河井寛次郎と蕎麦

 アテクシは生まれも育ちも大坂なので、饂飩が好きで、どうも蕎麦ってのが良く判らないんですよね。
 でもTVのグルメOR旅番組なんかの題材の選択では饂飩か蕎麦かで言うと、蕎麦が圧倒的に多く選ばれている気がしますね。(四国饂飩は例外だけど)
 こういう方面では凄くミーハーな所があるアテクシですから、時々思い立ったように信州とかそっち方面に旅行に行った際には良く蕎麦を食べるんですよ。
 でもTVとかでうんちちくが語られているようなレベルで味覚が反応しないというのか、「ああこれが言われている所の蕎麦の味なのかも」程度なんですよね。
 もちろんキタとかでソレっぽい構えのお蕎麦やさんで食べる蕎麦とは別次元だってのは判るんですけど、to be quite blunt有り体に言えば「こんなの、それ程美味いか?」ってところです。
 基本、蕎麦の出自って救荒食でしょ、それが江戸時代辺りで「そば切り」とか「つなぎ」の技術が追加されて「ハレ」の食べ物になったわけだから、あんまりその姿や味を信仰じみたレベルで有り難がるのはどーもなぁって感じです。
 ちょっと前は、お蕎麦作りに惚れ込んじゃって脱サラしちゃったオトーサン達さんたちが結構いっちゃたりね。そんなオトーサン達は自分なりに覚悟決めてやってるんだからまあ勝手にすればって感じなんだけど、それをどっちみち直ぐに飽きちゃうTVとかのマスコミが賛美しなくてもなぁ、、て思ってました、正直。
 でも自分が西の文化圏のせいなのかどうか知りませんが、出雲とか松江の蕎麦は結構口に合うんですよね。
 単純に蘊蓄抜きで、食感とか出汁の味だとかが、こういう「麺類」もありだろ、って認識になる。
 で出雲とか松江方面の旅行では蕎麦を絡めた旅になる事が結構多いんです。

 それで今回のお題が「河井寛次郎と蕎麦」、、、前置きの枕が長くてどーもすいません。
 河井寛次郎ってご存じですか?梶井基次郎に良く似てますが、「檸檬」の代わりに「林檎」を書いた小説家ではなく、陶芸家です。
 いや彫刻をやったりとか文章の方も達者にお書きになられて民芸運動家と言った方がいいかも知れませんね。(現代において「民芸」ってワードが通用するんだろうか?)
 足立美術館に訪れると魯山人の展示室に居候してる感じで河井寛次郎さんに出会えるんですが、この人には何故か凄い親近感を覚えてしまいました、「此世は自分を探しに来たところ 此世は自分を見に来たところ」ってね、名文句でしょ。
 格好良いなぁ、この言葉、「この世界に自分を探しに来たら、女だった筈の自分が男だったりして、その自分の姿を様々な思いで眺めながらも もう少し、あがいてみるよ、自分は」みたいな読替えも出来るなぁ。
 あっ、実際の河井寛次郎の思いは、「仕事」とかそういゆー事に向いてますが、でもそれは今風で言う「自己実現」みたいな言葉よりも、もうちょっと深い想いだとアテクシは解釈してます。

 所でアテクシは美術館に行っても展示物に付いてる説明書きって殆ど読まないんです。
 時々、入館料の元を取ってやろうとしてるんじゃないかとしか思えない程、「順路」通りに移動し、余すことなく丹念に説明を読み、それぞれの作品を均等の時間をかけて見て回る人がいますよね。
 他人の事をとやかく言う必要はまったくないのだけれど、展示を見て回っていると物理的にそういう人とぶつかってしまうのがアテクシにとっての問題なのです。
 なので、自分が嫌なことは他人にもしない(笑)。いくら世間的に評価が高くても自分を惹き付けないものには自分にとっての価値はない。自分を惹き付ける物を見つけ出してそれに時間をかける。
 で、ここでの河井寛次郎の説明書きは一言一句読みました。
 それも、どちらかというと彼の作品の焼き物を鑑賞するより時間をかけて、、、。
 だってモノ作りに対しての考え方が、アテクシに凄く似ているから。
 それにこの人は「文章」も達者に書いたらしいですね。

 そしてアテクシはこの河井寛次郎に思わぬ所でもう一度、出くわしたのです。
 こちら方面での旅行では大坂への帰路も国道9号線を良く使うので、もしかしたら初日に探し当てられなかったお蕎麦屋さんを見つけられるかも知れないと思って、ゆっくり国道を流していたら道路のすこし奥まった所に「志ばらく」の看板を見つけてしまったんです。
 前にあれほど探して見つからなかったものが、こんなに簡単に見つかるなんて、勿論飛び込んじゃいました。
 ここはワリコ蕎麦が有名見たいなんだけれど、この日は薄ら寒い天候だったので、迷わず天ぷら蕎麦を注文。
 でも時間がかかることかかること。お店自体が明治大正の作りで、ゼンマイ式の掛け時計が時を刻むって感じですかね。
 ゆっくりした時間が流れるのはいいのだけれど、注文を受けてから掻き揚げ天ぷらにする野菜を刻み始めるまな板の音を聞いた時は、正直「・・・・」という気分になりました。
 しかたなく時間つぶしの為にお品書きを眺めていたら、そこに書籍のコピー見たいなものが張り付けてあるじゃないですか、、、それが何と再びの河井寛次郎。
 河井寛次郎が出雲蕎麦についてのエッセイを書いていて、そのコピーなんですね。
 その文章が又、上手い。
 chikaはうっすらと感激してしまいました。
 そしてその感激に合わせるように天ぷら蕎麦ができあがって、、上手く行く時は全てこんなものなんだなーと、小さな幸せを感じるアテクシでありました。
 更に、、お蕎麦がおつゆ(出汁)が、、あーこんなに微妙であっさりした味でいいものなんでしょうか。
 アテクシの中の「蕎麦」という味の概念がすこし変わってしまいました。
 おつゆもです、どうやら茹で汁、蕎麦汁を凄く上手く使っているらしい。
 「もう少し濃い味でないと」と感じる一歩手前で寸止めしてあるというのが絶妙ですね。見事に。
 うーむ、思わぬ「河井寛次郎」に、新発見の「お蕎麦」、これだから旅行は止められません。

 ちなみに河井貫次郎さんは和菓子とかにも凄く拘りがあって、生まれ故郷である島根県安来市の老舗『浜重』銘菓の「紅梅」というものにも関わりがあったそうです。これ、ご主人の喜三郎って人が、寛次郎さんから激励されてつくりだしたお菓子なんだそうです。
「私は辰砂の赤(焼き物の色)を出すのに苦労をした。喜三郎、おまえも、この色を出すためには、もうひと苦労ふた苦労しないといけない。私の辰砂の色を、お前の菓子でも表現してくれ。」
 その2年後の夏、喜三郎さんができあがった「紅梅」を京都の寛次郎さんのところに持参したところ、寛次郎さんは「これや、これや。これが私が見たかった辰砂の色や!」といって涙を流しながらひどく喜んだというお話。
 どーですか、ここまで来ると、この話、今の世の中では「伝説」扱いですよね。
 いつもは昨今の「日本スゲェ!」の浅はかさを笑って止まないアテクシですが、もし「日本スゲェ!」が本当にあるのならこういう所にその根があるんだと思いますよ。


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