を費やしたが、日々組み変わり続ける〈ゆりかご〉の中では一度離れた居住区を再び訪れることは出来ずにいた。
 しかしながら老いたシンロは、再び姉には出会うことができた。あの日投げ落としたあの死体は手足が滅茶苦茶に曲がっていたし白骨化さえしていたが、その首から下げられた『恥知らず』の看板が何よりの証拠であった。
 シンロは頭蓋骨を拾うと脇に抱える。恥知らずの姉弟は再び歩き出した。

 そしてさらに三十年の時が経ち、シンロは力尽きた。それは姉の死体を見つけた、あの薄暗い通路とそっくりの場所だった。乾燥した空気がシンロの白濁した瞳を傷つける。もはや瞬きもしないシンロは、口を半開きにしたまま微動だにすることもなかった。だが姉の頭蓋骨だけはしっかりと抱えていた。それだけは片時も離すことはなかった。
 どこからか、無数の小さな多脚機械が忍び寄ってきていた。彼らはやがてこの清掃機械たちに回収され、そして〈ゆりかご〉の外壁として生まれ変わることとなる。その時彼らは初めて、あの時伝えられた、あの時夢見た、あの時目指して旅立った聖なる炎に出会うことになるのだ。純粋なまでに無慈悲な、あの放射線の嵐に。
 死にかけた太陽とは言え、その輝きはいまだ衰えることはなかった。〈ゆりかご〉は太陽が死に絶える時まで、その傍を片時も離れずに付き従うことを運命づけられているのである。
 宇宙は厳しく、そして寂しい場所であった。だがそうであっても、どのようなかたちであれ、恥知らずの姉弟は目的を達成したのであった。

 それは恐らく幸せなことであった。

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