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渚と書いて「みぎわ」と読むということを知った。

「みぎわって変わった名前だね」

「渚って書いてみぎわって読むんです」

当時、僕は大学生、彼女は高校生だった。

母校の吹奏楽部卒業生にしては珍しく、僕は大学でも吹奏楽を続けていた。

大学2年の頃だったか、突然携帯に母校の吹奏楽部から電話があり、指導と定期演奏会での部分的な指揮を依頼された。

母校の吹奏楽部はいわゆる「吹奏楽顧問」的な人がいなかった。外部指導者が演奏会やコンクールの指揮をしていた。

学校の役割としての顧問はもちろんいるのだけれど、僕が高校生のときに当時の顧問と外部指導者の間でちょっと揉め事があった。

僕らは当時の顧問が嫌いだったので、指導者側に回り、当時の顧問に顧問を降りてもらい、「私は指導は一切しないよ」という先方の条件を飲んで、副顧問だった英語の先生に顧問になってもらった。

その英語の先生がまだ顧問をしてくれていたので、一応顧問はいるが、指導はしない。外部指導者の先生も同じく続けてくれていたものの、あまり頻繁には学校に来れないため、おそらく僕が呼ばれたのだ。

単位を落としまくっていたがまだ余裕をこきまくっていた僕は依頼を受けることにし、母校に指導と指揮(合奏)のためにちょくちょく出向くことになった。

母校の吹奏楽部は高校3年生になったばかりの4月に行う定期演奏会で引退となるので、実質的に2年生が最上級生であり、最後の1年間となる。

渚はクラリネットパートの2年生だった。

目が大きくて、人懐っこくて、美人だが基本的にヘラヘラしていた。初対面の時からヘラヘラしていた気がする。それが僕の緊張を解いてくれた。

僕は高校時代はテューバという低音楽器をやっていたが、大学ではクラリネットをやっていたので、指導では低音パートとクラリネットパートが僕を取り合うようになった。

「先輩は元テューバなんだから低音の指導をする」

「先輩は今はクラリネットなんだからクラリネットの指導をする」

という感じで攻防が繰り広げられた。僕はどっちの指導でも良かった。

渚はいつの間にかクラリネットパートの学生と僕をつなぐような役割になっていた。

低音パートに頼まれて指導をしていると「先輩はクラリネットなんだから低音じゃなくてうちの教室来てくださいよ」などと言いながら低音パートの教室に入ってくる。

僕は20歳くらいで、彼女は17歳だったが、僕は人懐っこく大胆で傍若無人な、でもどこか繊細さを感じさせる彼女に次第に惹かれていった。

彼女の愛読書は「完全自殺マニュアル」で、ヴィレッジヴァンガードに足しげく通ういわゆるサブカル女子的な子で、僕はもうサブカル的なところから足を洗っていたのでそこはどうかなと思ったのだけど、誰もが通る道だろうと思って微笑ましく話を聞いていた。

とはいうものの、大学生が17歳に手を出すのはいかがなものか。いかがなものであろうか。

そんな考えがあったので、何も起きないように、起こさないように振る舞っていた。

楽しい日々はあっという間に流れてしまう。定期演奏会が終わったら、お別れとなる。実に数ヶ月だけの付き合いである。

当時はガラケーの時代で、SNSもmixiが出てきたくらいの頃だった。お互いに連絡先は携帯のメアドのみしか知らなかった。

ある日の帰り、電車が一緒だったので、「君が20歳になったら一緒に酒を呑もうよ」と言った。彼女は嬉しそうに笑って「はい!」と言った。僕は酒を呑めないのだけれど。僕は成人した彼女に会うのが楽しみだった。

そしてその約束は果たされなかった。

僕は翌年以降の指導について特に依頼もなかったのでもう母校に行くことはなくなった。大学の自分の部活がかなり忙しくなっていたし、単位もやばかった。恋人もいたし。

そんな感じで母校の後輩とは疎遠になってしまった。

ついでに僕は携帯の機種変更をするときに連絡先のデータを吹っ飛ばしてしまい、渚も、彼女につながる他の後輩も、誰とも連絡がつかなくなった。

かくして、約束は果たされなかったわけである。


社会人になって、しばらくしてから井の頭線沿いの浜田山駅の近くで一人暮らしを始めた。吉祥寺や下北沢にしばしば遊びに行くようになった。

ある日、吉祥寺をぷらぷらしていると、彼女によく似た人を見かけた。

僕がゴタゴタした雑貨屋を出るときに、すれ違ったのだ。女友達を連れていた。「人違いだろう」と思って店を数歩出た。

でも、もしかしたら彼女かもしれない。すぐに振り返ったが、二人は一瞬のうちにゴタゴタした雑貨屋の人混みの中に消えてしまっていた。

僕はなんとなく探してはいけない気がして、店を離れた。

それからずっと、彼女を探している。

なぜと言われてもよくわからない。何がしたいわけでもない。

ただ、生きているか死んでいるかもわからないので、ひとまず生きていて、まあまあそこそこにそれなりの幸せの中にいるということを確認したい気がする。

でも彼女はどのSNSにもいない。この先も見つからないかもしれない。

どこかで幸せに生きていることを願うばかりだが、出来れば会って、くだらない話でもしてみたい。そのとき僕は、呑めない酒を呑むよ。

渚、君は元気だろうか。

渚、またあの頃のようにヘラヘラと笑ってくれないか。

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